感染者6
腹部に走る痛みから来る冷たい汗を拭いながら、時雨は作戦開始から三十分、マイクを片手に一人屋上で歌い続けていた。
医者からの絶対安静を振り切っての作戦参加をしているのだから、悪化を辿るのは目に見えていた結果だ。
更には一人規定ルートを外れての遠征は、その作戦中でかろうじて閉じていた傷口に最後のトドメをさした形になったのだろう。
脂汗とも付かぬ、ベッタリと染み付く不快感にズキリとした痛みが腹圧を掛ける度に迸る。
外は秋晴れが続き、体感としては熱い筈にも関わらず、指先から体温が奪われているのを時雨は感じ初めている。
だが、こんな事で歌を止めてしまう訳にはいかない。
歌姫の替え玉として、此処に立っている以上、時雨は歌姫として歌い続ける義務がある。
それは奴らの気を引き、多山大学側から川を渡ったこちら側へ引き寄せる役割を担っている事ともう一つ、歌姫が此処に居るという事を知らしめ歌姫参加の元、歌姫攻城作戦が完遂したのだという認識を植え付けるためだ。
作戦の主要である歌姫を逃したのは誰でもない時雨であり、例えそれが八城によって半ば仕組まれていたとしても、友人を助けないという選択を時雨は選ばなかった。
選びうる選択が一つしかないのなら、時雨は誰を恨む事も筋違いだと納得している。
そして納得しているからこそ、こうして伴奏のない中四年前の記憶にある音をどうにか拾い集めながら時雨は歌を歌い続けていた。
だが歌えば歌う程、体温が奪われ
体温が奪われる程、痛みが痺れに変わり始める。
息苦しさから来る吐き気を飲み込みながら、記憶の中にある歌を絞り出している最中、屋上で歌っていた時雨は足下に集まる感染者の変化に気付く。
血の流し過ぎから来る幻覚かとも思ったが、それはあまりにも生々しく見覚えのない変化だった。
突如として感染者の動きが止まり、踞ったかと思えば『フェイズ1』の感染者の身体は醜く膨らんでいく。
フェイズ1はフェイズ2へ
フェイズ2はフェイズ3へ
次々と多彩な変化を遂げていく。
作戦の想定として、時雨の元まで辿り着く感染者の数は多くとも数十という話だった筈なのだが、時雨の前には数百は優に上回る数の感染者が大挙して押し寄せている。
屋上で歌い続けている間の安全を守るため紬が学校側から押し寄せる羽付きのフェイズ3を打ち落とし続けている筈なのだ。
そして紬によるうち漏らしが無い限りは、時雨の居るこの場所は間違いなく安全の筈だった……
だが、目の前に広がる状況は一変する。
「何が起きてやがる……」
時雨はマイクの音源を切り、一人そんな事を呟いた。
最も高い建物の屋上に居る時雨は、全ての状況が見えていた。
八城から渡されていた、インカムに着信を知らせる小さなアラームが鳴ったのを確認し、インカムの通信を正常値に合せる
すると、通信を寄越した相手は息も疎らに、怒鳴りかけて来た。
「時雨!今直ぐそこから逃げて!ピクシーが!」
その声は時雨の安全を守っている紬からの着信だ。
「紬か?状況は見えてるぜ……だがよ、逃げるつっても、此処から何処に逃げりゃあいい?」
時雨は、開いた傷口から流れ出る血液を手のひらで押さえつけながら、痛みのあまり地面に座り込こむ。
とうの昔に限界は超えていた時雨は、一瞬でも気を抜けば意識を持って行かれる事が分かっていた。
そんな時雨に逃走可能な行動範囲は限られている。
「時雨、お願い!そこに居ては駄目!今直ぐ逃げて!」
「ハハッ……駄目って言われてもなぁ、随分血を流し過ぎたみてえでよ、私はもうここから一歩も動ける気がしねえ……」
頭痛に目眩。時折押し寄せる吐き気が平衡感覚を奪い、傷口が熱を持ち呼吸を吸込む度に、むせ返る。
走る事はおろか、歩く事すらままならない時雨にとって逃げる事も隠れる事も困難な状態にあった。
「なら!私がそちらに行く!それまで……」
紬が言葉を続けようとした最中、時雨は直上に出来た影を見上げていた。
「あぁ……そりゃあ楽しみに待っていたい所なんだが……ピクシーとか言ったか?丁度ソレっぽいのが目の前に居るんだがよぅ、どうやってお引き取りしてもらえばいい?」
時雨の霞む視界に見えたのは、骨格を露出させ下半身に臓物をぶら下げて飛ぶ異形の存在である。
羽を広げ、卵管を垂らしながら空を舞う異形は、へたり込む時雨を上から見下ろしていた。
「時雨!お願い動いて!ピクシーと戦っては駄目!」
「おいおい、無茶言うぜ……紬も、大将もよう……」
時雨は量産刃の鞘を杖代わりに、屋上のフェンスに背中を付けて痛みに抗いながらもどうにか立ち上がり、屋上の出口ヘと向かおうとした所で、ピクシーが時雨の行く手に立ち塞がる。
「……紬よう、悪いがどうやら私は行かせちゃくれねえらしい……」
「駄目!時雨も!他の全員も絶対に生きて帰る!八城くんと約束した!」
「ハハッ、そりゃあいいな……最高だ……」
時雨はそう吐き捨てると、耳に当てたインカムから目の前に意識を切り替える。
三メートル程もある異形は、屋上にて時雨と対峙する。
相手は無傷の異形の化け物。
対する時雨は、心もとない刀を引っさげ頼りない足取りをどうにか四肢に力を入れて立っている。
「ここいらで格好良く、コイツを殺せりゃ最高だが、私には出来そうもねえなぁ……」
この世界に予想外を起こす存在があるとするなら、それは感染者に置いて他に居ない。
人は感染者を超える予想外を起こせず、負けを積み重ねて来た。
ただ、時雨にとってたった一つ予想外があるとするなら、それは東雲八城だったのだろう。
予想外も予想外、蚊帳の外から飛び出して来て、状況を一変させたあの男。
もう一度『大将』と……時雨にとっては屈辱的である称号を譲らざるを得ず、そして一番であると認めた背中が思い返される。
だが、此処には絶対に来ないのだろう。
時雨が今最も欲しい予想外は、今まさに予想外を起こすべく、他の場所で戦っている。
「情けねえ……私は随分大将に依存しちまってたみてえだな」
自分の力を信じていないわけではない。
ただ、八城をみて、桜を見て、紬を見て、そんな自分の力を知っているからこそ、この場を生き残れない事を時雨は確信していた。
視線の先から、大振りな巨体がうねりを上げる。
撓った内臓がその質量を持って、時雨の身体目掛けて迫ったのを時雨はどうにか量産刃で往なそうと試みたが思った様に力が入らず、時雨は身体ごと反対側のフェンスへと身体を叩き付けられた。
口の中に血の味が広がり、布で押さえていた傷口から鮮血が噴出する。
衝撃から数秒間、意識が飛びかけたが痛みによって意識を叩き起こされた。
「クッ……痛ぇじゃねえかよ……クソッ、最後の瞬間まで起きてなけりゃいけねえなんてよう……随分こいつも悪趣味じゃねえか……」
のたり、のたり、と屋上の床を人の内臓の様な器官が這いずって来る不気味な音が時雨の元へ近づいて来る。
時雨は口元に垂れた血を拭い弾き飛ばされた量産刃をどうにか摑み取りなけなしの力を込めて剣先をピクシーへと向ける。
状況は最悪。
おまけに体調も悪く、
往生際も悪く、
諦めも悪い。
ただ一つ悪くない事があったとすれば、それは最後の最後まで橘時雨で在り続けた事だろう。
「あ〜あ……クソったれ、最高に……かっこわりいなぁ……」
仰け反った卵管の最後の一人振りが時雨に迫り、大きなうねりを伴って振るわれた直後、ピクシーの巨体が後ろから刺し貫かれ、そのまま重力に従ってその巨体を分断すると、振り抜かれた卵管は主柱を失い、時雨から大きく逸れたフェンスへと直撃する。
絶対に当たると確信していた。その攻撃が時雨の見る最後の光景だと思っていた。
助かる筈のない攻撃が、向こうから逸れた。
イヤ、違う。誰かが時雨から逸らしたのだ。
世界は、予想外を起こさない。
だが一人で起こせぬ予想外を人類は人々の少しずつを寄せ集めて作って来た。
それは知恵であったり
技術であったり
時の運でもあったりするが
少しの勇気
と、人との繋がりが、時として大きな変化をもたらす事を時雨は知っている。
「時雨、良く耐えたわね。偉いわ」
崩れ落ちるピクシーの背後から、流暢な日本語とブロンド髪を屋上に吹き抜ける風に靡かせながらその女性は現れる。
「ハッ!クソったれ暴力シスターがよう!来るのが遅せぇよ馬鹿野郎!遊び疲れちまったじゃねえかよ!」
「あらまぁ、以外と元気なのね。それから口が汚いわよ、時雨」
日本人離れした顔立ちには似合わない無骨な隊服を身にまとい、女性らしい華奢な身体に反比例する大太刀を振るうその姿は、時雨のよく知る人物である。
「こう言えば孤児院の餓鬼共はどうしたんだよ……それに、こんな所に一人で来て、テメエは大丈夫なのか?」
その人物は時雨のよく知る人物であると共に、東京中央によって戦場へ出る事を許されていなかった人物でもある。
仮に東京中央の静止を振り切り、この場所に立っていたとしたら、彼女は戻るべき場所を失いかねないだろう。
「あらあら?心配しているのかしら?でも大丈夫よ。孤児院の子供は桃ちゃんと美月ちゃんが面倒を見てくれているから。それに私はちゃんと入隊許可を貰って此処に居るもの。だから作戦の着任許可を貰いに隊長の所へ行く途中にとても素敵な歌声が聞こえたものだから、つい寄り道してみたら同じ隊の仲間が居るんですもの」
大規模作戦の最中、一人時雨の居るこの場所まで辿り着いたという事も驚きだが、時雨には聞き逃せない驚きがもう一つあった。
「同じ隊だぁ?テメエ!同じ隊ってのは、どういう意味だ!」
「あらあら。そんなに驚かなくてもそのままの意味よ。東京中央遠征隊シングルNo.五。梅桃マリア、これから八番隊の軍務に着任する……まぁ、つまりこれからは同僚になるわね、よろしく時雨」
そう言って、マリアは時雨のインカムを優しく取り上げる。
「紬、聞こえているわね?こっちは私がどうにかするわ。それよりそちらの任務を遂行なさい。八城くんを助けるのでしょう?」
インカム越しに驚きを露わにする紬だが、今それを聞いている暇はない。
「……了解した。だけど、くれぐれも気を付けて。ピクシーは普通じゃない」
紬にとっては、インカム向こうで何が起きているのか分からない状況から出た心配だったのだが、目の前で繰り広げられていた惨殺に、紬の言葉は杞憂だったと言えるだろう。
身体を引き裂かれながらもがくピクシーに、マリアは剣先を閃かせ塊を二等から四等に切り分ける。
「あらあら、了解。気を付けるわ」
インカムの会話が途切れ、屋上には旋風が舞い降りる。
大太刀で断ち切られたピクシーは引き裂かれた身体を再生しようとしているが、四等された三つの塊が動いていない所を見るに、感染体の在処は動く一つに絞られる。
更に二等分に切り分け、それを更に細かく切り刻んでいく。
「まあまあ、まだ動くのね。一体何処まで斬られれば死んでくれるのかしら?」
ザクザクと畑でも耕すかの様に、大太刀の先端を使い、ピクシーを細切れに切り刻んで行くマリアに、他の吐き気が時雨を襲う。
「へへっ……生きてりゃ良い事もあるもんだぜ……バケモンが、もっとヤバい化け物に殺されてらぁ」
時雨は一人、何処までも透き通る青い空を見つめながら、目の前で繰り広げられる余りにも惨いその光景から、ひっそりと瞳を逸らしたのだった。




