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「私は、……息子を育てるに値しなかった男です。……否、決して施設長さんの判断を恨みに思っている訳じゃない。当然の御判断だったと、今では思っています。あの時もし私が幼いリュウジを連れてきたとしたら、こんな風に育てることはできませんでした。私はあの時、……妻の死を知り、ならばと息子にと固執していただけなのです。自らの心のよりどころとして……。息子の将来や、家庭の愛情云々を真剣に考えていた訳ではない。いわば、妻の形見として欲しただけだったように思います。当時は無論、……あなたを恨みましたが、今、あの時もし息子を引き取ったならば、私たちは破綻していたと思います。私は毎夜妻への思慕と母への憎しみで、仕事も手に付かず、精神科に通い、薬も服用していたのです。副作用にも悩まされていました。まさに、人生で最もどん底を味わった時でした。それも自分の結婚生活を成り立たせる力が足りなかったせいで……。自業自得です。……もちろんリュウジをバンドマンとして、うちの事務所所属の大切なメンバーとして支えていきたいという気持ちはある。そして本心を述べるならば、生活も支えていけるならばとも……。でもリュウジが吉村さんの家で大切にされていることも、間近で見ています。その生活を無理矢理はく奪する権利は、私にはありません。」
リュウジはふらふらと立ち上がった。
「リュウジ?」女将が声を上げた。
「俺は親父さんことも、女将さんことも、それからもちろん社長のことも好きだ。『好き』の種類は正直それぞれ違ってっけど、でも、ありがてえっていつも思ってる。その中から一つを選ぶなんて、できない。」
リュウジは拗ねるように、責めるように、そうとだけぷつんと告げると応接間を出た。
「リュウジ!」店主が立ち上がった。
それを静かに施設長が制す。
「混乱しているんです。少しだけ、時間をやって下さい。」
女将も店主の腕を摑み、肯いた。
リュウジは俯いたまま玄関を出た。その時である。
「リュウジ!」重なった声は、懐かしきリュウイチとアイナのそれであった。リュウジははっとなって頭を上げる。するとそこには、見慣れぬ高校の制服を着込んだリュウイチと、花柄のスカートを穿いたアイナが駆け寄ってくるところであった。バスが二人を下ろし、去って行く。
「リュウイチ! アイナ!」
三人は駆け寄って抱き合った。一番背の小さなアイナは何度も飛び上がって、リュウジの頸に腕を絡めた。
「リュウジ! リュウジ! 会いたかった! どうしているの? なんでいるの? ずっといるの?」
リュウジはそれに答えようとして、何と言っていいのかわからなかった。父親という人が現れ、それは自分の事務所の社長だと思っていた人だった。母親は死んでいた。しかも自分を連れて自殺した。父親が自分を引き取るのか、でも自分は中卒の自分を受け入れてくれ、しかも家族としての愛情を注いでくれた店主と女将も愛している。どうやって生きていったらいいのか。
脳裏には幾つもの思いが去来したが、言葉は一つも出ない。ただ、涙が出た。何故かもわからず貰い泣きをしたアイナがリュウジの腰に抱き付いた。リュウイチは二人を連れ、自分の部屋へと招き入れた。
リュウイチの部屋は、リュウジと過ごした二人部屋である。二段ベッドもリュウジ用の机もそのままで、何一つ変わっていなかった。中学から帰って来てギターを真っ先に抱き締めた、あの、部屋だった。ここで自分は上京への夢を募らせた。そして東京でバンドを組んでライブをすることを。自分の曲をたくさんの人に聴いてもらうことを……。
リュウイチはリュウジとアイナをベッドに座らせ、一つ一つ解きほぐすように話を聞いて行った。東京での暮らしはどうだ、バンドは楽しいか、東京からここまでは随分時間がかかったであろう、疲れてはないか、そんな他愛のない話から、次第に本質へと踏み込んでいく。
「じゃあ、あの親父さんと女将さんも一緒なのか。」
「……うん、応接間で、村田さんと喋ってる。」
「そうか。……じゃあ、三人で?」
「あと、社長。事務所の、社長。」
「へえ、何でまた。」
「……親父だったんだ。俺の、本当の、親父。」
リュウイチの息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
「おやじ、……おやじって、パパ。……リュウジの、パパ……。」アイナのか細い、今にも泣き出しそうな声が響く。
「……何で。」わかったのだ、どうして。リュウイチも言葉を言い切ることなく澱んだまま呑み込んだ。
リュウジは力なく嫌々をするように首を振り、アルバイト中大火傷を負ったこと、その時幼い時にも同じような火傷をした記憶が突如蘇ってきたこと、それを何とはなしに事務所の社長に言った途端、血相を変えたこと、おそらくは社長はそれで自分が息子であると理解したこと、何よりも先程施設長が社長に対し「お久しぶりです」と挨拶を交わしたこと、二人は自分を巡って既に会っていたということ、すなわち社長が、実父であるということ。
言葉にすれば、偶然に翻弄されているにはせよ、改めてリュウジと社長とが親子であるという点において二人が一本の筋で繋がっていることが明確化した。リュウジははっとなって口を噤んだ。
「リュウジは、……パパが嫌いなの?」アイナが心配そうに問いかける。
「嫌い、……な訳ない。俺の曲を一番に評価してくれた人なんだから。それでツアーやるのに、あっちこっちのライブハウスに話までつけてくれて、俺らがやる段取りも作ってくれた。恩を感じていた。……でも、父親だなんて。思ってもなかった……。」
リュウイチが重苦しく口を開く。
「……生きてたのなら、リュウジが子どもだと分かってたのなら、……どうして迎えに来なかったんだろう。」それが残酷な意味を秘めていることを承知しつつ、しかしリュウイチはそう問いかけずにはいられなかった。
「それは、……仕事も無くて通院もしていたから、村田さんが断ってたらしい。もちろん、他の職員とも話し合った末に。」
「そうか。」リュウイチは安堵の溜め息を吐いた。
「でも社長なんでしょう? 偉いんでしょう?」アイナが腑に落ちぬとばかりに訴える。
「……今は、仕事もあるんだろ? ……病気は、治ってないの?」リュウイチが尋ねる。
「多分大丈夫なんだと思う。ただ、……俺はどうすりゃいいのか、わかんないんだよ。」リュウジは俯いて拳を握りしめた。
リュウイチとアイナは悲痛の表情で互いを見詰め合った。




