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ある日、リュウジがいつものように厨房に立って店主と店の仕込みをしていると、電話が鳴った。奥を掃除していた女将がそれに出、暫く話し込んでいるのをリュウジは特に意識することもなく聞いていた。
「……あら、そうなんですか。ええ、ええ、もちろんです。いいですよ。そんな、広くはないし、店もやってますからちゃんとしたおもてなしなんか全然できませんけど、まあ、二日三日ぐらいならね、構やしないでしょ。それに、リュウジが大層喜ぶでしょうよ!」自分の名が出されたことと、女将の声が次第に高揚して来るのに、リュウジはさすがに手を休めて耳を澄ませた。
「ええ、ええ。わかりました。もし道に迷ったりお迎えが必要なら、こっちの電話番号伝えておいてください。ええ、大丈夫ですって。ああ、楽しみだわ。」
そうして電話が切られた。満面の笑みのまま、女将はリュウジを見た。
「リュウイチ君、受験で上京して来るって。」
「あ、うん。」リュウイチの名に妙な緊張感を覚えた。
「それでね、その間うちに泊まることになったの。」
「ええ?」リュウジは思わず声を上ずらせた。
「ホテル代も結構するでしょう。だから、もし可能だったらって施設長さんから言われて。まあ、うちのそう広い家じゃあないけれど、前は子ども二人預かってたこともあるからね。部屋も一応空いてるし。そんなにおもてなしはできませんけどって言ったんだけれど、それでもいいって言うから……。」
「リュウイチが来るんだ!」リュウジはみるみる頬を紅潮させて飛び上がった。「こっち来るんだ!」
「医者様になるための大学受験だもんなあ、大したもんだよなあ。」店主も腕組みしながら言った。
「リュウイチ君は何が好きなの? 受験の日には、お弁当も持ってくかしらねえ。」
「縁起担いでトンカツだな!」
「あんた、それはダメだよ、お腹痛くなったら大事だからね! あったかくって消化のいいもので、でもお弁当にするから……。えっと。」
女将と店主はリュウイチの来訪に向けて食事だ、ベッドの準備だとあれこれ話し始めた。店主に至っては、作りかけのとんかつの衣を放ったらかしにして。しかしリュウジもまたリュウイチと会えるというその一点において、どこか現実離れしたような喜びを感じざるを得なかった。そして無事に合格をして、一緒に住むことができたら……。数年すればアイナも呼んで。リュウジの脳裏には幸福な将来が次々に具現化されていった。
「そうだねえ。ハンバーグぐらいならいいわねえ。男の子だし。ちょっとはボリュームあるのじゃないとね、受験も頑張れないから。」メニューの決まった女将が朗らかな笑みで言った。
そしていよいよリュウイチの上京の日がやってきた。リュウジに直接連絡が来たのは、ちょうど一週間前のことである。
「迷惑をかけるのは重々承知だけれど……。受験料や入学費は奨学金が使えるのだけれど、受験のためのホテル代が出なくて。おやっさんも自腹で何とかって言ってくれたんだけれど、特別扱いもあんまりよくないらしくって。吉村さんにお願いしてみようかって言ってくれてさ。俺もずっと学校で缶詰だったから、任せきりで悪いことしたよ。大学受験そのものをする孤児があまりいないから、今まで交通費のことであれこれ悩んだこともないらしくって、おやっさんも苦肉の策だったと思うんだよ。それで色々調べては貰ったんだけれど、宿泊はできても一泊五千円までの援助、とかなんだ。なかなか大学の近場でそういうホテルを探せなくて。遠い所だと、正直、電車の遅延とかがあると心配だし。その点、吉村さんのお宅は、大学まで一本で三十分以内だし、本当に勝手なお願いだとは思ったんだけれど、それ以外に方法が、なくって。」
申し訳なさそうな声は、おまけに疲れているようにリュウジには思われてならなかった。
「大丈夫だよ。女将さんも親父さんも、凄ぇ楽しみにしてるし。女将さんは本当に子ども好きで、世話好きなんだ。」
「うん。おやっさんからも聞いてる。安心して行って来いって、言ってくれてるんだ。」
「そうだよ。ああ、何か滅茶苦茶嬉しいな。リュウイチは緊張してると思うけどさ。そうだ、駅迎え行くよ。何時の電車かわかったら教えて。」
「ありがとう。」
その声を聞いた瞬間、リュウジはリュウイチが自分が父親を邂逅できたことに対する薄暗い感情なんぞ、一つも巣食っていないことを何故だか確信した。リュウイチはそんなものに心労を費やす程の馬鹿ではない。リュウイチは立派な医者になる人間なのだ。
「頑張ってくれよ。」リュウイチは心を籠めて言った。
「うん。」リュウジの声は疲れてはいたけれど、それはどこか達成感を秘めていた。
そして当日、リュウジは約束の時間よりも三十分も早く駅前に着いた。約束通り、美味しそうな匂いの漂うパン屋の前である。いつも慣れ親しんでいるこの場所にリュウイチが間もなく現れるというのが、どこか信じられないような気がした。リュウジは携帯を見ながら、電車の音が近づいてくるたびに顔を上げ、見慣れた顔を探すのであった。
何と声を掛けようか、疲れてはないか、腹は減ってはないだろうか、よく来たな、遠かったろう。掛けるべき言葉が次々と思い浮かぶ。でもリュウイチは受験のためにやって来たのだ。旧友と邂逅を喜び合うためではない、とは思いつつ、でも自ずと頬は綻んだ。携帯のメッセージに「そろそろ着く」、「今着いた」と入った途端、リュウジは慌てて周囲を見回した。
改札を抜ける人込みの中に、懐かしい顔が見えた。リュウジは周囲の目も忘れ、満面の笑みで大手を振る。
「リュウイチ!」人目もはばからず叫んで、駆け寄った。
困ったような嬉しいような表情、幾分薄くなったように思える肩、リュウジはリュウイチの腕を、肩を、しきりに叩いた。
「おお! 来たな!」
「ああ、来た来た。東京って所は随分遠いんだなあ。」
リュウイチは目を細めて笑った。こんな表情を、つい三年前までは毎日のように見ていたはずなのに、懐かしくてならない。何せ、二年前に社長と共に帰郷して以来なのだ。電話や手紙で互いの状況を報告し合ってはいた筈なのに、実際会ってみると二人の間に生じていた距離も時間も一気に溶けて雲散霧消していくように思われた。無論、親を知った知らぬという、くだらぬ差異も。リュウジは子どもの頃のように、遠慮なしにリュウイチの荷物を引っ手繰り、「こっちだ。」とよし屋への道を歩き出した。
「明日は、早いのか。」
「そだな。九時半には向こう着けるように、八時には出ようかなって思ってる。」
「そうか。大学まで俺も一緒に行くよ。」
「いいって、早いだろ。」
「早くねえよ。」
自分勝手なことを言う。それをやんわりとリュウイチが留める。そんなやりとりが懐かしかった。ほんのりと胸が温まった。間もなく到着すると、リュウジは、意気揚々とよし屋の戸を開いた。
「ただいま!」
「おかえりなさい。リュウイチ君、よく来たわねえ。遠い所大変だったでしょ。ささ、とりあえず荷物、……リュウジ、上の部屋案内してあげて。」
「うん。」
リュウイチが何も言い出さぬ内から、勢いよく女将とリュウジの会話は進んでいく。リュウイチは土産の入った風呂敷包みを紐解き手渡し、宿泊の礼を述べて、二階へと上がった。
「こっちが俺の部屋でさ、お前の部屋は、こっち。」
がらり、と襖を開けると綺麗に整った布団と、使い込まれた風のちゃぶ台が用意されていた。
「女将さん、勉強用に必要だろって裏の物置から引っ張り出してきてさ、でも綺麗だぜ。俺がちゃあんと拭いといたから。」
「ありがとう。」
「飯はさ、一階で食うんだ。お前マカロニサラダ好きだったろ? 女将さんに言ったら、鍋いっぱい作っちまったらしいぞ!」
リュウイチは俯いた。
「……え? まさか嫌いに、なっちまった? マカロニ。」
「違うよ。」リュウイチの声は微かに震えていた。「こんな、……良くして貰ってさ。有難いよ。本当に。」
「何、言ってんだよ。」しかしリュウジには解っていた。リュウイチは今日を迎えるために、店主や女将が心を尽くして行ってきたことを今はっきりと、解したのである。女将が昨今はほとんど使われていなかったこの部屋を、雑巾で二度拭き、三度拭きして掃除をしたことも、布団を何度も干してふかふかに仕上げたことも、それからたくさん悩んで受験生に合ったメニューを二日分考案して準備してきたことも。リュウイチにはそういう所があったことを、リュウジは思い出す。たしか、施設長はそれを気遣いだの、配慮だのと言っていたっけ。




