04話 チカラの片鱗
それから俺たちは、奥山の棲家に戻る白猿を見送った。俺たちに同行することになったその娘、尻尾がなければ人間にしか見えないクノは、荷物を取りに一旦戻るという。
「明日には必ず合流しますので、絶対に待っていてくださいね。絶対ですよ」
すがるような眼差しを残して去っていったクノが指定した合流場所は、この先、しばらく下ったところにあるという涸れ沢。
周囲が大きく拓けていて、上が真っ平らな大岩があるからすぐに分かるという。ヤマクイ率いる群れがよく休憩に使っている場所らしい。
――あそこならば目立つゆえ、はぐれた同胞を捜すには丁度よかろう。我の霊力も幾ばくかは残っておろうし、あの異形の悪しき者もそうそう寄っては来るまい。
山神さまのお墨付きも貰った。今の俺たちにとっても悪くない場所のようだ。
そんなやり取りをして彼らは去っていった訳だが。
「――で、どうします?」
ヤマクイ達が完全に見えなくなるのを待って、俺は櫛名田のおっさんに問いかけた。
純真な高校生、イツキがびっくりした顔で口を開きかけたが、俺は手でそれを制した。
櫛名田のおっさんの答えを待つ。
「……そうですねえ。未だに彼らが白昼夢でないと信じきれていないのですが……」
櫛名田のおっさんは、ヤマクイ達が去って行った方角を眺めながら、うっすらと無精ひげが出てきた顎を撫でている。
「……少なくとも、彼らが言っていた場所は、今の私達には良い場所のように思います。他の人たちが追いついてこないか注意しながら、ゆっくりと向かってみましょうか。それで、明日になってあのお嬢さんが現れなかったら――」
いったん言葉を切った櫛名田のおっさんは、疲れたような微笑みを添えて言葉を続けた。
「――全てが夢だったと思いましょう」
思わず吹き出してしまった。
まあ確かにそうだよな。俺も似たような感覚だ。
ただ、俺が聞きたかったのは――いや、やめておこう。
俺だって疑っているわけじゃない。特に、あんなまっすぐな眼差しをする子を信じないのは心が痛む。
櫛名田のおっさんの言うとおり、明日一日で結果は出る。今は他の人たちと合流することを考えよう。
◆ ◆ ◆
ここはどこだろう。
涸れ沢を目指して緩やかな斜面を下りながら、その疑問がしつこく頭の中を飛び回る。
最後の閃光で現れた女の子は未だに気を失ったままで、今はお姫様抱っこではなくて背中に負ぶっている格好だ。
このひと気のない原生林は広すぎる。巨木群の天蓋は遙か高く、地面はふかふかの落ち葉で覆い尽されている。
こんなに手つかずの自然は日本ではあり得ない。それを言えば喋る白猿がいる時点で俺の知る日本ではないのだが、人の痕跡がなさすぎるし、何より大自然すぎる。市ヶ谷ではないのは痛いほど確実だ。
歩きやすいし視界も悪くない。だけど、ただひたすらそれが広がっているだけだ。しっとりとした静寂の中、時折どこか遠くで鳥が鳴く。どこまで行っても、ただそれだけだ。
あれから俺たちは、背中のたくちゃんの彼女を抜かした男三人で今更ながら自己紹介なんかしつつ、時折大声で周囲に呼びかけながらゆっくりと歩いてきた。
櫛名田のおっさんは、聞いたことのない小さな工務店の社長さんらしい。
そういえば昨日誰かとそんな話をしてるのが聞こえていた気がする。真っ先に周辺の探索に動き出したのがこの人じゃなかったか。
ちなみに皆をこっちの方角に誘導しようとしたのは、今朝俺も化け物に追われながら目にした、あのデカい草原が念頭にあったようだ。
どこまでも広がっているように思えた、あの杉の巨木が立ち並ぶ原生林。移動するなら草原の方へ――昨日のうちにそんなことを考えていたらしい。人に会える確率、万が一の水や食料の入手まで含め、最善のアイデアだったと思う。
まあ、結果として会ったのは、人ではなく猿の神様だった訳だが。
でも、この人と一緒に行こうと決めた、あの時の直感を後悔はしていない。今後の期待を込め、空手で鍛えた自慢の握力をフルに発揮して、がっちりと笑顔で握手してやった。
「ちょ、ちょっとケースケ君!」
力を入れた時にちょっと違和感があって、ゴリゴリとおっさんの手の骨が音を立てたけど、まあ期待の表れってことで。
そして、高校生のイツキは、本多 斎というのが本当の名前らしい。
見るからに「サッカーやってます」というオーラを出してると思っていたが、聞くとやっぱりサッカー部らしい。制服のYシャツは汚れ、目の下に隈ができかかっているが、礼儀正しく無駄に爽やかな少年だ。
まあ、クノを見た瞬間に、目が恋する少年のそれに変わったのを俺は知ってるけどな。
あの子は確かにファンタジーだった。イツキは歳も近そうだし。
「そういえば、ケースケさん。俺、体がすっげー軽いんスよ」
イツキがぴょんぴょん飛び跳ねながら、向ける先を間違えてるとしか思えないイケメンスマイルで俺に言う。
「お、あれどんぐりの木じゃないですか? どんぐりって確か食べれるんですよねー。腹も減ってきたし……よーし!」
止める間もなく見守る俺と櫛名田のおっさんの目の前で、イツキは前方にそびえる巨木によじ登っていった。いや、駆け登るという方が正しいか。
人というよりは猿。
何の苦労もなく、するするとあっという間に二階建ての家の屋根ぐらいの高さの枝まで到達してしまった。
「うおー、俺、すっげー!」
イツキは満面の笑みでそう叫ぶと、周囲の枝からどんぐりをむしり取り、見上げるほどの高さの枝から気負うことなく飛び降りた。
ちょ、イツキ何やって――思わず駆け寄ろうとしたが、着地は実に軽やかなものだった。ちょっと信じられない光景だ。
「ほら、ね? 全然怖くなかったッス」
楽しそうなイツキの制服のポケットから、大量のどんぐりが出てきた。緑色ではなく、しっかり茶色に色付いている。
「櫛名田さん、いざという時はコレ食べましょう! 食べれますよね?」
「ま、まあ……種類によって渋みに差があるらしいですが、生でも食べれたと思います……」
櫛名田のおっさんが、イツキが駆け登った木から視線を引き剥がしながら相槌を打った。
そう言われてみれば、昨日からほぼ丸一日飲まず食わずだ。意識したら急に腹が減ってきた。それに、これまでは敢えて無視してきたが、喉の渇きも相当なものだ。朝から激走したし、かなり汗もかいている。
「そうですね、これも貴重な食糧になるかもしれません。涸れ沢に着いて他に何もなければ、ありがたく頂いてみましょう」
櫛名田のおっさんの言うとおり、確かに食糧はありがたい。
しかし、どんぐりって……いや、どんぐりに文句がある訳じゃない。
何というか、どんぐりって思いっきり日本じゃないか。ここはどこなんだ? 時折見かける下草も奇抜なものは一切ない。実はここ、信州の山の中ですー、なんて言われれば信じてしまいそうだ。
まあ、人の痕跡がなさすぎるし、きっと違うんだろうけど。さらに言うと、今は初夏のはずなんだが、どんぐりがこんなに色付いているのだって、おかしいといえばおかしいよな。
イツキは自分が何がしかの貢献ができたのが嬉しいのか、俺と櫛名田のおっさんという男二人に向かって、無邪気なイケメンスマイルを振りまいている。
こいつ、モテるな――現状とは全く関係ないそんなことを思わせるイイ笑顔だ。
しかし、さっきの木に駆け登った動きは、背筋が寒くなるぐらいに人間離れしていた。
さらに、あの高さから飛び降りた時の軽やかさ。怪我をするどころか、体がどこまでも自由自在に動くことへの爽快感すらあったようだ。
普通に考えれば、あり得ない。どんな映画の主人公だよ、という感じだ。
これが白猿が言っていた、俺たちマレビトが持つという大いなる力なのだろうか。
イツキが登った木を、もう一度見上げてみる。
いや、俺には出来そうもない。そもそも、イツキの言うような体の軽さが感じられない。櫛名田のおっさんも同じだと思う。
そうすると、俺や櫛名田のおっさんには、また違うマレビトならではの凄まじい力が眠っているのだろうか。
そういえば、あの白猿に俺たちがマレビトだと紹介された時、クノは真っ先に俺を見て、それからも俺ばかりを気にしていた節がある。
まるで俺が、大いなる力を持つマレビト、その筆頭格のような――。
――分からないことだらけだな。
俺はおんぶをしたたくちゃんの彼女を軽く揺すって姿勢を直し、先に進んでしまった二人を足早に追いかけていった。
次話「魔法の発露」
お楽しみいただければ幸いです。