柏木 光
「また、一人で行くのかい?」
「まあな、悪いな……いつも」
夜明け前、第一バリケード近くで八城と柏木は言葉を交わす。
「八番隊と天王寺催花の事を頼む」
「期限は後二週間だ、それまでにクイーンを倒す事が出来るのなら僕は構わないけれど…行く前に一つだけ、八城君にも出来る事と出来ない事がある、此処らが、僕らの諦め時なのかもしれないよ」
人生は妥協の連続だと柏木は骨身に沁みている。
だから諦める事をしない八城を痛々しいと思ってしまう。
「そうかもな、さっき紬にも同じ様な事言われたよ」
八城は孤児院でも会話を思い返す。
「でもこれは俺の引けない一線なんだよ、妥協出来ない一番最後だ。それぐらいは柏木にもあるだろ?」
柏木が思い返すのは一人娘、今なお東京中央最深部眠りについている、東京中央の根幹を成す一人であり、彼女が居るから東京中央にはクイーンが絶対に寄り付く事はない。
「懐かしいね…確かにその通りだ、この東京中央には存続して貰わなければ、僕が困る」
「そうだな、俺は「光」に助けられた、その分を返すまでは付き合ってやるよ」
「おや?八城は付き合ってくれるのかい?色々な所から来る情報では、かなり無茶をして危うく死ぬ一歩手前だったと聞いたのだけれど?」
柏木にしては珍しくコロコロと笑い八城は苦虫を噛み潰した。
「紬の奴…また何か言ったのか?」
「あの子は賢いからね。それに妙な所で勘がいい所もあるから、たちが悪い」
「賢しい大人よりはマシだ」
「全くその通りだ。いつからだろうね……八城、君が大人になったのは」
誰も居ない太陽すらも居ない夜更け前、聞こえるのは虫達の鳴き声と流れる河の音
「大人に一員に歓迎されてる様には見えないな」
「まさにその通りさ、僕は君を歓迎していないからね」
その一言から何方も言葉を発さず、数分
「そろそろ、時間だ」
「全く、八城はいつも無茶ばかりする。見ているこっちは気が気ではないよ……気を付けるんだよ」
「ありがとう、行って来る」
そして八城は暗闇と化け物が蔓延る街の外へと消えて行った。
柏木はそのまま踵を返し、議長室の隠し扉を開く。
ついこの間、開いたときは八城と共に降りた階段が妙に長く感じるのは、一人だからなのか……それとも、これから久しぶりに見る一人娘の事を思っているからなのか。
だが柏木にとって、そんな事は瑣末な事だ。
空になった防音性を急造した鉄扉の中の主は今、孤児院で久しぶりの人との団欒を楽しんでいる頃だろう。
これから向かう場所に柏木の用事はある。
それは、地下に元々存在したもう一つの扉。
数時間前に開いた扉の前を通り過ぎ、件の扉に手を掛ける。
重い鉄扉を開き、次の鉄扉は番号を打ち込んで行く。
過度なまでに厳重なロックを解除していく。
このステップを踏むには訳がある。
それは東京中央の最深部であり、最も重要な秘匿情報である。
シングルNo.と各中央の代表しか知らない事から推して知るべし事柄。
東京中央が発足から二年、襲撃を受けていない理由。
「少し、また広がっているかな」
柏木は溶液に満たされたカプセルに浮ぶ、少女と化け物が絡み付く個体を見上げていた。
少女の名前は「柏木光」柏木議長の実の娘である。
そしてその半身、化け物の部分は、この世界を恐怖足らしめる個体
「感染者」又は「奴ら」と呼ばれる頂点に君臨する「クイーン」である。
「クイーン」同士は一定の距離を保つ。
つまり「クイーン」が存在する東京中央には「クイーン」が近づく事はない。
カプセル内に眠る「クイーン」の少女、柏木光は二年前までは一華、八城と並ぶ最強の一角を担う戦力だった。
そう、この場所が、中央始まりの地であり、この場所が東京中央になった理由でもある。
その掃討戦で柏木は一人娘を失った。
いや、失っていればこんな気分を味わう事はなかっただろう。
「生きているんだね…光」
枯れ果てた涙は、もう出る事はない。
不甲斐なさから来る悔恨は今なお、柏木の思考の大半を占めている。
娘を逃す為に妻は死に、そして娘は、その戦闘の最中処置不可能の致命傷を負った。
何故こんな事になったのか。
事は二年前。
野火止一華は、この地に居たクイーンに、留めをささなかった。
その代わりに、クイーン本体を取り出し、致命傷を負った柏木光の身体に埋め込んだ
そして現在、柏木光だった物が、その残骸が今もこうして目の前に形作られている。
二年前に受けた筈の致命傷は塞がり、少しずつ化け物の体組織が柏木光の身体を覆っていっている。
後少しで、柏木光は目覚めるのかもしれない。
それが化け物としてか、柏木光としてなのかは分からない。
だから目が覚める前に、実の娘の身体に刃を突き立てる必要がある。
致命傷を負わせ続ける事……即ち完全な器にならなければ、クイーンはクイーンとして目覚めない。
柏木光が、意識を失う直前、遺言の様に残した言葉が柏木をこの地に縛り付けた。
「皆を助けて」柏木光は、八城と柏木に対してそう言い残し絶命した。
実の娘からの最後の言葉だけが、柏木の死へ向かおうとした足取りを重くしている。
「八城がね、皆を生かそうとしているよ、「光」が望んだ願いを形にする為にね……僕は駄目だ……父親としても中央の柏木議長としても、八城の覚悟には遠く及ばないのだから」
返事はない。
当然だ、この二年間で柏木光が目を覚ました事などない。
ただ時折、柏木光を覆い尽くそうとする、化け物の外装が奇妙に揺れ動くだけだ。
「八城もね、もうそんなに時間が残されている訳ではないみたいなんだ、と言うのも鬼神薬計画の後継が現れないまま、彼は完成を迎えてしまうから……
野火止一華も、今の中央を見たらさぞ笑うかな」
野火止一華はきっとその時を待っているのだろう。
それは柏木だから分かっていた。
隣で戦わず、一歩引いた所から彼らの戦いを見て来たから分かる事だ。
野火止一華は望んでいる筈だ。
そして、東雲八城もそれを望んでいる
「僕は、一人を大切にしてはいけないんだろう…でもね」
柏木が思い返すのは過ぎていった四年間の凄惨な記憶。
何時だって東雲八城は、柏木の近くに居た。
自分が命令を出し、それを八城が完遂する。
動力と歯車の様な関係が今では常になっているが、昔は違った。
柏木はもっと人であったし、八城はもっと子供だった。
何時からだろう……二人の関係がこんなにも無機質に感じる様になったのは
「光……君なんだろう」
名前を呟くのはこの抜け殻の柏木議長という人物が出来上がった根本的原因が今、目の前の少女にあるからだ。
「君が目を覚ました時、僕はもう君の父親として光の前に立てないのかもしれない」
中央を生かす為に様々な物と者を切り捨てて来た。
件の天王寺催花もその一人だ。
だが八城はそんな柏木の決定を否定するかの様に、零れそうになる人を救っていく。
何方が正しいなどという事は無い。
何方とも正しく、それ故に何方とも間違っているのかもしれない。
だが、それでも柏木は思ってしまう。
「僕は間違っているんだろうね」
個を生かす為に柏木はきっと間違い続ける。
そして八城は個を生かす為に正しいのだろう。
だが、柏木は全体を生かす為に正しくあり続ける。
そして八城は全体を生かす為に間違い続ける。
「八城には本当に困ったよ、僕じゃあの子を止められない。あの子を止められるのは、野火止一華か、後は……」
そう言って自慢の一人娘を柏木は見上げる。
今は瞳を閉じ、微動だにしないが、確かに今も此処に居る。
「早く起きて、八城を止めておくれよ……光」
そう言って柏木は部屋の明かりを落とし、来た鉄扉を順次閉鎖していく。
これで父と娘の再会は終わり。
その部屋に明かりはない、ただカプセルの中で揺蕩う少女が今日も変わらず東京中央を守っている。




