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リュウイチの大学合格の報は施設にも、通っている高校にも即座に届き、大きな歓喜をもたらした。
高校のウェブサイトにもその日のうちにでかでかと紹介されたのを、リュウジは誇らしげに何度も見た。それから半月後には週刊誌にも数行であったが、リュウイチが書いたという受験に至るまでのアンケート内容が掲載され、あたかも祭りの様相を呈していた。
そんな中に、リュウイチにとって予想外の出来事が起きた。リュウイチの親、を名乗る人間が施設にやってきたのである。
四日前にインフルエンザにかかり、熱は下がったものの登校や外出を禁じられているアイナが、ベッドの中から何気なく外を見ていると、見慣れぬ軽自動車が停まった。誰かな、視察の人かな、と思って見ていると、中から一人の中年女性が降り立ってきた。どこか苛立ったような、焦ったような様子があるのを、アイナは不審げに見詰めていた。
職員に見つかれば叱られるので再びベッドに入ってみたものの、先ほどの見慣れぬ女性のことが妙に頭について胸騒ぎがする。アイナは遂に意を決してそっと部屋を抜け出し、職員らのいる部屋の方へと足を向けてみた。
間もなくヒステリックな声が耳に入り、アイナの脚は竦んだ。。
「だから! 子供を返してほしいというのに、理由なんかありますか? 親が子供と暮らすのは当然でしょう!」
アイナは全身を固くした。踵を返すにも体が固まってしまって、動かない。だから暫くアイナはその声を聴き続けることとなった。
「子供と暮らせない親の気持ちが、あんたたちにはわからないんでしょう! 何ならしかるべき所に出ますか? いいですよ!」
施設長と思しき低い声が何度か諫めようとするものの、女は聞く耳を持たない。
「リュウイチを返してください!」
その言葉を聞いた瞬間、アイナの目はあっと見開かれた。その瞬間、体の硬直も解けた。アイナはばたばたとスリッパの音を立てながら慌てて自室に戻った。
今、リュウイチはバイトに出かけている。大学に合格をしてから、大学での生活費を稼ぐのだと言って春休み中は街にある小学生対象の塾で働いているのだ。だからそんなに遅くはならずに帰ってくる。早ければあと1、2時間程で帰宅してしまうだろう。
アイナはリュウイチとあの女性が出くわさぬようにと、そればかりを祈った。そうしている内にアイナの脳裏には忘れかけていた自分の母親のイメージが次々に沸いてきて、気分が悪くなった。あんな風に感情的で、よく自分に怒鳴り散らした。いつしかアイナは、応接間にいるのが自分の母親であるような気さえしていた。インフルエンザになり立ての頃覚えたような悪寒が全身に走り出し、アイナは再びベッドにもぐりこんで、荒い息を繰り返した。
昔、母親は自分のことを見てはくれなかった。いつも暗い狭い部屋に鍵を付けて閉じ込めていた。よく知らぬ男と帰ってきた。男がいる時には、絶対に音を立ててはならなかった。そうすればあんな風に怒鳴り、叫んで、自分を叩き、蹴飛ばした。痛かった。苦しかった……。
そんな人とリュウイチが暮らすことになるのは、絶対に許せなかった。リュウイチはあんなに努力をして東京の大学に合格したのだ。医者になるために。あんな人と暮らしたら、自分のように決まったご飯も貰えずに暗い部屋に閉じ込められ、気まぐれに暴力を受けることになってしまう。
アイナは頑なにそう思い込んだ。あんなに努力をしてきたのに。あんなにみんなに優しくしてくれているのに。あんなに周りに頼られ、幸せにしているのに。--リュウイチを不幸にはできない。絶対に。
アイナの体が、今度は明らかな熱を帯びてきた。アイナは再びベッドを出ると、今度は力強い足取りで先ほどの部屋へと向かった。いきり立った女の声が相変わらず響いている。しかしアイナは今度は動じなかった。
「親の気持ちもわからないで、よくこんな仕事してるのね! わかったわ! 今度は弁護士連れてくるから! 首を洗って待ってなさい!」扉が勢いよく開けられる。女は幾分充血した瞳で扉の外にいたアイナを一瞥した。一瞬驚きはしたものの、気にもせず高い足音を立てて去ろうとしたその時--。
「リュウイチはあげない。リュウイチはあなたとは暮らさない!」
女は振り向き、「黙れクズ!」と怒鳴った。
そして女はハンドバックを振り回し、アイナにぶつけようとしたのか、でも寸でのところでアイナが退き事なきを得た。
「親にも見放されてるクソブスが!」
「黙れ! 早く帰れ!」施設長が聞いたことのない怒声を女に放つ。
「言われなくても帰るわよ!」
女は勝ち誇ったような笑みを頬に浮かべると、履いていたスリッパを投げつけそのままいそいそと靴を履いて出て行った。
アイナは驚きに目を見開いたまましばらくそこにじっとしていた。
「アイナ、聞いていたのか?」
アイナは車の去っていった方向を微動だにせぬまま見つめていた。
「アイナ、まだ、部屋で寝ていないと。」
アイナの肩は上下している。
「アイナ?」
アイナはようやく今しがた気づいたかのように、施設長を見上げた。
「……リュウイチは、ママと暮らさないでしょ?」言葉にした途端、アイナの双眸から大粒の涙が零れ落ちた。
「アイナはママが嫌いだった。……大嫌いだった!」
大声をあげてアイナは施設長に抱き着いた。くたびれたシャツをしっかと掴んで、涙もよだれも出るのを構わず泣き続けた。
「アイナ、大丈夫だよ。リュウイチはお医者になるために、東京の大学で勉強するんだから。リュウジもいるところだ。吉村さんの所だよ。そこで、これからリュウイチは頑張って勉強をして、夢を叶えていくんだよ。」
「ママとは暮らさない? 暮らさない?」
「ああ。もちろんだよ。リュウジと、吉村さんと暮らすんだ。」施設長はそう言って、はたと厳しい眼差しを外に向けた。リュウイチは今やこの片田舎では有名人である。かのT大医学部に合格を果たしたというのは、この市はともかく県でもそうそう出るレベルではない。おそらくはその噂を聞き、その将来性を見込んで、今まで顧みることもなかった母親がやってきたのに相違ない。施設長の脳裏には、ちょうど十七年前のことが蘇ってきた。




