鬼影19
だから困惑した。
時雨には珍しく意味を聞きあぐねる事態がそこにあった。
雛は、時雨の思考の空白を縫う様にして、その間合いを詰め一刀を振り抜いた。
目と鼻の間、鋭さを伴った一刀が通り過ぎる。
続けざまにもう一刀を躱し、大きく後退するがそれを一足飛びに詰め、もう一刀。
堪らず時雨も刀を抜き。
躱す事を諦め防戦に転じた。
「大将を助けるだぁ!そりゃどういう意味だクソ餓鬼!」
「答える義務は、ないです!」
「てめえ…」
時雨は凌ぐ事に専念するが、幾らアイドル時代に鍛え、運動神経が良かろうと、その猛攻を凌ぐ事は厳しい。
上段からの切り込みは重く、横薙ぎの一撃は鋭く、その切り返しの中に粘り着く体術を織り交ぜて来る。
時雨の身体に打撲と裂傷がみるみるうちに増えていく。
屈んで避ければ足技に捕まり、足技をやり過ごしたとしても、次の剣戟に傷を負う。
傷を負えば動きが鈍り、動きが鈍れば傷を負う。
「なんだよ!その滅茶苦茶な体術は…」
呻く時雨に、今度は逆にニタリと笑って返す雛。
誰が見ても時雨の劣勢は明らかな物になっていく。
雛の剣戟は止まるどころか、さらに激しさを増していく。
振り下ろす刀を左斜めに受け流し、距離を取ろうとしたところで右肩に鋭い痛みが走った。
時雨の肩には小さなバタフライナイフがその刀身を半分程まで突き刺さっていた。
苦し紛れに雛の胴を蹴り付け、距離を保つ。
「痛い…ですよね?」
尋ねる悪意に、時雨の悪態が零れる。
「…クソったれ」
傷がない雛と、即座に傷だらけの時雨では勝敗は明らかだ。
「時雨さん…逃げて、下さい…」
美月は貫かれた足を抑えながら、その両手を自らの血に染め上げ床を這う
だが時雨にそんな思考を割く余裕はない、一瞬が生死を分ける攻防なのだ。
「立てねえなら、黙ってろ」
冷たく言い放つように、時雨は後ろで涙声を漏らす美月に振り向く事はしない。
ただその整った顔立ちを雛に真っ直ぐに向けていた。
「逃げた方がいいんじゃないですか?今の貴方じゃ相手にならないですからね」
心底面白そうに雛は微笑みを時雨に向ける。
時雨は血に濡れた頬を吊り上げながらその笑みに答える
「来いよ、クソ餓鬼。相手になるかならないか、論より証拠だろが」
雛は一つため息をつき、その笑みをより深いものにする。
「死んじゃいますよ?」
雛の言う通り、例え此処で死ぬとしても、時雨にこの二人の訓練生を置いて下がるという選択はない。
時雨の脳裏をよぎるのはあの僅かな時間。八城から頼まれた一言が大きい。
「ハハッ!クソ餓鬼が!殺せるもんなら!殺してみろ!」
時雨は自らの足下に落ちた血の水滴を靴裏でならす。
成功しても失敗しても、この傷は致命傷になるだろう。
だが重要なのは致命傷になったとしても、目の前の篝火雛という人物を止める事だ。
「もう一度言ってやる。来いよ!クソ餓鬼!!」
その合図と共に時雨は後ろ手に何かを美月に渡し合図を送る。
一刀真上から受け流し
二刀目を返す刀で受け止める
二人の距離は一足の距離もなく、前髪同士が掛かり合う距離
その繰り出される三刀目
それは常人の時雨では間に合わない。
早さが違う
次元が違う
だからその一刀を受けるのは刀ではない
焼き付く痛みに時雨は顔を歪めるが、絶対に瞳だけは閉じる事はない
突き刺された腹部からは、時雨のおびただしい量の血が滴り、その走る痛みが雛を掴むべきタイミングを教えて来る。
美月は大丈夫だ。今の状況を理解している。
一番の問題は、後ろで倒れている奴の名前は何だったか?
時雨はそれだけが気がかりだった。
久々に、気に入った友人とも言える人間の妹。
桜より時期的には少し早く咲く、花の名前だった。
好きだったな、サクランボより実が大きくて、
だからこそ、私好みの味わいだ
「桃!いけ!」
そう声に出した瞬間、時雨は決死の力を振り絞り、雛の右腕を掴み上げた。
カツっと後ろで何か音が鳴る。
それは靴音か?
はたまた刀を抜いた音か?
時雨の自信に満ちたその表情は、確実な勝利を確信している。
女優然としたその表情はだからこそ、騙された。
まだ間に合うと、雛の思考が叫ぶ
この状況を覆らせない物にする。
ただそれだけを念頭に置き、雛は空いている左で、腰にあるサバイバルナイフを抜きながら、半身で後ろを振り返る。
だから何も無いその空間を見た直後、雛は愕然とした。
確かに何かがあると、研ぎすまされた感覚の中で感じた。
だが現実はどうだ?
後ろで倒れている桃は荒い息を吐きながら、傷口を押さえている。
当然だ。
この状況は全て雛がやったのだから。
ではあの音は?
「みぃぃつぅきぃぃぃぃい!」
雛の叫びより早く、時雨は持っていた刀で雛の腹部を刺し貫いた。
「ほれ、お返しだぜぇ!」
差した直後に時雨は雛の身体を思いきり蹴飛ばした。
その衝撃で刀が抜け、雛の身体が床を二度三度転がりながら、倒れ臥す。
「何で…どうして…」
「てめえ、今、桃を敵だと思いやがったな?」
時雨は、自身に刺さったままの刀をそのままに雛に問い掛けた。
「だって…だってぇ…」
「なら、お前はこいつらに負けたんだ。よく憶えとくんだな」
雛は薄れていく意識の中悲しそうに見つめる美月の顔を目に焼き付ける。
そして、時雨もそこまでが限界だった。
「クソッ」
痛みに耐える事はこんなにも辛いのだと知った
「美月…わりい、助けに来といて、かっこわりぃがよぅ…だめ…みてぇだ…」
時雨も重くなっていく身体を壁に預け、その瞼をゆっくりと閉じたのだった。




