僕と護民官ペトロニウスと創作論
いきなりなんだけどさ……なろう小説って何の為にあると思う?
作者の欲求を満たす為にある?読者の欲求を満たす為にある?
……うん。殆どの人が作者の為、或いは読者の為、って答えるだろうな。だけど、僕の考えは違う。なろう小説はなろう小説自身の為にあると思う。
え?何を言ってるのかわからないって?……例えばさ、あなたの書いている小説が感想欄で酷評されたとするだろ?
それを見たあなたは凹むかもしれない、怒るかもしれない、でもさ……それは間違いだ。評価というのは作品自身に付くものであって作者に付くものではないよな?
だからさ、作品が批評されて作者が凹んだり怒ったりするのは筋違いで、批評に対して立ち向かうのは作者じゃなくて作品が作品そのものの力で立ち向かうものなんだ。
作品は作者から独立しているんだ。自立していると言ってもいい。
作品と読者の関係にも同じようなことが言えるよな?作品は読者とは独立した存在だ。
連載中の作品なら批評という形で間接的に介入できるかもしれない、しかし基本的に読者が出来ることはそれを読むか読まないかの判断くらいだろう。そして読者がいなくとも作品は存在できるのだ。
ここで冒頭の話に戻るけどさ……作品は作者の為に存在する道具ではないし、読者の為に消費される道具でもないってわけだ。
作品は作品自身の為に存在してて、作品自身を肯定するのはどこまでも作品自身でしかない。だから、僕たちは作品の独立を理解して尊重しなきゃいけない。
作品の独立を守れないとき作品は歪んでしまう、作品だけでなく作者も読者も自ずと歪んでしまうだろうな。それが良いことか悪いことなのかは僕にはわからないが……不幸な出来事に思える。
逆に作品の独立が守られるとき、例えその作品が読者に全く見てもらえず、作者にさえ忘れ去られたとしても、作品の意味と価値は失われない。
作品自身が作品自身を肯定し続けるからだ。それは幸福なことに違いない。
こうして書き上げてみると、なろう小説……即ち"物語"ってのは僕たちの人生に似てると思わないか?
僕の人生は作者や読者(僕の人生における作者読者が何に当たるのかは説明はしない)からは独立している。
僕の人生はどこまでいっても僕の人生によってのみ肯定され続ける、ぶっちゃけて言うと、僕を幸福にするのは僕自身しかいないのだと信じている。
いや、これはもう、物語≒人生と言い切ることにする。
確固とした自己肯定を持った多くの物語が、多くの人生が、認め合い否定し合い響き合い、そうして産み出された波紋が世界を形作っていく。
そこで新しい物語が産まれるのかもしれないし、僕たちはより大きな物語を共有できるのかもしれない、遠い理想に腕を伸ばすことだって出来るのかもしれない。
だが、それはお互いの物語≒人生の独立に対して敬意と尊重を持ってこそだ。
とまあ、なんか偉そうなことを語ったところで、現実の僕は薄汚れているしとっくの昔に歪んでいる。
人生や物語の独立とか意識高そうなことなんざ、すげーどうでもいいし、そんなものはこれまでにいくらでも踏みにじってきたし、踏みにじるのだ。
突然だけどタイトルにある護民官ペトロ二クスってのは猫の名前だ、時間を超えた猫の名前だ、そして足元でにゃーにゃーうるさい猫の人生や物語なんて僕が本気を出せば瞬殺なのだ。
「僕にお前の命の輝きを魅せて見ろりん!」
大好きな一輪車で鍛え上げられた僕の豪脚によって一撃で道路に飛び出していった護民官ピートは運悪くやってきた暴走トラックに撥ねられる。さらば護民官!
ベキベキベキベキベキベキベキベキベキベキベキベキ!
護民官の最期を見届けた僕の耳に異音が聞こえた。それと同時に僕の体から力が抜けてゆく。
これは猫がトラックに撥ねられた音ではない、僕が背後から襲われた音だ。通りすがりの通り魔だ、通りすがりの通り魔にやられたのだ。
背後から突然襲われ最期を迎える、僕らしい末路と言えば僕らしい末路だったのかなあ……。
──だがすこし待って欲しい、確かに僕と護民官ペトロニウスは生きている間はお互いの物語を尊重することが出来なかった、物語を分かち合うことが出来なかった。
しかし、僕が通り魔に刺され、護民官ペトロニウスがトラックに撥ねられることによって、ようやく僕たちは一つの絶対的な物語を分かち合うことが出来た。まさに完全なるハッピーエンドじゃないか。
すげーどうでもいいことだけど……通り魔に刺されたり、トラックに撥ねられた者は、異世界に転生するって相場が決まってるんだ。




