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そうしてアイナは幼稚園に通うこととなり、カウンセリングを受けるため毎日は登園しないなりにも、少しずつ話もできるようになってきたし、どうやら先生にも恵まれ園に友達もできたようであった。
その間アイナもリュウイチ、リュウジ同様面会もなければ外泊もなく、そろそろリュウイチとリュウジにはアイナには親がいないか、仮にいたとしてもいないも同然であるという状況が呑み込めてきて、一層二人はアイナを実妹の如く可愛がった。
アイナはそんな日常に不満はないようであったが、しかし時折思い出したように、「おばあちゃん」、「ママ」とぐずって泣くことがあった。
それはいつも唐突に訪れ、遊びの途中であったり、食事の途中であったり、所構わずやって来た。そんな時はさすがの二人も手の打ちようがなく、どうにかその「おばあちゃん」を喚起させるであろう野の花を差し出して、慰めるのがせいぜいだった。
「ほら、アイナ見てごらん。お花。おばあちゃんが好きだったんだろ。」そう恐る恐るリュウジが言っても、大口を開けてわあわあ泣き始めたアイナが聞き届けられるはずもない。
すると担当の溝渕がやって来てアイナを抱き上げ、「もうちょっとしたらアイナ、落ち着くから、それまで二人は向こうで宿題でもやってなさい、ね。」と二人を追いやってしまうのだった。そんな時はリュウイチもリュウジも残念そうな顔をしながら、名残惜し気に溝渕に任せる他になかった。
溝渕は口にはしなかったが、どうやらそんな不安定な精神状態の時には決まってアイナはお漏らしをしてしまうらしく、翌朝は決まって外に小さな布団が干してあるのだった。
そんなアイナも次第に泣かなくなり、落ち着きを見せるようになってきた頃、いよいよリュウイチとリュウジと同じ小学校に入学することとなった。
どこぞの篤志家から贈られた真新しいランドセルを背に、アイナは内々憧れていたバスに乗った。無論両隣にはリュウイチとリュウジ、それから入学式ということで、保護者代わりの担当の職員さえいるのである。
アイナはいつも以上に無口だった。顔を強張らせ、歩みも何だか覚束ない。お下がりの紺色のブレザーに、赤いチェックのスカート、新品の靴下にローファーを身に付け、髪には溝渕が付けてくれた小さなリボンもあった。
アイナは物珍し気に車窓から見える山々を眺めていた。
「学校に着いたらな、校門の所に校長先生いるから、『おはようございます』って言うんだぞ?」リュウジはアイナの顔を見詰めながら言った。「元気に言ったら、褒めてくれるから。」
「最初は緊張するから、段々でいいんだよ。段々で。」リュウイチがそう言って優しく微笑む。
アイナは聞いているのだか、聞いていないのだか、無表情にただ窓の外を見詰めていた。
「もし小学校で勉強がわからなくなったら、リュウイチに教えて貰いなさい。」職員がそう言って笑った。
「そうだね、勉強はリュウジだ。」
「俺だって小一の問題ぐらい、幾らだって教えられる。」
「勉強のついでだって言って、悪戯を教えられちゃ困るでしょう。」
「そうそう、アイナには教室抜け出すこととか、プールに侵入することとか教えられちゃ、困るの。」
そう言われると弁明のしようもなく、リュウジはそっぽを向いて口を尖らせた。職員たちはその素振りをみて、クスクスと笑いを漏らし合う。
「今日は、きっと体育館で先生に名前を呼ばれるから、大きい声で返事をするんだよ。」リュウイチに言われ、アイナは心配そうにリュウイチを見上げる。
「『はい』って。」
アイナは不安げに肩を窄める。
「そっか、アイナ。最初が肝心だかんな。だからもしな、友達にいじめられたら俺に言えよ。すーぐ、飛んでってやるから。四年の教室は三階だろ、一年は一階。飛び降りたら、すぐだ。」リュウジは顎を反らして言った。
「飛び降りたらダメだろ!」リュウイチは慌てて叫んだ。
「でもそれが一番早いもん。……な、アイナ。」
アイナはにっこりと微笑んで肯いた。
小学校までは山道を十五分程である。小学校周辺は施設周辺よりは店もあり、道も舗装されていて広いが、各学年は一クラスだけしかない。小さな小学校である。それでも施設と小さな幼稚園しか知らないアイナにとって初めての集団生活の場となる小学校は、暫く動じられなくなる程、大きく堅牢な建物であった。
「おはよう。みんな、入学おめでとう。」古びた校門の前には、頭の禿げあがった老人が一人一人に声を掛けていた。そして登校して来た子どもたちはそこを通るたびに、皆一斉に大声で「おはようございます。」を繰り返すのである。
「アイナ、校長先生だよ。……おはようございます!」リュウジは元気よく、というよりもほとんど叫ぶようにして言った。
「おお、リュウジ君。今日も元気いっぱいだねえ。」
「ねえねえ、ほら、今日からアイナも一緒なの! 前言ったでしょう? おんなじ所に住んでる、女の子。」
「アイナちゃん、おはよう。今日からみんなと一緒に、勉強したり遊んだり、しようね。」
アイナは目を見開いて固まっている。リュウイチがアイナの両肩を揺すった。
「アイナは俺らみたいにお喋りじゃあないんです。でも、おはようは言えるよな。ほら、言ってみ。」
アイナはおっかなびっくり、「……おはよう。」と聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で呟いた。
校長はにっと笑ってアイナの手を取り、「おはよう」と言った。
アイナはリュウイチとリュウジに手を引かれ、職員を置いてきぼりにしながら昇降口へと駆けてていく。リュウイチもリュウジも、アイナが一緒に学校に来るということが嬉しくてならなかった。そしてそれがこれから何年も続くのだと思えば、周囲に自慢して回りたい程であった。