第11話「メアリ」
ぐじゃぐじゃ。
黒い糸くずが、私のあたまの中、
ぐじゃぐじゃ、からまって、ぐじゃぐじゃ。
おとこの人の怒鳴り声と。
お母さんの叫び声が聞こえる。
目を閉じてれば、すぐ終わる。
扉の向こうは、でちゃダメ。
『ごめんね、メアリ』
お母さんの声。
お母さんは何も悪くないよと言おうとしても声が出ない。
『あたしが貴族出身だったら……、もっと力があったら……』
違うよ、お母さん。
お母さんはそのままで大好きだよ。
『……ありがとう、メアリ。あたしが絶対に守るからね』
お母さん、ありがとう。
ずっと守ってくれて。
こんな私を。
『お前らはいらない人間なんだ。俺らに使われるだけ、ありがたいと思えよ』
男の人の声。
目の前が黒のぐじゃぐじゃで敷き詰められる。
『大丈夫だから。メアリにもう誰にも手を出させないから。だから、ここから出ないように』
ぐじゃぐじゃ。
ぐじゃぐじゃぐじゃ。
『いつまでも弱いままじゃ、強いやつに利用されるだけなんだ!』
『メアリ! いつまでもこんなところにいちゃいけないんだ!』
『あたしはずっと、メアリのそばにいてあげられない』
ぐじゃぐじゃ。
ぐじゃぐじゃ。
『俺ともっと、世界を見に行こう』
まぶしい。
兄様はまぶしい。
世界って?
「メアリ、だいじょうぶかい?」
お母さんの声と、お茶の香りがする。
目を開ける。
目の前は、ベッドの裏地。
夢……。
光を目指して、床をはう。
この部屋はお日様が入らないから、オレンジ色の淡いランプの光。
アリス姉様が出してくれた、かるしうむの光に似ている。
ベッドの外に出ると、裁縫しているお母さんと目が合う。
「おはよう。お茶、いれといたからね」
お母さんは、夢のことも、ベッドの下に眠ることも、もう何も言ってこない。
私は頭と服に着いたホコリを払い、桶に張ってある水で顔を洗う。
ひんやり、顔を熱を奪っていく。
「……いただきます」
お母さんの前に座って、お茶わんを手に取る。
口をお茶わんに近づけると、湯気が顔を撫でた。
お日様の香りがした。
「あの子が置いていったお茶だよ。ひまわりというお茶だそうだ」
兄様が……。…。
『外は、まだ怖いです』
兄様にそう言ってしまった。
「あの子から、無理を言って申し訳なかったと伝えてくれと言われたよ。……良かったのかい?」
お母さんがそう言う。
ぜんぜん、良くないよ。
兄様の顔が思い浮かんで、言葉の代わりに涙が出た。
「泣くんじゃない」
お母さんが言う。
「泣いたって、何も解決しない」
涙を止めようとしても、あふれてくる。
ぜんぜん、良くない。
扉の前に立つ。
足が、別の生き物のように震えた。
立ってられなくて、しゃがみこむ。
扉の外に出るだけなのに。
こんな簡単なこと、なんでできないの。
あの時はできたのに。
夢中だった。
兄様がいなくなる。
そんなのはやだ。
気づいたら、外に出ていた。
兄様は生きていた。
ありがとうと言ってくれた。
私のほうこそ、ありがとうなのに。
部屋に帰って、お母さんにお兄様のことを話そう。
あと、外に出られたよって。
私は強くなったよって。
お母さん、喜んでくれるかな。
塔まで戻って階段を降りた。
暗くて、足元が見えない。
思わず、壁に手を当てた。
一歩一歩降りるたびに、こつんこつんと足音がした。
もうすぐ、お母さんに会える。
あの扉はもう怖くない。
そう思ってた。
私を囲っていた砂鉄がどさっと落ちた。
あの男がいた。
『久しぶりだね。大きくなったじゃないか』
黒い糸くずの塊がしゃべっているように見えた。
「メアリ、無事だったんだね」
お母さんが駆け寄ってくれた。
お母さんの香り。
いつもは落ち着くはずなのに、心臓はばくばくしていた。
呼吸が苦しい。
「メアリ、だいじょうぶだから」
そんな私に気づいたのか、お母さんが耳元でそっと呟いた。
「アタシは出かけてくるから、部屋に戻って。外に出るんじゃないよ」
部屋に戻った。
私は扉を開けられなかった。
ぐじゃぐじゃ。
ぐじゃぐじゃぐじゃ。
足音が聞こえた。
兄様の足音だ。
「……兄様」
ベッドの下から出て、扉のほうに向かって呼びかける。
「メアリ、よく俺だって分かったね」
兄様の声。
心地よい音色。
「……足音で、わかります。私にとって、嬉しい音です」
いつからだったろう。
兄様が来る日が待ち遠しくなったのは。
そうなっていくごとに、不安になっていったのは。
「……兄様に、もう会えないかと思いました」
「どうして?」
私の質問に、兄様はそう返した。
「……兄様が、せっかく私を頼ってくださったのに、断ってしまった。使えないと、思われてもしかたないと」
頭の中のぐじゃぐじゃが、口からもあふれだした。
私はいつも言葉が足りない。
「使える、使えないで、メアリを見たことはないよ。どんなことを言っても、俺の大切な妹であることは変わりがない。……この前は、無理を言って、ごめんな」
兄様を謝らせてしまった。
私がダメなせいなのに、兄様が悪くなってしまった。
兄様はぜんぜん悪くないのに。
「メアリ、泣いているの?」
兄様は、そんな私でも憐みをくれる。
「……兄様、私は、私は、私が情けなくてしかたありません。せっかく兄様が」
言葉をつむぐのが怖いのに、止まらない。
何を言っているのか自分でも分からない。
言葉すら言えているのか分からない。
「少しも情けないことなんてない。いや、逆だ。メアリはすごいよ。ベッドから出られるようになったじゃないか。それどころか、今やこの国一の技術者で、それでお母さんを楽にしている」
昔、ベッドの裏でお絵かきをしていたことを思い出す。
もうここから出られないと思っていた。
ずっと、お母さんに迷惑かけて生きていくんだと思っていた。
でも今は、お母さんを助けることができる。
指輪を作ることができる。
楽しい……。
私、生きているのが楽しいんだ。今。
兄様のおかげで……。…。
「……技術を教えてくれたのは、兄様です。兄様は私を導いてくれた」
「メアリ自身の努力の成果だ」
今の私があるのは、兄様のお導きに他ならない。
「……私は、本当は、出たい。外の世界に。兄様の役に立ちたい」
気づいたら、私はそう答えていた。
「メアリ、その言葉は本心か?」
「……すみません、私のようなものが、そんな過ぎた言葉」
「メアリ、言葉を隠さないで、ちゃんと言って。本心なんだね?」
兄様が私の言葉を遮って、そう言ってくれた。
その否定が、とても嬉しい。
「はい」
私はそう答えた。
「メアリ、扉の蝶番の上の部分に手を当てて」
しばらくの沈黙の後、兄様がそう言った。
「そしたら、その蝶番を粉にして」
戸惑いながら、兄様の言う通りにする。
扉が開いた。
何が起きたか分からなかった。
なんで扉、
なんで?
ぐじゃぐじゃが、頭の中、ぐじゃぐじゃ動いている。
指先が震える。
息がうまく吸えない。
怖い。暗い。
寒い。
扉の向こうは、出ちゃダメ。
「メアリ、俺を見て」
兄様の声が聞こえた。
「俺が見えるか」
黒に目を凝らすと、光が見えた。
まぶしい。
お日様の香りがした。
兄様だ。
兄様が見える。
私はうなずいた。
「外の世界には、怖いものはたくさんある。メアリが望むなら、ずっとそこにいてもいい。でも、俺にはメアリが必要だ。俺を信じて、そこから一歩踏み出せるか?」
兄様が手を刺し伸ばしてくれている。
兄様はいつも私を導いてくれる。
私は手をつかんだ。
震える手を握ってくれた。
あったかい。
うれしかった。
私が必要だって。
兄様が、私を、必要だって。
必要なんだって。
「……私でいいのですか」
「メアリだから、必要なんだよ」
ほっぺたが濡れていた。
お母さんに泣いたら叱られるのに。
でも、あったかい。
兄様。
ねえ兄様。
「私の命、捧げても、いいですか?」




