にーと
彼女は一本道を進んできた。
歩む一歩は確かに前進してきた。小石に躓いても踏ん張り、壁を迂遠することなく乗り越え、彼女に襲い掛かる誘惑を愛という抽象的な万能薬で駆除してきた。
それもここまでだ。
彼女の息子が七歳の誕生日を迎えるのは明日だ。満天の星空が輝く日に産声をあげた彼女の息子は間違いなく天からの贈り物であった。三十七歳になる彼女はそれを疑わず育て上げようとしてきた。
今だって。
もしも彼女が望めるのならば息子に安寧な生涯を送って欲しい。そう心から望んでいる。
けれどそれは無理だ。
枯れ切った涙は、再び彼女の顔を滴り落ちた。荒れた肌の上には涙の線ができている。それは獣道のように、何度も、繰り返し、通った跡だ。
彼女と息子が住む家にはもう電気は通っていない。現金が尽きたわけではない。元気が尽きたのだ。力を振り絞って立ち上がっても、私はもう歩けないとやつれた体が無言で叫んでいた。彼女が生きたのはそういう道だ。
七歳に満たない彼女の息子は、静かな部屋の一部に同化しようと努力していた。
子どもを育てるということは生半可なことではない。それも、彼女は途中からはシングルマザーだ。その描写を苦労の一言で終わらすことはできない。
七年間、彼女は海の中をもがき続けた。
夫という空気を送ってくれるパイプはいつの間にか離れていった。しかし、彼女は必死に耐え続けた。それでも人は脆い。弱い。慰めるように言えば、そういう風には造られていない。
彼女の肺が空気を吐き出した瞬間、リビングで包丁の柄を握りしめる彼女の瞳は暗闇に落ちた。
右手が部屋の空気を切りながら持ち上がる。
心を裂く音を、彼は一番近い場所で聞いていた。
「お母さん、今まで育ててくれてありがとう」
くぐもった声なんて掻き消してしまうほど大きな音。
破裂した彼女の腹部から飛び出た二人分の血は、リビングを海にする。
一組の親子が赤い海に浮上した姿で発見された。
勿論、亡くなっていた。
絶対的な亀裂が入ったとき、音はしなかった。彼女の心を蝕んでいた闇がその勢力を核爆発したときの煙のように拡散させたが、それに気付くものはいなかった。
彼女のお気に入りのコップがキッチンの床で割れている。息子が誕生したとき、お祝いにと夫が送ってくれたものだ。五年前のものだ。
「私よりもこの子に買ってあげましょう。何色を好きになるかしら」
自身のお腹をさすりながら夫とそう会話したことを、彼女はずっと覚えていた。おんぎゃーと泣く息子の将来を夢見ていた。
「そうだね。俺の息子ならやっぱし青色を好きになると思うよ」
そういわれて、そうかもしれないと彼女は思った。青色のコップを二つ、桃色のコップを一つ購入した。
そのときの思い出の品が、口うるさい息子のせいで壊れた。料理の最中に流しっぱなしにしていた特撮ヒーローの歌をがなり立て、正義面したヒーローに感情移入して悪者を罵って騒ぎ立てた。
落とした桃色のコップの口を付ける箇所は罅割れ、取っ手がゴミ箱の近くまで飛んでいった。
「ああ、ああ、ああ」
「今の音は何、お母さん。どうして泣いているの、お母さん」
「うるさい!」
「・・・・・・ごめんなさい、お母さん」
ずっ と、彼女は膝から崩れ落ちた。脛と床の間にコップが挟まれて、彼女の骨は折れるのではというくらいの苦痛に襲われた。が、彼女はまるで気付かず、悲しみに暮れた。
キッチンの上部にある窓からは西日が入ってきていた。夕陽というのは幻想的だ。赤いと感じるのに赤くない。けれど世の中にはそんなもの、ごまんとある。
愛なのに、愛じゃない。
彼女の一心を支えてきたその概念はオセロのようにひっくり返された。もう一手、誰かが白を置いてくれれば彼女は戻れたかもしれない。
けれども、それに何の意味があったっだろう。再び白になったからといって、すぐに彼女の愛情が黒になることは明白だった。ならばいっそ、一思いに彼女の逃げ道を示して背中を押すのも正解なのかもしれない。
黒のまま、彼女はそれでも一年を過ごした。
やはり親が持ったそれは、愛だったのかもしれない。
彼女はこの二年後、我が身より大切に思っていた息子を刺し殺す。
「もう無理だ、今からでも遅くない。子どもを降ろそう。それができないなら俺は出て行く」
息子の寝静まったいびきを聞き届けながら、彼女の夫はそう口にした。前兆はあった。息子が生まれてからの四年間で、彼は目を逸らしたくなるほどに老け込んだ。
テーブルに両肘をつき、視線を天板に逸らしている夫を前に、彼女は子どもの頭を撫でるかのように慈しみながら自身のお腹をさすった。
「不気味なんだよ」
およそ息子を指している言葉ではない。彼女の手も止まった。
直裁に嫌いだと言い切れたらどれだけ気持ちいいか。夫は何度も考えた。けれども言えなかった。愛があったからだ。しかしそれすらくだらないと吐き捨てることができるほど、彼の神経は限界まで擦り切れていた。
「でも、私たちの子どもよ。世界でたった一人の、子ども」
「またつくればいい」
彼女の訴えは虚しくも取り下げられる。
「今度はちゃんと産もう。こんな・・・・・・。今の子を忘れることだって、僕たちならできるよ」
忘れることなど出来ない。そんなこと、彼女も夫も百も承知だった。
「私は覚えています。この子が幸せな日々をくれたことを。あなただって、覚えているでしょう」
「それは・・・・・・。それでも、僕たちが前に進むためにこの子は」
「邪魔だって、言いたいんですか?」
リビングには、時計が秒針を刻む音だけが響いていた。まるで幽霊が通り過ぎたみたいに静まり返ったその場から、夫は出て行った。
「養育費は入れる。どうするかは君の自由だ。もしも君がつらくなったら僕を呼んで欲しい。いつだって助けに来る。またやり直すことも、僕は一生考え続ける」
そう言い残して。
彼女は、部屋の天井を見上げた。暖房がついている。それにしては寒すぎる夜だった。
それでも、もう彼を頼ることは出来ない。離婚届を明日、役所に取りに行かなければ。彼がこの子を捨てて幸せになりたいというなら私は彼を手放そう。そうだ。私から彼を手放したのだ。
「・・・・・・ママ、寒いの?」
聞こえた息子の声。優しく、棘のない声で彼女は答えた。
「節約しなくちゃいけないから、エアコンさんは切ろっか」
「頑張ってねあなた。ほら、パパを応援してあげよ」
「がんばれぱぱー」
「うおお! パパ、頑張っちゃうぞ!」
そう言って、夫は彼女をお姫様抱っこして、コーヒーカップのアトラクションのように自転し始めた。笑い声を周りに振りまいて、疲れた頃合に彼女を降ろし、公園の芝に夫は倒れた。
「うっ、流石に二人分は重いな」
「運動不足じゃないかしら。もう私たちも三十歳を迎えたんだから。それに子どももいるんだから、体には一層気をつけましょう」
指をふりふりする彼女を見て、夫の胸は見上げる空よりも晴れ晴れとした気持ちになった。
「あたたかーい」
木漏れ日が彼女に当たると、息子がくすぐったそうに猫撫で声を出した。
「ああ、こんなに可愛い声をしてる。将来は結婚詐欺師にでもなっちゃいそうね。私が見張らないと」
その過保護と愛情の詰まった自虐に、夫婦も息子も衒いなく笑った。
公園に設置してある大時計が正午を告げる。曲目はリストの『献呈』。ピアノの調べが若葉に恵みの雨を降り注いでいた。
「そろそろご飯にしましょうか」
レジャーシートの脇に並べられた靴は二足。お弁当箱は二つ半。笑い声は三つ。
「最近、食べ盛りなのよ。どんどん食欲が旺盛になって。どれくらい育ってくれるかしら」
「僕の身長が百七十。君の身長が百六十七。だったら百九十は堅いんじゃないかな」
「どういう計算?」
「最低身長が百七十。そこに君から奪った身長を足すんだ。百五十くらいなら女性の身長でもおかしくないだろう」
「いやあ。ギリギリまで頑張って成長した私の身長を横取りしちゃうなんて、悪い子ねえ」
「ごめんなさいまま」
素直に謝ってしまった息子に、彼女は頬を綻ばせて目尻に涙を溜めて否定した。
「謝らなくていいのよ。寧ろどんどん奪っていいから、元気に大きく成長しなさい」
風が吹きつけて、靴が童話のように転がってしまった。夫婦はそれを追うこともせず、
「どんぐりころころみたいだ。もうママからどんぐりころころの話は聞いたか?」
「きいてなーい」
「よっし、じゃあパパが話してやる」
幸せな日々を過ごしていた。
おんぎゃーおんぎゃーおんぎゃー
突如として、病室には赤ちゃんの鳴き声が木霊した。同室にいた妊婦が「幽霊だ!」と騒ぎ立てたことで、深夜の産婦人科は大騒動となりかけた。その騒動がすぐに治まったのは、泣き声の出所がすぐにわかったからだ。
「・・・・・・ど、どういうこと?」
彼女は、妊娠して八ヶ月目の妊婦だった。張ったお腹に宿った命に夫婦して感涙した。
外気に触れたことのないその命が、彼女のお腹のなかで、喉を震わせ泣いていた。
大急ぎで医者の診察が始まり、寝ていた夫は制限速度をぶっちぎって産婦人科に辿り着いた。彼女が診察室の丸椅子に座って医者の説明を聞いている間にも、赤ちゃんの泣き声はやまない。
「非常に奇妙で珍しい例ですが、どうやら、あなたのお腹の中で新しいお命が誕生したようです」
しどろもどろの医者を追って、どういう表情をしていいのかわからない看護婦が形ばかりのお祝いの言葉を発した。
「お、おめでとうございます。こ、こんなに大声で泣いていますから、元気な男の子ですよ」
夫は冷静に医者に尋ねた。
「それで、子どもはいつ外に出てくるのですか?」
「・・・・・・非常に言いにくいことなのですが、それは難しいです」
彼女の胎盤と子どもの背中は同化している。エコー検査やレントゲンの結果を見る限り、そういうことらしい。一度、赤ずきんちゃんの狼がされたように腹をかっさばけばどうなっているかわかるが、間違いなく子は死ぬらしい。
「この先どうすれば」
「胎盤自体がせりあがってきています。おそらくご婦人の胃が縮小して、空いた場所に息子さんが座るものだと・・・・・・。栄養は、切れていない臍の緒から分与されると思います」
「それじゃあ・・・・・・中絶は」
「それは可能です」
医者は、その言葉を待っていましたとばかりに身を乗り出した。
安堵した空気が伝播した中で、それを切り裂いたのは彼女だった。
「中絶はしません」
「本気かっ! だってそれは」
それ。自身の息子だという認識は、母体である彼女が一番に認識できた。だからそんな呼称を使った夫を咎める視線で制した。
この七年後に耐え切れなくなった彼女が殺めるお腹の子に対して、母となる彼女は心の底からの宣誓をした。
「この子は私が育てます」
あらすじその1
小説家になろうサイドの十五禁のガイドラインというものが目に付く場所にありました。この物語がそれに当たるかは微妙なラインだと判断してチェックはしていません。
ご指摘(ご指導)があれば改めます。
あらすじその2
道なのか海なのか。短い物語なので比喩もひとつに纏めればよかったですね。