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襖には、厳重に過ぎる後付けの鎖が幾重にも巻き付けられていた。窓は、ガムテープで貼られたカーテンが微動だにすることなく覆っている。部屋はだから日中にもかかわらず薄暗い。そしてこれからは何も見えない程の闇が訪れる。その間は絶対に「ママ」は帰って来ない。それだけを、アイナはこの世の真実として知っている。
アイナは今年二つになる。産まれたのはこの小さなアパートの風呂場である。痛苦の末、産むや否やとっとと口を塞いで殺してしまおうと、若すぎる母は当然の如く思ったが、その頃同棲していたこの赤子の父では無い男に説得され、仕方なしに生かした。そう、生かした。
母は端から赤子の世話に身を投じるつもりなどなかった。赤子を生かしたのは、ただ新しい恋人に人非人と思われたくなかっただけのことである。しかしその恋人も早々に母の元を去った。母はこの赤子のせいで恋人に去られたのだと思い成し、更に赤子に対する憎悪を募らせた。もう、世話を放棄するどころではない。泣き声を立てると蹴り上げた。顔も見たくなかった。何か声を発すると毛布を掛け、耳を塞いだ。自分の腹は無様にも膨らみ、そして猿の如きものを産み落としてどうにか元に戻ったのに、こんなものが一生自分について回るのだと考えるだけで、苛立ちが募った。愕然とした。耐え難かった。
そんな様子に異変を察知したのは、高校を入学早々に中退して家出をした娘を、探しあぐねていた母親であった。母親は、ようやく探し当てた娘のアパートに入るなり、傷跡だらけで部屋の隅に転がっている赤子を見て、唖然とし、そうして行方知れずになっていた三年間の生活の大体をそれでもほぼ確実に察知した。
そして、言い訳めいた一言二言のみ残して夜の街へ走り去った娘を半ば茫然として見送り、とりあえずと我が家へ赤子を連れて来た。赤子には名前も無かった。それどころか国に存在を認めて貰ってさえなかった。祖母となった自覚とともにあまりの情けなさに、涙した。
赤子は既に他家へと嫁いでいた長女と相談の上、「アイナ」と名付けられ、祖母の手によって育てられた。そこでアイナは初めて人肌のミルクも得ることができ、柔らかな毛布の肌触りも知ることができた。
病院では栄養失調と断じられ、暫くは栄養士の指導も入ったが、それでもどうにか遅々とした成長を遂げた。祖母は久方ぶりの育児に、文字通り全身全霊を傾けた。初めて人の愛情を得たアイナも、祖母に懐き、祖母の姿が少しの間でも見えぬとなると大声で泣きじゃくるようにもなった。アイナの痩せた頬には肉らしきものが付き始め、お絵描きだの歌だの、そんな子供らしい遊戯にも興じるようになった。
とりわけアイナは祖母の腕の中で歌を聴くことが大好きだった。アイナは童謡だの子守歌だのを、いつも祖母が愛用していた花柄のスカートの上に抱きかかえられながら、祖母の顔をじっと見つめながら聴いていた。
祖母は花を愛していた。それこそ箱庭と称すべき小さな庭ではあったが、祖母は地植えも植木鉢も丹念に世話をし、季節ごとに色とりどりの花々で満たされた庭は、近所でも評判であった。
祖母は子育てを離れ、夫とも早く死に別れた後は、夫が遺してくれた唯一ともいえる財産のこの庭で過ごすことを好んだ。種を植え、肥料をやり、枯れた葉を毟り、虫を除けるその傍らにはいつもアイナがいた。アイナは興味深く祖母の手元を見つめていた。
「こうしてね、種を植えておくと春にはお花が咲くよ。アイナちゃんのお花が咲くよ。」祖母は歌うようにアイナと花々に語り掛けながら、世話をした。
「アイナちゃんの所にね、こんにちはって咲くよ。綺麗なお花が咲くよ。」
アイナはくすくす笑いながら、祖母の丸まった背に体を凭せ掛ける。
「おばあちゃんのお花と、アイナのお花?」アイナも幸福な単語を呟いていく。
「お花はねえ、ちゃあんと水と栄養をやって愛情持って育てれば、綺麗に咲くのよ。気持ちがねえ、こう、通じ合うの。だからねえ、大事に可愛がって育ててあげようね。」祖母の胸中には無論行方知れずになった次女の姿が去来していた。
「うん。」しかし母のことなど既に忘れてしまったアイナの小さな手が、種を植えたばかりの地べたをぺたぺたと叩いた。湿ったそこには、花を咲かせてくれる不思議な力が宿っていると思えば、アイナの手にとっては心地よいものに感じられた。
「可愛い可愛いお花。可愛い可愛いアイナちゃん。」アイナは祖母の声が好きであった。歌とも呼びかけともつかぬその声を、時にはじっと目を閉じて聴いているのであった。
しかしそうした幸福の生活は二年と続かなかった。祖母は大好きな花の世話をいている最中、突然倒れた。さんざ娘によって苦汁を浴びせられていた心臓が停止したのである。シャベルを手につんのめったまま動かなくなり、その側でアイナは暫くは不審げに見つめていたものの、あまりにも不自然な状況が続くので「おばあちゃん、おばあちゃん」と泣き始めた。それでも祖母はちらとも動かないので、もっともっと大声で泣き喚いた。そんなアイナの声に異変を感じた隣家の住人が慌てて出てきて、即刻救急車を呼んだものの、既に事切れていて間に合わず、あっという間にアイナの幸福な生活は終わりを告げてしまったのである。
アイナは再び母の手に戻された。母はこの二年間で、何一つ変わってはいなかった。唯一つ変わっていたのは更なる恋人の遍歴を伸ばしていたのと、「アイナ」と名付けられた娘が一応、自分で食を取り、排泄をすることができるようになっていたので、多少は憎悪の念が薄らいでいたということだけである。
アイナは母の手によって、アパートの一室に閉じ込められた。おまると時折、食料が置かれた。母が恋人と順調で機嫌がよい日には、風呂や歯磨きもして貰えた。でもそれはどうしたって続くものではない。
アイナはその多くを一人きりの薄暗い部屋で過ごすこととなった。暗闇で寂しくなると、「おばあちゃん」と呼んでみる。アイナには死がわからない。どうして動かなくなってしまって、それきり会えないのかわからない。会いたい。おばあちゃんとお花を見たい。アイナのお花はいつ咲くのだろうか。おうちに帰りたい。そしてお花のスカートの上で抱かれながら歌を聴きたい。
アイナはそう思うたびに喉の奥がごつごつと痛んだ。どうしても泣かなくては体中が燃え滾ってしまいそうになる時、アイナは祖母宅から持ってきた唯一の資産である毛布に顔を打っ伏し、声を殺して泣いた。一度泣き声を母に聞かれて、大やけどを負わされたことがあったので、声を出して泣くことはいけないことだと知っている。
アイナは長い長い夜の過ぎるのを待つ。一番幸福なのが、寝てしまって、祖母の夢を見ることだった。次に良いのが母が何かの事情で帰って来てくれて、大声で泣きながらそれでも自分を抱き締めてくれること。でもそんなことは今までに数える程しかなかった。今日はその他の多くの日。ママは帰ってこない。部屋が一番明るくなるまで、帰ってこない。