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そのような中、奇遇にもアイナが施設にやって来たのである。
しかし職員に抱かれ個室に入れられたアイナは、入所当初「可愛い妹」とはとても称し難かった。至極痩せていて顔色も悪く、言葉も発さず、虐待で来るような子にある酷い傷は見える所にはなかったけれど、いつも目は静かに伏せられ、まるで厳重に守られているかのように大人と一緒であった。アイナには専門のカウンセラーと、生活面での担当者が付いて、暫くは子どもの誰とも隔離されていたのである。
「……最近来たあの子、どうしていつも大人としかいないんだろうね。」
「何か、特別な事情で来た子なんじゃないの。」
食堂ではリュウイチやリュウジのみならず、他の子供たちの間でも度々そんな会話がなされた。新しくやってきた子に対する好奇心は、できるだけ持たぬようにしておかねばならないという暗黙の了解があったものの、それを差し引いても、一身に痛苦を背負ったかのようなアイナは否応なしに目を引いていたのである。
「幾つなんだろうねえ。」
「まだ小さいでしょ。二歳ぐらい?」
「喋った所、見たことないよね。喋れないのかな。」
「さあ、どうだろうね。」
ここで生活している子供たちは、小学校一年から高校三年までの年齢も多様な十数名であったが、夕飯時に食堂に集まってくる子供たちは学校での出来事、遊びの話を一通り終えると、入居はしたものの誰とも話したり顔を合わせたりすることのない、不思議な幼女のことをいつも話題にするのであった。
だから数週間も経って、アイナが初めて職員に連れられて食堂にやって来た時、食堂はざわめいた。
「今日からここでみんなと一緒に食事をするから、宜しくね。」
そうベテランの職員、武石に言われても、アイナはその横で俯いたまま誰の顔も見ようとはしなかった。
好物のコロッケを箸に挟んだまま、リュウジが恐る恐る尋ねた。「……名前は?」
「アイナちゃん。」職員が答える。「四歳よ。しっかり面倒見てあげてね、リュウジ。あなたはお兄さんなんだから。」
そう言われ、リュウジはコロッケを皿に戻すと、元来の好奇心でもってアイナの前にどかり、と座った。
アイナはその時初めてびくりとして顔を上げた。目の前には悪戯っぽい笑みを湛えたリュウジがいて、「宜しくな。」と言った。リュウイチもおそるおそるその隣に座って、「俺は、リュウイチ、こっちはリュウジ。宜しくね。」と微笑む。
アイナは困ったように職員を見上げた。
「アイナちゃんは、あんたたちみたいにお喋りが得意じゃないのよ。でも、今段々お喋りを覚えている最中だから、可愛がって面倒を見てあげてね。」
リュウジはぱっと満面の笑みを浮かべながら、「妹だ。」とリュウジに囁いた。リュウジも真剣な眼差しで肯いた。
「お喋り練習中」のアイナは、不器用そうにスプーンを使って、早食いの二人が呆れるぐらいにゆっくり、ゆっくり、というよりも、こぼし、こぼし、用意されたコロッケを食べていた。リュウイチもリュウジも、その様子を緊張感を以て、その真正面で息さえせぬままじっと見守っていた。
「そんなにじっと見てたら食べにくいじゃないの。食べ終わったらさっさと宿題しなさい。どうせ、リュウジはまた外で遊んでてやってないんでしょう。」
武石の言葉も、いつも以上に一切耳に入らぬとでもいうように、リュウジはアイナの食べる様子を不思議そうに見守っていた。
「旨い?」
アイナはしかし答えない。不器用そうにフォークを握ったまま、コロッケと格闘しているのである。
「コロッケ旨くね? 俺、晩飯で一番好きなんだよね。」
スプーンからはぽろぽろと食べ物が零れていく。アイナの生活担当である、溝渕は時折それらを皿に戻しつつ、辛抱強く見守っていた。
――また、落ちた。また、零れた。ああ。じれったい。リュウジは手を出そうとして、職員に制される。口だけで「ダメ」と言われ、渋々手を引っ込めた。
「アイナちゃんは、何が好きなの? 食べ物。」リュウイチは優しく尋ねる。
アイナはふと、食べるのをやめて暫く考え込むようにして答えた。
「……おはな。」
「え、お花?」
アイナはこっくり肯いて、再び不器用そうにスプーンにご飯を掬っていく。
「おはな、って食べ物じゃないじゃないか……。」リュウイチは困惑した瞳でリュウジを見る。
「うるせえな。細かいことはいいんだよ。……お花が好きなのかあ、アイナちゃんは。」
それは女の子らしくて素敵な趣味であるように思われた。今度山ででも珍しい花を摘んで来てプレゼントしたら、笑ってくれるかもしれない。リュウジはそんなことを思った。
そしてそれは翌日早速実行された。ちょうど裏山では小さな紫色のキキョウが咲いていて、リュウジはそれを携えて、初めて宿舎の一番奥にあるアイナの部屋に行ってみた。
そこでは溝渕がアイナの布団を敷いている最中で、アイナはその隣でちょこんと座ってそれを見ていた。
「ねえ」とリュウジは入口から声を掛けた。
「あら、リュウジ。どうしたの。……まあ、何それ。」
リュウジは照れたように、キキョウの花を差し出す。
「人んちのじゃねえぞ。裏山に咲いてたんだ。アイナ、花が好きって言ってたから、こういうの、好きかなって思って。」
「あら可愛いこと。」それが花のことなのか自分の不慣れな行為のことなのか一瞬わからず、リュウジは顔を赤らめた。
アイナは肯くより早くそっとリュウジに歩み寄り、携える花に手を伸ばした。小さな、冷たい手が何のためらいもなくリュウジの指に触れた。可憐なキキョウとアイナは想像以上によく似合っていて、リュウジははっとなった。
「じゃあさ、部屋に飾りな。食堂からコップ持って来てやるよ。倒しちゃダメだぞ。」
「うん。」アイナは肯く。それが初めての会話だった。
リュウジは逸る鼓動を抑えて、食堂に向けて駆け出した。花を誰かのために取って来てやるなど、今までしたこともなかったが、自らの選択をこの上なく誇らしく感じた。