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リュウイチは科学部に入り、水質調査だの古代米の栽培だのを通じて得意な理系科目に一層専念し、リュウジは相変わらず自由奔放に、何でもかんでも目前の興味の惹かれることに脚を突っ込むばかりで何の部にも入らずふらふらしていたある日、学校前のゴミ捨て場に古いエレキギターが捨てられているのを発見した。
ギターの弦は錆びていてボディには傷もあり、随分古そうではあったが、弦をそっと弾いてみると音がした。リュウジは何故だかそれにとても心惹かれ、どうにかして弾けるようにならないかと考え込んだ。たまたまそこにクラスの友人が通りがかり、相談をすると、「駅前の楽器屋行って、聞いてみりゃあいいじゃん」と言われ、そのまま教わった通りの楽器屋に持って行った。
持ち前の馴れ馴れしさで、ギターにはたきを掛けていた青年に「済みません。これ、さっき拾って弾きたいんですけど、どうしたらいいですか。」といきなり話しかけた。
青年は驚いたものの、何分ギター好きでこの仕事に従事しているのである。ボロボロになったギターをあれこれ検分しアンプを通してみると、普通に音が出た。
「ネックの反りもないし、弦を張り替えれば使えるようになるね。」
「弦って張り替えるの幾らするんですか。」
「うーん、うちで一番安いセットだとこれかな。」店員は550円の値札の貼られた弦を持ってきた。
リュウジの鞄には今月の小遣いの千円札が入っていた。
「自分で張り替えられるんですか?」
「そうだね、普通は自分でやるよ。簡単だし、ペンチがあればすぐできる。今ここで教えてあげるよ。」
そう言われてリュウジはとりあえず小遣いを叩いて弦を購入し、その場で弦の張り替え方を教わった。店員はその最中この人懐こい少年とあれこれを会話を交わす内に、リュウジが自分が施設出身であること、限られた小遣いでこれからギターを弾けるようにしたいことを知った。それで店員は快く、「わからないことがあれば、いつでもおいで。」と言ってくれた。それから楽器屋に併設されているギタースクールで使用し、そろそろ処分するはずだったという、古いギター教本を数冊わざわざ持ってきてくれた。
「この通りに練習すれば、基礎はちゃんと身に付くから。もしわからないことがあれば言ってよ。俺、ここの講師もしてるんだ。」
リュウジは喜び何度も礼を言って、それら一式を施設に持ち帰って来た。一体どうしたのかと瞠目する職員にリュウジはギターを拾ってきたのだと言い、でも、誰かの持ち物ではないのか、警察に届けるのが先だろうと叱咤され、でも、ゴミ捨て場にあったのだから誰の物でもないと言い張り、とりあえず納得、とまではいかぬがリュウジの私物だということを知らしめると、それからリュウジは憑かれたようにギターに専念し出した。
一体何が面白いのか、学校から帰って来るなり食事も忘れ、寝もせずに弾くので、職員からは夜九時過ぎには音を出さぬこと、と厳命したら、なんとリュウジは夜中に施設を飛び出して裏山に持って行ってまで弾くこととなってしまった。
そこで騒音問題になってしまっては事であると、職員はしぶしぶ施設の離れにある昔使われていた講堂を、リュウジのために特別に開放した。
そこでリュウジは一層寝るのも惜しんでギターを弾くようになった。もとより娯楽なんぞ一切無縁に育ってきた子供である。小学生時代、級友たちのゲームの話やら映画の話やらには一つもついて行けなかった寂しさが、一気にある衝動として押し寄せ、永の親友であるリュウイチも呆れさせる程にギターに専念し始めたのである。
それを端から嬉しがったのは、一人、アイナだけであった。リュウジが学校から帰ってきて、ギターを持って講堂に行くと、アイナはいつもニコニコしながら付いて行って、リュウジのギターを聴いていた。
夜の講堂はしん、と静まり返っていて虫の声と鳥の声が聞こえるばかり。リュウジの音は木造の講堂で美しく響いた。
「俺は将来、ギタリストになる。」いつしかリュウジはそんなことを口にし始めた。
「うん。」アイナはやっぱりにこにこしながらそれを聴いている。
「アイナは?」
「アイナは、……おはなやさん。」
「そうだよな。だってアイナはもうずっと花係だしな。厭きねえんだろ?」
「うん。」
「将来、アイナがお花屋さんになったらさ、俺、買いに行ってやるよ。」
「うん。」
「ちゃんと、いらっしゃいませって言えるか。」
「言える。」
「じゃあ、大丈夫だな。」
錆び切った扉をぎい、と言わせ、「リュウジ?」そこにリュウイチがやって来た。
「ほら、おにぎり。夜食に貰って来てやったよ。」
「おお! サンキュー!」
リュウイチはラップに包まれた一番大きなおにぎりをリュウジに、一番小さなおにぎりをアイナに手渡した。
「ちゃんと寝る前に歯磨きなさいって、遠藤さんが。」
「わかってるって。」早速頬張りながら、もごもごと答える。
アイナは大きく口を開けると、おにぎりを齧り出した。
「旨いな。」
三人は暫く無言でおにぎりを食べていた。遠く蟋蟀の声が講堂に響いてくる。
「リュウイチは今日、部活、何やってきたの?」
「今日も水質調査。微生物がどんどん増えて来てさ、このまま順調に行けば、古代米が大きく育つよ。」
「凄ぇな。リュウイチは、立派な医者になるよ。アイナはね、何になりたいか知ってる?」
「ええ、何だろう。シュークリーム屋さん? お花屋さん?」アイナは週に一度のシュークリームのデザートを楽しみにしているのである。
「おはなやさん。」アイナはニコニコしながら答える。
「やっぱな。リュウジは、……ギタリストになるんだろう? そしたら、いつか東京へ出てバンドを組むの?」
「勿論。だから俺、高校には行かないよ。」
「は? ……嘘だろ。」リュウイチは目を丸くした。
「嘘じゃねえよ。お前に嘘吐いてどうすんだよ。」そう言うリュウイチの顔はやけに期待に満ち満ちていた。
「そんなの、職員さん許可する訳ねえじゃん。だって、いっつも社会で通用する力を身に付けなさいって言ってんのに。」
「許可したってしなくたって、俺はそうするよ。」もう決まったことだと言わんばかりに、リュウジは平然とおにぎりを口の中に押し込んだ。
リュウイチは思わず息を呑んだ。それが脅しでも単なる希望でもないことが、直観されたので。
リュウジは食べ終えてラップを丸め、ポケットに突っ込むと、再びギターを掻き鳴らし始めた。
--昨今は練習の甲斐もあり、より自分の気持ちが音に代弁されるようになってきたような気がする。心の奥底に巣食っていた劣等感、寂寥、孤独感、そんなものは無論日常で言葉にすることはおろか、意識することさえないのに、ギターを手にすると不思議である。一気に覚醒し、心に忠実な音になって空気を振動させ、広がっていく。
もうリュウジは、ギターと出会う以前の自分が信じられないような気がした。それぐらいギターは自分の大切な一部分なのであった。
リュウイチはアイナの隣に座り、リュウジのギターに耳を澄ませた。先程のリュウジの言葉が蘇る。
――俺、高校には行かないよ。――許可したってしなくたって、俺はそうするよ。
いつだって、リュウジは自分の好きなように生きてきた。規則やルールといったものが、彼の信念をほんの僅かだって制御できた例はなかった。思えば小学生の頃なんぞ、もしかするとあの頃から音楽に興味があったのか、放課後、誰もいない音楽室に潜り込んでグランドピアノをやたら滅多に叩いて、大目玉を食ったこともあったっけ。そんなことをする度に本人が叱られるのは当然のことながら、職員の誰彼が学校に頭を下げに行ったものだ。リュウイチはそんなことを、情けなくも懐かしくも思い出していた。
リュウジが弾いているのは、教本に載っていた昔の、何とかというロックバンドの代表曲であるとかで、心躍るようなメロディの中に寂寞とした感情が底流していたのを、リュウイチは目ざとく嗅ぎ取った。
――もしかすると、とリュウイチは思う。
いつもおちゃらけて、好き勝手ばかりやらかしているリュウジではあるが、心のどこかにはこういう空虚感のようなものがあって、それに襲われ侵略してしまわれぬように、必死に飾っているだけではなのかもしれない。
リュウイチも毎日の生活は充実していた。
勉強は昔から得意でもあり好きな方で、中学に入ってからは教科ごとに先生が異なり、内容も難化してきて、いよいよやりがいを感じられるようになってきた。
先生からも放課後特別に勉強を教えて貰ったり課題を貰ったり、自分の所属する科学部でも、水質の研究をしたり、夏には天文研究に山に行くのだと聞いている。とかく楽しみなことばかりである。
でも、ふとそんな日常を振り返り瞬間、心の中に冷風が吹いて全ての熱情を奪い取ってしまうようなことが、ある。これは何であろう。いわゆる、第二次成長期にありがちな、心の変化であるのか、自分には反抗する相手もないものだから、その代わりにこんな気持ちになるのか。リュウイチにはわからなかったので、特に言語化をすることもなかったが、リュウジにも同じような気持ちになることがあるのかもしれない、とふとギターを聴きながら思い成した。
リュウイチの音は、ただの空気の振動とは思われなかった。もっと奥深い、人間感情が確実にそこには内包されていた。それを静かな講堂で毎夜のように聴くことで、少なくともリュウイチにとっては内省を促し、大切な何かを思い起こさせるのであった。