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リュウジが日付の変わる頃帰宅をすると、まだ店には灯りがついていた。訝し気にそっと扉を開けると、店主と女将が熱燗とおでんを前に、遅い夕食がてらどうやらリュウジの帰りを待っていてくれていたようであった。
「あら、おかえりリュウジ。」女将が笑顔で迎える。
「まだ、起きてたの。」
「晩酌してただけだよ。」女将が頬を染めながら言う。
「明日は休みだし、たまにはな。リュウジもやれよ、ほら。」と言って店主は立ち上がり、厨房に入るとおでんをよそって出してくれた。
「打ち上げ、楽しかったか。」
「あ、うん。でも今日は、打ち上げっていうんじゃあなかったんだ。」
リュウジは店主と女将の顔を交互に見ながら、先程あった出来事をそのまま何の虚飾も無く話した。すなわち、レコード会社の社長という人に声を掛けられ、曲を讃嘆されたこと、アレンがその話を経営に明るい父親や、また知り合いの弁護士に相談して契約の可否を決めるということを。
中途より店主と女将は互いに目配せしながら、驚きを隠せぬようになってきた。
「もちろん、変な話だったら断るっていうことなんだけど、俺としては、何ていうのかな、……いい人って気がした。それは俺の曲をやたら褒めてくれたからなのかもしれないけれど……。」
「それは、……たとえばこっちがお金を払って、どうのこうのって話ではないんだろう?」
「うん。少なくともイベントにお客さんたくさん呼べるようになったり、CDを作ってある程度の売り上げが出るようになったら、そこから少しずつ払うって形らしいんだけど……。」
「でも、そんな上納金を出せるぐらいに売れるようになるのかねえ。」
「それは、……わからないな。」リュウジは苦笑を浮かべた。
「他のバンドはどうなんだい。お前らの先輩っていうのか。そこ入って売れてきてんのか。」
「メタルバンドだからね、ヒットチャートに乗ったり、テレビに出たり、みたいな所はさすがに一つもないけれど、でも、ホールでライブができたり、CDのメタル部門で上位に入ったり、っていうのはある。」
店主は腕組みしながら考え込んだ。「なら俺も、悪い、話ではないような気がするけどな。」
「まあ、でもアレン君のお父さんやらその、お知り合いがちゃあんと考えて下さるっていうんなら、そっちに任せておいたらいいと思うよ。アレン君のお父さん、こないだ話しててびっくりしちゃった。あのNっていう会社を創った人だっていうんだもの。」
「へえ! そうなのかい!」
「そうだよ、今では手放して別の人? にやらせてるみたいなんだけど、それでも創ったってなれば、一番偉いに違いないよ。あんな偉い人がよくうちのヒレカツ旨い、旨いって食ってくれるもんだよ。」
店主は目を丸くしたものの、話が反れたことにハッと気づき、「で、リュウジはその社長さんがお前らから金ふんだくって、騙してやろうって風には見えなかったんだな?」
「うん。……三時間ぐらい喋っただけだから、絶対そうだっては言えないけど、……何か喋ってると安心するっていうか、ホッとするっていうか、そんな感じの人だった。」
「じゃあ、大丈夫だよ。」
「あんた何言ってんのさ。リュウジが騙されるかもしんないってのに。悪人は最初は誰よりもいい顔して登場するって言うよ。」
「まあ、そうかもしんねえけど、リュウジの感じ方を大事にしてやりてえじゃねえか。リュウジが居心地いいってんなら、そりゃあ相性がいいってことだろ。俺だって見合いでお前に初めて会った時、お前のことは釣書もろくすぽ見ねえで約束の場所行ったもんだから、何一つ知んねえかったけどよお、化粧なんぞしやがって気取りやがったお前見た瞬間、ああ、こいつと生涯共にすんだなって勝手に納得しちまってなあ、それからズルズル三十年だ。」
女将は目をぱちくりさせた。
「だから、感じ方っつうモンは結構大事なんだよ、俺は、そう思う。」
リュウジは微笑みながら目の前で湯気を立てているおでんの、茶色く染まった煮卵に箸を刺し、口いっぱいに頬張った。
その翌週のことであった。
「Nitghmare Recordsの話、受けることにしようと思う。」
アレンがスタジオリハの始まる一時間前にメンバーを集合させ、ロビーでそう告げたことに異論を挟む者は当然、なかった。アレンはあの後契約書を、経営者としての手腕を持つ父親に見せ、それから顔なじみの弁護士に見せ、とりあえず経済的負担はないものであるし、レコード会社に支払う売り上げもかなり高額な利益を見込めてから、しかもその額もさほど多くないという点から、一つのチャンスとして力を借りてもよいのではないか、と判断を下されたとのことであった。
「悪い言い方だけど、俺は使えるモンは何だって使ってバンドをでかくして行きてえって思ってる。」アレンの鋭い眼差しに三人は肯いた。
「社長さんも、俺らのことを随分実力以上に評価してくれてるみたいだったしな。いいんじゃね。」ヨシが言った。
「どうやら俺らは曲が武器らしいから、……リュウジ。頼んだぞ。」キョウヘイはそう言ってリュウジの肩を叩いた。「でも……、何でだろうな。まだバンド始めて一年も経ってねえのに。こんなとんとん拍子で行くなんてさ。リュウジが入る前はアマチュアの完全趣味でやってるだけのバンドだったのに……。」
「だから、曲なんだろ。」ヨシが言い放った。
「にしたってさ、……正直イベントなんかじゃパフォーマンスはまだまだだなって思うし、それは社長が言ってた通りだろ。何で俺らなんだろ。あのイベントだって相当いいバンドはいたのに。」キョウヘイが腑に落ちぬとばかりに呟く。
「そりゃあ、アレだよ。ダイヤの原石なんだよ、俺らは。」アレンはそう言うと腹を抱えて笑い出した。その様子があまりにも幸福そうであったので、慎重な所のあるキョウヘイも、それ以上疑念を口に出すのはやめた。
「期待に応えていけるように、精進しねえとな。」リュウジの決意は四人に均しく共有されて行った。
リュウジへ
リュウジはしゃちょうと仲良くなって、えらくなるんですか。えらくなるんなら、あいなのこといつかゆえんちにつれてってもらいたいです。同じクラスのしいちゃんが、おじいちゃんとおばあちゃんとおとうさんとおかあさんとおねえちゃんといもうとと、ゆえんちに行ったっていってたから。
あいなにもみぞぶちさんとりゅういちとりゅうじがいるから、いいけど、ゆえんち行って、ジェットコースターとティカップと、それからおばけやしきも入りたいです。
リュウジ、いつかえってくるの。リュウジ、ゆえんちはやっぱいいから、リュウジにあいたいです。リュウジがひいてるギター、ききたいです。またこうどうでひいてくれる日はくるの? あいなはひとりぼっちでいると、リュウジのギターひいてたことをいっぱい思い出します。
あいな
真っ先にリュウイチに報告した、レコード会社との契約の話がアイナの耳に入り、妙なことになっているのだろうと思えば、可笑しくなりリュウジは一人部屋で思わず噴き出した。
それにしても、アイナを遊園地に連れて行くというのは、とても良いアイディアであるに思われた。アイナが中学を出、高校に入る頃になれば、きっと施設長や担当職員からの許可も出るであろう。そう思うとリュウジは今、目の前に広げられている高校の課題にも俄然やる気が出て来るのであった。今日は店が休みなので、リュウジの勉強日ということになる。高校卒業は店主、女将との約束事でもある。無論バンド活動も大切ではあるが、店主も女将ももっとリュウジに広い世界を知って多くのことを吸収してほしいと、そう願っていたのである。その一つが高校卒業なのであって、リュウジは学校から課されるレポート作成においては退屈に思うことも度々であったが、実はなかなか勉強の得意であったアレンに教わったり、また、リュウイチに電話で教えを請うたりしながら、順調に高校の単位を修得して行った。




