35話 哀しき激闘と精霊の巫女(中)
「……ええと、何から説明すればいいのか……まずはごめんなさい。私、皆さんに話していないことがあります」
クノは涙に濡れた長い睫毛をしばたき、俺の正面に回って膝をついた。
そして、意識を失ったままのミツバの蒼白な顔をのぞき込み、慈しむように微笑みかけた。
「まず、私が狩りをした後にする祈り、あれは正しくは、散魂の法、というものです」
そっとミツバの頭の下に手を差し入れ、どこまでも優しく俺から重傷人を受け取るクノ。
「それは、皆さんもご存知の白猿から教わった付喪神の技。ひと口で言えば、亡骸に残った神霊の力を大いなる自然に戻す法なのですが――」
そのまま静かにミツバを地面に横たえ、クノは、底知れぬほど澄んだ空色の瞳で俺をじっと見つめてきた。
憧れと傷心を乗り越えてひとつ上の境地に辿り着いたような、切ないぐらいに清々しい眼差し――。
深呼吸二回分ほどの間、クノは俺をじっと見つめ、それからまた口を開いた。
「そして、その散魂の法には実は、表裏一体の法があります。付喪神の中でも、限られた一部しか使えない特別な法……その名は」
明らかな迷いがクノの顔をよぎった。全員が息を殺し、そんなクノに注目している。
クノはひとつ息を吸って、その可憐な口から重々しく続きを告げた。
「……その名は、転魂の法。神霊の力を生者に注ぐ、いわば癒やしの法です」
何っ!
なら、ミツバも簡単に治せるっ――
「ただし」
クノが悲しそうにその細い首を振った。
「癒やしの力とするには、自然に漂う神霊の力だけではとても足りません。他の生者の――その者を癒やしたいと強く願う他の生者の――持っている神霊の力を借りる必要があるのです」
そう言ってクノは、俺を再び見つめてきた。
「何だよそんなことか。全然問題ない。俺で良ければ喜んで――」
「――ケースケ君、ちょっと待ってください」
櫛名田のおっさんが、難しい顔で割り込んできた。
手にした俺の両手杖とミツバの杖――いつの間にか拾ってきてくれたらしい――をくいっと持ち上げ、クノの隣に膝をついて言葉を続ける。
「ケースケ君、ちょっと待ってください。クノさん、話しぶりから察するに、この話には続きがあるんじゃないですか?」
クノは、なんとも言えない表情で小さくこくりと頷いた。
「はい。この転魂の法は効率がいいとは言えません。強制的に癒やしを行うには、その傷が自然に治癒する場合の何倍もの霊力を譲り受ける必要があるのです。つまり――」
しなやかな尻尾を固くウエストに巻きつけ、思い詰めたように言葉を続けるクノ。
「大きな怪我を癒やそうとする場合、神霊の力を譲る側には命の危険が伴います。ケースケさん、それでもミツバさんに……?」
水色の瞳に涙を滲ませ、か細く尋ねてくるクノに、俺はためらうことなく強く肯定した。
雪の大地に静かに横たわるミツバは今にも息をするのを止めてしまいそうで、焦燥感と後悔が胸の奥で熱く暴れ狂っている。
ああ、そんな事で済むなら安いものだ。
「――構わない。ミツバがまたあの明るい笑顔で過ごせるなら、俺はどうなってもいい」
「……そう言うと思ってました」
クノは泣きそうな顔で、にこりと笑った。
「分かりました。では――」
「ちょ、ちょっと待って! そんなの……そんなのあんまりだよ。そんなの……」
アヤさんが必死な顔で割り込んできた。
「ね、ねえクノちゃん、例えば……例えばだよ? ここにいるみんなから少しずつ分けるとか、そんな風にすれば――」
いつものんびりとしたアヤさんには珍しく、俺とクノの肩に手をかけてグイグイと揺すってくる。
クノはそんなアヤさんの手をそっと押さえ、寂しそうに笑った。
「それが出来ればどんなに良いことか……。でも、異なる波長の霊力を注ぎ込めば、ミツバさんの体内でそれがぶつかり合ってしまいます。そうなると癒やしどころか……」
小さく首を振るクノ。
そして深呼吸をひとつし、妙に清々しい微笑みをアヤさんに向けた。
「でも、大丈夫です。ミツバさんは治せますし――ケースケさんも大丈夫。私に任せてください」
「それでは――行きます」
クノは左手をミツバの胸にかざし、右手を俺の肩――激しい痛みがある方――に載せた。不思議と痛みは走らない。
「ケースケさん、私がいいと言うまで絶対に喋らないでくださいね」
クノはそう言い、静かに目を閉じた。そして――
どこからか訪れた一陣の風が、クノの素直な白金の長い髪をふわりと広げた。
訳もなく、ぞわり、と背筋に寒気が走る。
「――!」
皆が一斉に息を呑んだ。
クノの手が白く神々しい輝きを放ち始めたのだ。
ゆっくりと輝きが広がり、その光は俺の肩に吸い込まれるように消えていく。
「え?」
それに呼応するように、しつこく続いていた鋭い痛みが嘘のように抜けた。肩に置かれたクノの手がなんとも心地よい。
「まだ……これからです」
俺の驚きを封じるかのように、目を瞑ったままのクノが機先を制して囁いた。その額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
再びクノの手が輝き出し、今度はミツバにその光が吸い込まれていく。
……おい、まさか?
クノの呼吸がどんどん荒くなる。眉間に皺を寄せ、可憐な顔が歪んでいく。
そして、体がぐらりと傾き――
「クノさん?」
隣にいた櫛名田のおっさんが咄嗟にクノの肩を支えた。クノの綺麗な白金の髪が、ばさりと櫛名田のおっさんの胸にこぼれる。
「クノちゃん!」
イツキが大声で叫んだ。
何が起きているか分かっていないのだろう、驚愕のあまり目が文字どおり丸くなっている。
状況は俺だけが分かっている。危険なほどに霊力とやらを提供するはずだったのに、なぜか自分の怪我が癒されている俺だけが――
おい……まさかクノ、俺の力を使わずに、自分のそれを使っている……のか?
ミツバを癒やすだけでも危険だと言っていたのに、なんで俺の怪我も――
櫛名田のおっさんに支えられたクノが、ようやく姿勢を元に戻した。
……クノは泣いていた。
澄んだ涙が滂沱として流れ落ちていた。
そして、涙でくしゃくしゃになった顔で俺に微笑みかけてくる。
「ふふふ……ケースケさん、ミツバさんとお幸せに……私には、私にはこれくらいしか……」
そう言って、ことさらにニコリと笑うクノ。
手の輝きが俄然と勢いを増し、滔々とミツバに流れ込んでいく。
おい!
なんだよそれ!
なんてことしてるんだよ!
「――クノさん! 様子がおかしいと思っていたら、あなた本当になんてことを!」
状況を理解したのか、櫛名田のおっさんが珍しく怒声を上げた。激怒している、と言ってもいい。
オゾン臭がツンと鼻を突く。
「止められるならすぐ止めなさいっ! ――ああもう、こんなに力の流れが滅茶苦茶に!」
……おい、櫛名田のおっさんは何を言ってるんだ?
「ケースケ君、借りますよっ!」
転がっていた俺の両手杖をひっつかみ、櫛名田のおっさんは横からクノの肩を乱暴に抱き寄せた。
「いちかばちか! 頼みます!」
オゾン臭が一気に強まる。
初めは何が起きているのか分からなかった。
櫛名田のおっさんは身じろぎもせず、なすがままに肩を抱かれるクノの手は相変わらず神々しく輝き、ミツバの虚ろな顔には仄かに血色が戻って――
血色が戻ってきている!?
そのまま見守る誰もが身動きを忘れてしまったかのような濃密な時間が流れ――
徐々に光の様相に変化が表れた。
近づき難いほどに神々しかったものに柔らかさが加わり、ゆったりと優しくミツバの全身を照らしている。
荒かったクノの呼吸が落ち着き、そのクノ本人は、ごっそりと生気が抜け落ちた顔で茫然と櫛名田のおっさんの髭面を見上げている。
「え、え? 櫛名田さん、何を――?」
「もう少しです。もう少しでミツバさんの流れが元どおりに組み上がります――よし、いいぞ――これで――」
櫛名田のおっさんは輝くクノの手を取り、ミツバから遠ざけた。急速に弱まり、消えていく光。
ミツバはすっかり血色が戻っていて――
雪の大地に横たわっていたミツバが、皆が固唾を呑んで見守る中、ゆっくりと目を開いた。