2
しかしその日は今までのいずれにもない日であった。
玄関を開ける音がした。アイナは布団の中でいつしか微睡んでいた瞼をゆるゆると開けた。
--ママだ。ママが帰って来た音。
アイナは毛布の中からゆっくりと身を起こす。そして布団が乱れていないか、服をきちんと切られているかを無意識のまま確認した。母親を怒らせたくはなかったから。その時、玄関から男の声がした。それを聞いた瞬間アイナはびくり、と身を震わせる。男が来る時には絶対に音を立ててはいけない、と言われていたので。アイナは哀し気な目をして、再びそっと音を立てぬようにしながら毛布の中に潜り込む。
――しかしいつまで経ってもママは部屋に入って来ない。鎖を外してくれない。
アイナはおばあちゃんに会いたい、と思う。おばあちゃんに頭を撫でて貰いたい、と思う。おばあちゃんのつるつるした花柄のスカートを撫でながら、歌を聞きたいと思う。そればかりで胸が苦しくなり、涙が溢れて来る。それでも声は出さない。
「なんだこれは。」男の声が再びする。次いで鎖がガチャガチャと鳴った。「なんでこんなものが付けられている。」男はどうやら複数人いるようであった。男にいるのをばれてはいけないと命じられていたアイナは、部屋を開けられたらもう隠れようがないと思いつつ、毛布をすっかり被って震えていた。
「これが、鍵じゃないですか。」
「おお、持ってこい。……西田、どんな風景が広がっていようが、……覚悟しろよ。」
「……わかっています。」
今までとは違って、幾分丁寧に鍵の開けられる音がした。いつもであれば何よりも心待ちにしていた音。しかし開けるその人はママではない。ママはいないのだろうか。ママはどこへ行ったのだろう。アイナのことを忘れてしまったのではないか。アイナは再び毛布の中で熱い涙を流した。
襖を開ける音がした。ぱちり、と電気を点ける音がする。それと同時に、アイナの被っていた毛布がはぎとられた。アイナはぶるぶると震えながら、目をぎゅっと閉じていた。
「子どもだ。……生きてる。」若い男は驚きに目を見開き、呟いた。
「署に連絡だ。あと病院。さっさとしろ。」白髪頭の男に言われ、若い男は慌てて飛び出して行った。
中年の男がそっとアイナの頭に手を置いた。それは優しい手であったので、アイナはゆっくりゆっくり目を開けた。そこには気難し気な顔をした、見たことのない男がいた。
「君は、……アイナちゃんだね。」白髪の男は優し気に目を細めた。アイナは眩し気に目を閉じて小さく肯いた。「もう大丈夫だからな。」
それはまるで今が大丈夫ではないことのように思われ、アイナは訝しんだ。
「ご飯は? お腹減ってるか?」男は部屋に散らばった菓子パンの袋をちらと見た。
「……ママ。」
「ママはね、……少しばかり、遠いところに行ってしまったんだ。」
アイナは信じられないとばかりに顔を顰め、それからああ、と泣いた。やっぱり、忘れられてしまったのだ。おばあちゃんに逢いたい。おばあちゃんに抱き締めて貰いたい。
白髪の男は鼻梁に怒りの皴を寄せ、それから慌ててやってきた女性警官二人にアイナを任せると、先程の若い男と共にアパートの検分を始めた。
母親は、既に死んでいた。犯人の捜索中ではあるが、地方の寂れたホテルの一室で何者かによって殺害されたのである。
アイナは運ばれた病院で栄養失調の診断を受け、その治療に数日間を費やした後、県内の山間部にある児童養護施設へと居を移すことになった。
その間女性警察官が付いていてくれたものの、アイナはほとんど言葉らしい言葉を口にしなかった。それは内気な性格のせいというよりも、あの環境にいたからに相違ないというのが、かかわった大人たちのほぼ正確な見立てであった。
アイナは祖母と母に会いたいとぐずる以外にはほとんど言葉も出なかったので、カウンセラーにつき、施設の職員に丹念な世話を受け、言葉やら生活の基本を教えられることとなった。暫くは他の子供たちとは会うこともなかったが、数週間も経つと笑顔さえ見せるようになり、ようやく他の子供たちとの交流が許されるようになった。
初めて食堂に連れていかれた先でアイナを待っていたのは、小学校三年生になるリュウイチとリュウジだった。リュウイチとリュウジは血縁関係がないのに関わらず、偶然にも似たような名前を持ち、施設に入所したのもほぼ同時期であったことから、物心つく前から兄弟のようにして育った。そして、二人は新しく入って来たアイナを、妹分か何かのように思い、大層可愛がったのである。
施設の子どもたちは、高校を出るまで施設で生活し続ける者もあれば、保護者や親族で受け入れ態勢が整い、早々に出ていくケースもある。あるいは、子のいない夫婦を初めとして、里子を欲する家族の元へと貰われていくことも。
昨日まで一緒に飯を食い、風呂に入っていた仲間が突然いなくなるのは、つまりはそういうことであった。ただし、リュウイチもリュウジも、理由は知らねど、わずか一歳で施設に入って早八年、数日であってもここを出た例はない。誰も迎えには来ない。その寂しい現実も二人の絆を深めている大きな要因であった。アイナも無論すぐに誰かが引き取りに来るかもしれない、そういう危惧にも似た予感はあった。しかし彼らがアイナを特に可愛がったのには、こんないきさつがあったのである。
ある時、二人のお気に入りの場である施設の裏山の中腹にある大木に腰を下ろしながら、こんなことを話した。
「どうして、俺らの所には誰も迎えに来ないんだろうなあ。」
リュウイチはふと、暮れなずむ夕焼けに迫られ、そんなことを呟いた。
ちょうど最近、丸一年一緒に過ごした同級生が親元へ帰って行ったばかりというのもあった。
「職員さん、誰も教えてくれないからな。……もしかしたら、親、死んでるのかも。」
リュウジがおどけて言おうとして言えず、そんな自分を不満に思い口を尖らせた。
「……いつ、本当のことを教えて貰えるのかな。そろそろ教えてくれたっていいじゃん。もう、ガキじゃないんだから。」
「きっとここを出る時、教えてくれるんだよ。」リュウイチは思いついたように、「ほら、未希さん、三月にここを出てく時泣いてたじゃん。あれ、きっと親が死んでるとでも聞かされたんだよ。」と言った。
「高校卒業までか。ずっとずっと後じゃん。今すぐに教えてくれりゃ、いいのに。」リュウジは一層不満げに言った。
「リュウジは親が生きてて、たとえば迎えに来たら、親の所行きたい?」そう問いながらも、リュウイチはリュウジの方を向かなかった。
「ううん……。」リュウジは口ごもる。
行きたいと言わないことを、リュウイチは心ひそかに期待していた。
「わかんない。」
「そしたら、高校出るまでここにいるの?」
「わかんない。……でも、好きなことをしたい。」
「好きなことって?」
「わかんないよ。……リュウイチは何か考えてんの? 将来のこと。」
リュウイチは一点を見つめて黙りこくった。リュウジはそれを急かさない。ただ、手元に生えていた葉を千切って、パッと投げた。
「俺はさ、医者になりたいんだよね。」
「医者! かっけえ!」
「いや。」自嘲的な笑みを浮かべて。「なれるかどうかわかんないけど。」
「大丈夫だよ。リュウイチならさ。」
「医者になるにはさ、大学も出なくちゃいけなくって、しかも滅茶苦茶勉強ができねえといけないんだよ。」
「そりゃあ、大丈夫だろ。何の心配もしねえよ。リュウイチ、テスト百点以外取ったこと、ねえじゃん。」
リュウイチは恥ずかし気に肩を潜めた。「そんなの……。」
「……そっか、医者か。凄ぇな。俺が病気んなったり怪我したら絶対見てくれよ。約束だかんな。」
「もし、なれたらな。」
「なれるよ。」
リュウイチは、山の派に沈んでいく滲んだ夕焼けをじっと見つめる。
「もし、そんな凄い大人になれたら、親は来てくれるかなあ。」
リュウジはぎくりと肩を震わせてリュウイチを見た。「お前、親に来てほしくて医者になりてえの?」
「否、そういう訳じゃないけどさ。……酷い怪我してる子たちを、助けられたらいいなって。」
リュウイチの脳裏には、保護者からの暴力を受け、顔やら体を腫れ上がらせて入居してくる子どもたちの姿が浮かんだ。それがリュウイチにとっての日常であった。
「そしたらさ、『希望の園』に来てやったらいいじゃん。ほら、健康診断にあのじいさん先生来てるけど、さすがに年だし、そろそろ休んで貰ってさ。代わりにお前が来たらきっと職員さんも大喜びするだろ。」
リュウイチは嬉しそうに笑った。
「じゃあさ、そうする。お前が怪我したら俺が見てやる。……だからさ、俺達兄弟になれないかなあ。」リュウイチがぼそりと呟いた。
「え。」
「だって名前も似ているし、ずっとずっと子どもの頃からお互いのことを一番よく知ってる訳だし。こういうのは、世間一般じゃあ兄弟って言うんじゃないの。」
「そうだな。」リュウジはそう答えながら、胸が温かくなるのを覚えた。「したらさ、可愛い妹なんかがいればいいな。」
「あははは、可愛い妹か、いいな。」