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虐待の報が入り駆け付けた職員が、赤子のリュウイチを抱いて帰ってきたのは予想できた範疇であった。その隣に母親がいることを除いて。
まだ若かりし施設長――その頃は一職員であったが――は、母親がほとんど職員に抱かれている子供を見向きもせず、客の如くに悠然と席に着き、茶を啜っているのをいぶかし気に見つめた。
「この子が泣き止まないと、私が近所にああだこうだと言われるでしょう。だから多少躾として手を出したけれど、それって親の務めじゃないの? 本当、こんな辺鄙な所に連れてきてさ、大げさ。」煙草臭いため息を吐く。
するとリュウイチが泣き出す。職員はリュウイチを抱いたまま立ち上がり、ソファの後ろに回りあやす。
「でも、……腕も、脚も、痣だらけじゃないですか。まだ、生まれて十か月ですよ? そんな何もわからぬ子供に、あなたは何てことをするんですか。泣こうが喚こうが、何をしたって愛情を注いで育てなければならない、そういう年齢ですよ。躾なんて早すぎます。」当時の施設長はそう、どうにか怒りを押し留めるようにして語った。
女はじろり、と睨み返し、「じゃあさ、言わして貰うけど、うちのアパートは壁が薄くて、下の階にはよる七時には寝っちまうジジイがいるし、隣は夜職のババアがいて昼過ぎまで寝てるっていうし、一体どうすればいいのよ!」と怒鳴った。「あんたが謝って回ってくれるわけ? 適当なこと言わないでくれる? 私だってねえ、子供がほしくて生んだわけじゃないの! 借金返すために働いてたら孕んじまって、最初は生理来なくて仕事できるしラッキーって思ってたら、腹が出てきて、医者行ったらもう下せないっていうしさ。こっちだって大迷惑なのよ! こいつのせいで男にはフラれるし、つうか、客も離れるし。何で男は責任取らないで、私だけが仕事までなくしてこんな生活しなきゃなんないのよ!」
リュウイチを抱いた職員が怒りを滲ませた表情で、女の背を睨んだ。
「わかりました。では、とにかくうちでお預かり……。」言い終わらぬ内に、
「とっととそうして頂戴。こっちだって忙しい中、こんな山ん中来てるんだからさ。ほら、早く書類でもなんでも持ってきて。ほら、急いで。」
職員二人のため息が応接間に響いた。
「リュウイチに、ママのこと、話すの?」ようやく泣き終えたアイナが、施設長に抱き付いたまま震える声で問うた。
「ねえ、お願い。言わないで。」
「どうしてだい。」
「どうしてって、あんな厭な人! あんなのがママだってなったら、リュウイチ可哀相だよ。ねえ、アイナ黙っててあげる。今日なんもなかったことにしてあげる。インフルエンザでずっと寝てたことにする。だから、だから。」
「ああ。今日、来たことはしばらくは言わないつもりだよ。でもお母さんが訴えを起こしたら、……リュウイチにも話を聞かなければならなくなる。……本当にそうするか、どうなのかはまだわからないが。」
「話って?」
「そう。リュウイチがどうしたいか。お母さんと暮らしたいか、どうか。」
「そんなわけない! そんなわけないじゃん! わかるでしょ? リュウイチはリュウジん所行くんだから。そんでアイナも高校出たら、そこ行くの。三人で暮らすの!」
「ああ、そうだな。」疲れたような溜め息を吐いた。
「ね。だからリュウイチを悲しがらせないで。ね。リュウイチは優しいの。だから、優しい人しか周りにいちゃいけないの。あんな人、絶対ダメなの。」
施設長は遠い目をしながら曖昧に頷いた。
何も知らないリュウイチが帰宅するのを見計らって、施設長はリュウイチを奥の応接間に呼んだ。すぐさまリュウイチは例の、この施設を出る際に聞かされるという親の話だと感づき、それがこんな風に唐突に訪れたことに驚いた。
リュウイチはバイト先でできた友人から貰った菓子を手に、促されるまま部屋に入った。
施設長はリュウイチをソファに座らせると、重い口を開いた。
「もう、お前がここにいるのもあと、半月だな。」
「そうですね。なんか想像つかないですけど。」
「今までリュウジのことも、アイナのことも、それからその他の子供たちのことを、一番よく面倒見てくれたことは、感謝してもし尽せない。」
「そんなことないですよ。俺こそ、職員の皆さんに世話んなって。いろいろ融通利かせてもらって、大学まで行かせて貰えることになって。まさか、自分が大学に行かせて貰えるなんて、思ってもなかった。」
「それはお前が特別に優秀だったからだよ。お前の努力の賜物だ。お前が後輩たちの希望の星となってくれて、本当にそのことも感謝してる。」
「いえ、そんな……。」リュウイチは鼓動を高鳴らせながら、本題を待った。
「お前がここを出ていく前に、お前の親について話しておきたい。」
リュウイチはさすがに黙した。親については、今までいろいろな想像を巡らしてきた。ふと鏡を見た時に、自分の顔は親に似ているのだろうかと思う時もあったし、自分が医師を目指してきたのは、もしかすると親がそのような職業に就いているのではないだろうかなどと思った時もあった。笑うと眉間に皺を作る癖があって、それをリュウジから指摘された時には、親もそんな癖があるのではないかと夢想したし、ある日なんぞは親が夢に出てきて、その幸福感にしばらく起き上がれなかった時もあった。もちろん、自分が捨てられたのだと悲観する時もあったし、でも胸を張れる生き方をしていたらいずれ会えるのだと、自己を励ます時もあった。つまり、リュウイチは親がないままに親を強く意識しながら生きてきたと言ってよい。
リュウイチはおのずと姿勢を正し、施設長の顔も制止できぬままひたすら次の言葉を待った。
「……、やっぱり言うべきだと思う。君にはそれを受け止められる強さがあると信じている。」
リュウイチは緊張に身を固くした。
「……君のお母さんが、今日お見えになった。」
それは予想だにしていないことであった。リュウイチはぽかんと口を半開きにしたまま、言葉を失った。
「お母さんは、リュウイチと暮らしたい。そう、強く仰った。」
施設長は目の前で茫然としているリュウイチを、申し訳なさそうに、苦しそうに、見た。
「お前のお母さんがここにいらっしゃったのは、十七年ぶりか。とにかく、お前がまだ十か月だった頃以来の訪問だ。それまで電話連絡をこちらから入れたことは、実は、何度もあるのだが、通じたことは一度も、ない。」施設長の額には脂汗が浮いてきた。できるだけ客観的に、主観を交えずに伝えようと思うものの、なかなかそれは難しい。
「リュウイチ。お前のお母さんが、どうして我が子をここに預けたかというと、……大丈夫か?」
リュウイチは生唾を飲み込んだ。
「だ、だ、大丈夫。」
深々とため息をついて続ける。
「まず、私らが君と初めて会ったのは、虐待の通報があったからなんだ。」
――虐待。リュウイチの思考は一気に遠のいた。
「A市のアパートで、始終子供の泣き声がすると。近隣の方からの通報で、我々が訪問することとなった。健康診断も半年以降は確認できなかったので、急を要したんだ。」
リュウイチは俯いた。
「駆け付けると、君の体には、……多くの痣があった。……それで、すぐにうちへ連れてくることとなった。リュウイチのお母さんは、経済的にも非常に厳しい状況で、子供を育てることが難しい状況だった。お父さんは、……わからないそうだ。君の戸籍には父の名はない。」
リュウイチは何も言い出せなかった。すべてから切り離されてしまったような絶望と痛苦が襲ってくる。
「でも、ここに来てからは同い年のリュウジと、競い合うようにミルクを飲んで、遊んで、大きな病気一つせず……。」
「……育てて頂いた。」
施設長は目を閉じて、二人の子供たちの過去に思いを巡らせた。「君との生活は本当に楽しかった。何度救われたかしれない。希望の星だった。大学進学ばかりじゃない。子供も職員も、みんな君のことが大好きだった。人として、私にとっては孫も同然の年齢だけれど、尊敬をしている。」
「そんな。……今日、母親はどんな様子だったんです?」
「……なんというか、非常に興奮していたようだ。君を渡せの一点張りでな。訴えも辞さぬそうだ。」
「僕の行先は告げないでください。」リュウイチはきっぱりと告げた。そこには血縁関係を断ち切るような、鋭さがあった。「僕はリュウジの所へ、……吉村さんの所で世話になります。高校を出たらアイナも呼びます。三人世話になるのは無理だろうから、それまでにはどっかアパートを借りられるように、バイトして……。」
「……そうか。」
「俺の故郷はここです。保護者の許可が必要だって時には、成人を迎えるまでお世話になってもいいですか?」
「もちろんだ。」
「ありがとうございます。」その笑顔は幾分大人びて見えた。
施設長は眩しいものでも見るように、しばらく目を細めてリュウイチの顔を見守っていた。
「俺はここの子供です。ここで育ちました。それを隠し立てしたくはないし、俺の誇りだと思ってます。」




