17
そんなある日のことであった。リュウジがいつものように店の仕込みを手伝っていると、「そこの鍋取ってくれるか。」店主に言われ、不意に手を伸ばして壁に掛けられた鍋を摂ろうとした矢先、手が滑ってトンカツを揚げるために火を点けていた油の満々と入った鍋の上に勢いよく落ちた。そのまま油の入った鍋は勢いよくひっくり返り、一気にリュウジに襲い掛かった。にわかにリュウジは隣でカツに衣をつけていた店主の体を抱き、身を翻した。しかし油は鍋いっぱいに満たされている。リュウジの背に、熱さではない、痛みでさえもない、凄まじい電撃の如きものが走った。リュウジは店主の上に覆いかぶさるようにして倒れた。
「リュウジー!」店主の絶叫が轟く。
「どうしたの!」隣で食器を洗っていた女将が、金切り声を発した。女将はそのままリュウジに駆け寄り、溶けた衣服を破り捨てた。そしてはっと我に返ったように電話に齧りつき、泣き叫ぶようにして救急車を呼び、その後リュウジの背に張り付いた衣服を泣きながら剥ぎ取っていった。店主の方は腕を僅かに赤くしただけで済んだ。すぐさま荒々しい息を吐きながら、救急箱を取り出し、消毒液をリュウジの赤くただれた背に掛けた。しかしリュウジは、言葉さえ出ない。女将は「しっかりして! しっかりして! リュウジ!」と何度も何度も叫んだ。そうこうしている内に救急隊員がやって来て、リュウジはそのまま近くの総合病院に運ばれた。
リュウジは息も絶え絶えに、ただただ鍋をひっくり返してしまった過ちを詫び続けた。油の入った鍋越しに鍋を取ろうとしたこと、ちゃんと両手で持とうともせず、安易に流れてしまったこと。
女将はリュウジの手を摩りながら、「そんなことはどうでもいいから。」と何度も叱咤した。
薄れゆくリュウジの脳裏には、突然その時明瞭な映像がに流れ出した。それは今まで深い深い靄に包まれていた記憶であった。
――昔、ちょうど今と同じように、自分の頭上に熱い液体が被さってきた。あれに覆われた自分は、泣き叫んだ。そして母が、――そうだ。あれは母親に相違ない。若い綺麗な女性だ。その人がちょうど女将と同じように泣きながら、叫びながら、自分の手を摩っていた。ちょうど、今と全く同じように!
リュウジはかっと目を見開いた。これは何なのだろう。夢、にしてはあまりに鮮明過ぎるし、自分は今、現実にいる。痛みもある。救急車の音が間近で響いている。これは、やはり記憶なのだろうか。自分が知らされていなかった、母親の――。
リュウジの脳裏には次々にその母親、の姿が蘇って来た。
――母親の後姿が目に入る。母親は太陽の光を背に、どうやらベランダで洗濯物を干しているようであった。時折自分を振り返り、にっと笑んで何か節を付けて喋っている。それは非常に心地の良いものであった。自分は、楽しくて楽しくて笑い声を上げる。
母は、洗濯物を干し終えると、寝転んでいた自分を抱き上げた。一気に視線が上がり、窓の外の光景を見ることができる。ベランダには鯉のぼりがはためいていた。それが自分は欲しかった。特に一番大きなものが欲しく、自分は懸命に手を伸ばした。母親がもう一度抱き直す。鯉のぼりからさらに遠ざかったので、自分はそれが辛くて、泣いた。
そうして、次のイメージが浮かんで来る。
--母親は自分に、カップ入りの甘い飲み物を飲ませている。ここは、どこかの公園であろうか。温かな日差しに加え、花の良い匂いがしている。すると、頭上が一気に開いた。桜だ。満開の桜。自分は驚いた顔でもしたのであろうか。母親の隣に、父親、であろうか若い男が自分を覗き込んで面白そうに笑っている。男はリュウジの頬を軽く突いた。何かを喋っているが、自分にはよくわからない。頬を突かれたことが、今更ながらつまらなく思って自分は、泣いた。母親は慌てて飲み物を取り、口の周りを気持ちよく拭った。
それから、次のイメージは、どうやら家の中らしかった。自分は赤い車のおもちゃを床で動かしている。それはピカピカとライトが光り、自分の全ての興味関心を奪った。しかし、その隣では、父と母が何やら諍いを起こしているらしかった。父が何かを強い口調で言い、母が泣く。自分はそれが苦しかった。辛かった。もう、車なんてどうでもいいと、手離した……。車はつうと滑って壁にぶつかって転がった。ますます苦しくなり、自分は一層大きな声で泣いた。
気付けば、リュウジは病院のベッドに寝かされていた。
自分を覗き込んでいたのは、女将である。泣きはらした目が痛々しかった。
「リュウジ……。ああ、よかった。気が付いたんだね。」
リュウジは油鍋をひっくり返したことを思い起こし、「済みません。」と頭を下げた。途端に背中に激痛が走る。思わず顔を歪めた。
女将は静かに首を横に振った。
「あんたのせいじゃあない。私たちの責任だよ。元々私ら二人で行き来するのがせいぜいぐらいの、小狭い厨房で、あんたみたいに大きな子が入る余裕なんてなかったんだから。改装もしないで、あんたを受け入れるなんて無責任なことした、私たちの責任だよ。本当に、ごめんね。」
「そんなことないです。俺が鍋ひっくり返したんだ。壁に掛かってた鍋取ろうとして、安直かまして……。親父さんは? 無事?」
「全然大丈夫だよ。リュウジが庇ってくれたおかげさ。ほんのちょっと肘の所赤くしたぐらい。救急隊員さんに言われて家で水で冷やしてたら、もう何ともないって。」
「ああ、良かった。」
「良かったじゃあないよ。リュウジがこんな大やけどを負っちゃって。背中全面、一週間の入院だよ。」
「済みません。店の様子は?」
「ああ、そんなこと気にしなくていい。零れた油拭いてお終いだもの。リュウジは、自分の大事な身体治すことだけ、考えて。……ああ、そうだ。施設の方にも連絡入れなきゃ。」そう言って女将は立ち上がろうとした。
「待って!」
リュウジは縋るように女将を見つめた。
「何さ。」
「心配しちゃうから、黙ってて。」
「そうはいかないよ。施設長さんはリュウジの親代わりなんだから。」
「それは、わかってる。わかってるけど、いつ頃治るとか、わかったらちゃんと自分から言うから。お願い。自分の口から、言わせて。女将さんじゃ、……ダメだ。女将さんと親父さんが悪いことになっちまうから。そんなんじゃ、ないんだから……。」
その真剣な眼差しに射抜かれるように女将は暫く立ち竦んでいたが、やがて根負けしたとでもいうように、「……わかったよ。」と呟いた。
「お店は?」
「けが人出しといて営業もないよ。」
「やってよ。お客さんだって待ってるんだから。」
そう言われると、弱い。多少の蓄えはあるため店を数日閉めるぐらいは、何の痛手にもならないものの、よし屋を第二の我が家の如く思ってくれている常連客たちの顔を思い浮かべると、彼等を落胆させるのは気が引けた。
「せっかく予約入ってるんだから、都合により閉店なんて言ったら、お客さんがっかりするよ。手伝えなくて本当に申し訳ないけど、店は、店だけは……。」
「わかったよ。」その真剣な言葉に圧されるように、女将は苦笑を浮かべながら頷く。「リュウジには負けたよ。店もやる。施設にはあんたの口から、ちゃんと知らせる。それでいい?」
「いい。」
リュウジはにっと笑った。
「じゃあ、こっちの言い分も聞いて貰うよ。」リュウジはぎくりとして女将を見上げた。「とりあえず入院一週間はかかるらしいから、その間じっとここで大人しく寝てること。ギターも禁止。」
「え。」
「当たり前でしょう。この大部屋でギターなんて弾けないよ。」
「ええ?」リュウジは慌てて周囲を見回した。
「ここは六人部屋。ね、他人様に迷惑かけないようにして、自分の怪我治すことだけしっかり考えること。」
「マジ、か。」
「マジです。」
二人は顔を見合わせて笑った。
「女将さん、……」
「何だい。」
「あのさ、変なこと言ってもいい?」
「何、変なことって。」
「……俺さ、思い出しちゃったみたい。」
「思い出した? 何を。」
「親のこと。」
女将は真顔になって目を見開いた。「え。」
「ううん、本当の記憶じゃあないかもしれない。わからない。でも、火傷してこういう痛みが昔にもあったって、さっき、はっきり、思い出したんだ。その時の情景も。父親と母親らしき人の顔も。」
「そんなことがあるの?」
「わからない。わからないけど、きっと俺、昔もこんな風に火傷負ったんだ。俺の背中のうっすらと黒くなってる傷みたいのは、きっと火傷の傷跡だったんだ。」
「リュウジ、背中に傷なんてあったの。」
「うん。なんか、ひっつりみたいになってて、生まれつきだろうって言われてたんだ。でももし、あの記憶が事実だとすると、あれは小さいころの火傷の傷なのかもしれない。」
「それは、どんな記憶だったの。」
リュウジは訥々と断片的な記憶を話した。背に凄まじい痛みを感じたこと。その傍で母親らしき女性が泣きながら、女将と同じように自分の手を握りしめていたこと。一度言葉にすると記憶はより現実味を帯びて、まるで事実であるかのように思われてきた。
「……きっと施設長さんなら、知っているんだろうね。」
「多分、俺が高校を出るタイミングで教えてくれるはずだったんだ。中学出て上京すんだから、教えてくれって言ったんだけどダメだった。みんなにも高校卒業のタイミングで言っているんだからって。」
「……もちろん、リュウジの蘇った記憶が本当かどうかもわからないし、親って人がどんな人なのかもわからないけど、……リュウジを手放すこと、親は、とても辛かったと思うよ。」
女将は絞り出すように言った。
「何言ってんだよ。」そんなこと、わかる訳ないじゃないか。そう言って笑おうとして、女将の真剣そのものの顔つきに頬を固めただけで終わった。
「リュウジとはまだ付き合いは浅いけれど、根っからのいい子だってことはよくわかる。」
リュウジは何と言っていいのかわからずに黙す。
「だから、そんな子と離れ離れになるっていうのは、どうしようもない事情があったからのことで、それはとても辛かったんだろうと思うよ。」
「そんなの、……」わからないじゃないか、と言おうとして女将の瞳が泣き出しそうなのに気付いてリュウジは再び言葉を噤んだ。
「あたしらにはね、子供ができなかったんだ。否、何度か腹には宿ったんだ。でも、そのたんびに……流れちまってね。私は辛かったよ、悲しかったよ。産んでもない、腹に宿っただけの子だって、別れはとてつもなく、そりゃあ、言葉なんかにできない程、物凄く、苦しいんだ。それが産んで、顔まで見られた我が子なんだとしたら、その悲しみは、……とんでもないモンなはずだよ。」
女将が流産を経験していたなど、リュウジは知る由もなかった。そしてそれがどれだけ辛い経験であるのかも。だからリュウジは何も言えなかった。
「……さて、じゃあリュウジのお望みどおりに店開けなきゃいけないから、準備に戻るよ。」
「うん。」リュウジは小さく肯いた。
「また、明日来るから。朝になるかな。着替え持ってくるから。あと、……何か欲しいものある?」
「ううん、無い。ありがとう。」
「しっかり、治すんだよ。」
女将は静かに笑みを浮かべて立ち上がると、そのまま去って行った。その遠ざかる足音を聞きながら、リュウジは目を閉じて幻惑の中の母親と女将の顔が重なるような気がしていた。




