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そこまで黙って話を聞いていたリュウジは、信じられないとばかりに目を見開いて社長を見つめた。
「私は即日A県の施設へ赴き、すぐにも息子を引き取らせてほしいと言いました。しかし私は独身で、しかも妻を喪って以来、突然体中の力が抜けて倒れこんだりしてしまったり、何日も眠れぬような状態だったりしたものですから、精神科に通っておりました。それで仕事も急な休みを繰り返していたものですから、クビにもなっていたのです。……引き取りは拒否されてしまいました。」
「え。」リュウジは呆気に取られて言った。
「私は、更に自分がダメな人間であるということを突き付けられたような気がして、それで大きなショックを受けました。東京にどのように戻って来たのか、ちょっと記憶さえないくらいです。でも、今思えば当然です……。自分一人の生活もろくにできぬような人間に、子供を育てられるわけがありませんから。しかも病人で無職の人間に……。
しかし、私は息子を引き取れるように、まずは生活の土台を整えようと決意しました。私はその時、実に数年ぶりに、前を向いて進むことができるようになりました。そのためにまずは、仕事です。今度は自分の本当に好きなことを仕事にしようと、大学時代から続けていた音楽仲間に片っ端から声を掛け、とにかく事務雑用を何でもやると言い、彼らのサポートを買って出ました。バンドマン時代に培ったライブハウスやら、レコーディングスタジオやエンジニアとのコネクションをフルに使って、まだ無名のバンド、新人でどうしたら名前を売れるかわからないバンド、音を聴いていいと思えれば私はどんどん声を掛け、サポートを買って出ました。
その内に自分一人でできる仕事には限りが出てきます。バンドマン崩れから、元ライブハウスの店員、PAみたいな若者たちを使って、遂にバンド事務所を設立したのです。『息子を引き取るため』――こういう目的があったからでしょう。それまでは体調がとにかく優れずに、寝たきりの日も少なくはなかったのですが、真剣に仕事に向き合い、私がやりたかったということに専念している内に様々なアイディアも浮かび、すぐに会社を軌道に乗せることができるようになりました。
でも一人二なって妻や子のことを思うと、……ダメでした。見たこともない筈の、妻が車に轢かれる場面を何度夢に見たかわかりません。子供を引き取ろうと思えど、今のような家を空けてばかりの暮らしぶりで、どうしたって愛情を注ぎきることはできないのではないか。だとしたら、施設でお世話になっていた方がよほど幸せなのではないか。私は仕事とは裏腹に再び心の病を悪化させ、担当医師にも今の状態では、まだ、子どもを育てるのは難しいと言われてもしまいました。
私は大好きな音楽を聴き、夢と希望に燃え立つバンドマンたちと常に触れ合うことで、そんな自分を少しでも改善させていこうともがきました。そして実際に仕事に専念している時には、私は実に生き生きと日々を送ることができたのです。
そうして月日ばかりが経ち、妻子の写真も色あせ、私はいつしか父親として子供と共に暮らすことを諦めつつありました。仕事で成功し、財産を成すことができれば、それをいつか息子に贈り許しを請おう、そんな風に私の考え方は変わっていったのです。」
「どうして。」リュウジは苦し気に呟いた。
「……怖かったのかもしれない。」
「怖い?」
「私が妻を殺した、のだから。そんな妻にそっくりの息子に、責め立てられた時、自分がこれで本当に壊れてしまうだろうと、思った。」
リュウジは悔し気に強く目を閉じ、何度も頭を横に振った。
「……初めてリュウジという名を聞いた時には、懐かしく感じただけだった。まさか、……自分の子だとは思わなかった。そんな偶然を、神が齎してくれるなどと思えなかったから。でも君からある時火傷の話を聞いて、もしかすると、と、痛い程に胸騒ぎがした。改めて見る君の顔は、大学時代の妻に似ていた。だから思えば思う程、そうとしか思えなかった。そして、……悪いとは思ったのだがA県の児童養護施設に問い合わせてみた。でも、施設長さんは何も教えてくれなかった。それはそうだ。でも、その時には、君は私の子どもとしか思えなかった。息子の、リュウジであると……。」
「で、でも、何か根拠があるんですかい。火傷したってのと、リュウジが、社長さんの奥さんに似てるってこと以外で。」店主が焦燥しながら震える声で尋ねた。
「ありません。でも、……」社長はそう言って胸ポケットから一葉の写真を撮り出した。そこには長い髪をした若い女性が微笑みを浮かべながら、小さな赤子を抱いていた。その隣には、今よりも随分若い社長の姿があった。
「これが、妻と息子の竜司です。……リュウジに、似てはいませんか。」
女将は身を乗り出して覗き込んだ。
「言われてみれば、……奥さんの目鼻立ちはリュウジに似ているようだよ。ほら、あんた、よく見てみて。」
「そうだな。こっちの赤ちゃんも、リュウジに似てるじゃねえか……。」
リュウジは膝を崩して両手を尻の後ろに突き、茫然と社長と店長、女将を眺めていた。鼓動が激しくなる。写真を覗き見る勇気は、なかった。
「リュウジ、……施設長さんに聞いてみたらどうだ。」店主はそう言って唇を引き結んだ。「ここまでわかっちまったんだ。もしかしたら、何か教えてくれるかもしれねえ。」
「そうだね。これが本当だとすると、もう本当のことを知るのを引き延ばすことはないっていう、神様の思し召しなのかもしれないよ。」




