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リュウジはどうしたらいいのかわからなかった。社長は社長であり、見たことはおろか、存在さえ知らされていなかった父親とは全く結び付けようのない存在である。だったら、店主の方が余程自分のイメージする父親像には近しい。でも、だからといって社長を嫌っているのかと言えば無論そんなことはない。そればかりか社長は自分の曲を高く評価し、そして広くリスナーに披露できるよう土台を創り上げてくれた、いわば恩人である。でも、社長は父親なのだろうか、本当に? リュウジの頭は混乱した。
「……おやっさんに、聞いてみる。」リュウジの竜巻のようになった思考が、ぽとりと一つの果実を落とした。
「施設長さんだね。」女将が力強く念を押す。
「俺のお母さんは、事故で亡くなってんのか。その人の名前は、社長の奥さんと同じなのか。」それだけを言葉にするのに、リュウジは倒れる程の疲弊を感じた。
「ありがとう。」社長は深々と項垂れるように頭を下げた。
「私らも、行った方がいいのかな。」店主は深刻そうに尋ねた。
「でも、……お店は?」
「昼の仕込みは終わっちまってるから、昼が終わったら出発じゃあだめですかね。今晩は予約が入ってないから、夜だけ臨時休業にして、ねえ。あんた。」
「あ、ああ。そうだな。」店主は鉢巻を両手で整える。
「済みません。」社長は深々と頭を下げた。
「何言ってんのさ、他のことじゃない、リュウジのことだもん。」女将はそう言って力強く微笑んだ。
思いの外昼は多くの客がやって来て、店主も女将も、それからリュウジもいつも通りに目まぐるしく働いた。否、いつも通りというのは正確ではない。リュウジはたしかに元気よく挨拶をし、客の注文を取ったが、胸中には社長から聞いた話がいつまでも渦巻いて、客の他愛のない会話にも巧く返せないことが度々あった。
今夜きっと全てが明らかになるのだ。でも明らかになった所で、自分はどうしたらいいのだろう。店主と女将の元を離れるのか、バンドはどうなるのか、どうして施設長は今まで自分に何も教えてくれなかったのだろうか、社長は自分を息子としてどうしたいのか、共に暮らすのか? 店は? バンドは? リュウジは目の前が真っ暗になる思いがし、そのたびに何度も目元を前掛けで拭った。
店主と女将は客がいなくなると、さっさとまかない飯を食べ、一泊分の準備を整えた。そこに社長がやって来て、玄関先に車を付けたから、と言う。出るとそこには大きな黒塗りのワゴン車が停まっていて、運転手が小さく頭を下げた。女将が久方ぶりの遠出に、幾分緊張しながら戸締りをすると、四人はワゴン車に乗った。リュウジはツアーを思い起こしながら、車窓を茫然と眺めた。会話はなかった。
リュウジは社長が父親であるとしたら、余計に何を言ったらいいのかわからなかったし、社長も愛情を露骨に示してよいものか幾分躊躇っているような節がなくもなかった。車はただ真実を目指して走っているのだ。リュウジは眼差しも厳しく車窓を眺めていた。
車は駅に到着し、四人を降ろした。社長から三人分の新幹線のチケットが手渡された。
「向こうに着くのは夕方になりますが。」と社長が遠慮がちに言うのに、
「構わないでしょう。電話は入れておきました。一応、泊まる用意もしてきましたし。」女将はしっかと腰を据えたように答える。
新幹線はリュウジと店主と女将、そして通路を挟んで社長が座った。社長はあれだけの話をしたのに自分と距離を置こうとしているのであろうか、リュウジは変に訝った。手にはいつも汗をかいていた。
自分は社長を好いていた。否、好くというような単純な言葉ではなく、自分の曲を評価してくれたことに大きな恩を感じ、期待に応えたいと思っていた。父親だと言われて何か感情が芽生えたかというと、正直、混乱ばかりである。子どもの頃から親との邂逅は、何度も想定していた。それは互いに抱き合うようなドラマティックなものであったり、はたまた憎しみをぶつけるようなものであったりした。でも実際はそれのいずれでもない。ただただ、どうしたらいいのか、答の無い問ばかりが頭を巡る。
風景は次第に鬱蒼とした緑が目立つようになってきた。こんな風に帰郷することを、リュウジは考えたことはなかった。いつの日かバンドで稼げるようになった日に、土産物を手にいっぱい持って帰りたいと、そう思っていたのである。子供たちが大喜びするような、おもちゃや食べ物やらを山ほど抱えて。でも、そんなことは今は頭から追いやるしかなかった。
リュウジは母親、という人について考えていた。社長が差し出した写真は見ていない。見る意欲を、その時は喪っていた。でも今、通路を挟んだ所でじっと座っている社長の胸に、あれは収まっているのであろう。店長と女将は、自分に似ていると言っていた。自分に似た女性を、今なら見てみたい気もした。
でも、その人が事故で亡くなっていたというのは辛かった。それは不意で、偶然だ。死ななくていい将来が、あったはずなのだ。それとも、母は自ら死を選んだのであろうか。その可能性もあると、社長は言っていた。自分はその一番近くにいたはずだのに、なぜそれを覚えていないのだろう。リュウジは悔しかった。悲しかった。火傷のことは思い返したのに。母親の死はそれ程深い所に秘められてしまったのであろうか。それは、自分も車に挽かれぬ限りは思い出さないのかもしれない。
冷たいアスファルトに伏した時、その人は何を思ったのであろう。自分を抱いて、自分の暖かみを感じていただろうか。最後に自分のことを見てくれたのであろうか。わからない。でもこの世で最後まで一緒にいたのは、自分なのだ。それは親子であるとかそういうことは抜きにしても、強い絆を感じさせた。リュウジはほんのりと体に暖かみを感じた。
「思えば、……みんなみんなリュウジも含めて、今までの子たちはこの風景を観ながらやって来たんだねえ。」女将はぼそりと呟いた。
「そうだなあ。康人に大翔、佳奈子に紗菜、みんな挙って不安そうな顔してやって来たなあ。」
「山なんかひとっつもない都会だもんねえ。あたしらが迎えに行くべきだったね。」
「そうだなあ。」
リュウジはそんな会話を聞きながら、この夫婦の元に来ることができて本当に良かったと思った。今、こうして東京に住み、バイトもバンドもできている生活が、とても幸福なことだと思った。自分が中学卒業と同時に上京すると言った時、それならばとアルバイト先兼保護者として面倒を見てくれることを、頭を下げてお願いしてくれたのは施設長だ。施設長が、社長が自分の息子を引き取りたいと言った際に断ったのも、だからきっと意味のあることなのだ。それは社長が言った通り、精神的経済的に不安定であり、なおかつ独身であったというのも関係しているのかもしれない。でも、それはどうでもよいことであった。施設長が下した判断に、リュウジは従って今この幸福な環境を手に入れているのであるから、それは間違いのないことなのだ。施設長が何を言おうとも、自分はそれに従って良かったと、そう言おう。リュウジはそう決意していた。




