34話 哀しき激闘と精霊の巫女(上)
大地を揺るがした唐突な爆発音、木々の奥ではもうもうと雪煙が上がっている。
そしてその手前で地面から頭をもたげているのは――
なんだ、あれ?
巨大な焦げ茶色の蛇……ではない。デカいトカゲのような何か。
朝、イツキ達が見つけた足跡の主か!
「櫛名田さん、みんなを連れて中へ!」
肩越しにひと声叫び、両手杖を通じて堅く圧縮した炎弾をひとつ作り上げる。
誰かは知らないが、あの雪煙の奥に人がいる。
これだけ雪がかぶっていれば、多少の炎弾ですぐには山火事にはならないはず。
なんとか注意をこちらに引きつけて――
「私も残ります!」
ふわり、と良い薫りを引き連れ、ミツバが俺の隣に肩を並べた。
少し血の気の失せた横顔に浮かんでいるのは並々ならぬ決意。俺が何も言えずにいる間にさっと小振りの両手杖を掲げ――鋭いオゾン臭が甘い薫りに取って代わった。
「私だって一緒に戦えますっ!」
そう言うが早いが杖をひと振り、高速の岩つぶてをショットガンのようにトカゲの化け物めがけて放った。
ミツバの攻撃魔法の特徴は、とにかくその弾丸の速さ。五十メートルはあるトカゲとの距離を、岩つぶての弾幕がコンマ何秒で一直線に飛んでいく。
途中で何発か木に遮られたものの、放った次の瞬間にはトカゲの背中に次々に命中した。
トカゲは吹き飛ば……ずにその場に踏みとどまり、耳障りな咆哮を上げてゆっくりと振り返った。その顔は――
「ひっ」
ミツバが短く喘いだ。
こちらを振り返ったトカゲの顔は、緑がかった死人の顔だった。
長い前髪が顔の半分を覆い隠した、四十代半ばと思われる無表情な女の死顔。
頬がどろりと爛れ、前髪の後ろで暗い燐光を放つ赤い目が不気味に揺れている。
「い、いやあ……何なのアレ……」
出やがった。
そうか、ミツバはアレを見るのは初めてか。しかもオンナかよ――。
俺は歯をギリリと噛み締め、あまりの光景に固まるミツバを背後に庇いながら、堅く圧縮した炎弾を十個ほど追加した。
赤目の化け物は俺たちの姿に驚いたようにピタリと動きを止め、じいっとこちらを見つめている。
そのあまりに不吉な視線に背中がゾクゾクと波打ち、知らず知らずのうちに呼吸が早くなっていく。
無表情だった死人の顔が徐々に醜く歪み、そして――
ぐわり、と奈落のような大口を開け、真っ黒な球のようなものを撃ち出した。
漆黒に渦巻く何かはみるみる速度を上げ、真っ直ぐにこっちに飛んでくる。
魔法か――!?
あれはヤバい!
咄嗟に後ろのミツバの肩を掴み、横に飛ぶ。櫛名田のおっさんは――良かった、アキツと駆けていく後ろ姿がチラリと視界に入った。
そのまま地面に転がろうとした瞬間、さっきまで立っていた地面が爆発した。
足が途轍もない力で持ち上げられ、ミツバを抱き抱えたまま吹き飛ばされる。遠くの地面が一気に目の前に迫り、肩からの強い衝撃が肺の空気を叩き出した。
そして、それでは止まらず背中からもう一度。さらにもう一度。
抱き締めたミツバを気遣う余裕もなく雪面を転がって、ようやく静止した。
肩に走る激痛。立ち込めるオゾン臭。
腕の中のミツバは真っ青な顔で口の端から血を流していて――
「ミツバッ!」
うっすらと目を開けるミツバ。
焦点が合ってなく、ぐったりとして身体に力がまるで入っていない。弱々しく息を吸い込み……けふり、と血を吐いた。
「ミツバ!」
肩の激痛を無視して体を起こす。
ミツバは意識が戻ったのか、俺の腕の中で儚く微笑んだ。
「ケースケさん……私……やっぱり足手まとい、なのかな……ごめんなさい……」
何を言ってる!
なに言ってんだよ!
「ミツバ、今はとにかく喋るな。後でたっぷり聞いてやるからな。待ってろ――」
震える手で、口の周りの鮮血を拭ってやる。血を吐くってとこは、内臓が傷ついてるのか?
くそ!
病院なんてないんだぞ!
どうすりゃいいんだよ! くそ!
俺が何もできないままにミツバを抱き抱えていると、ミツバはゆっくりと俺の手を握ってきた。
そして、にこり、と微笑み――静かにその瞳を閉じた。
おいっ!
俺は目の前が真っ暗になりかけたが、大丈夫、ミツバはまだ幽かながらも息をしている。
気を失っただけだ。死んだ訳じゃない。
背後で、耳障りな笑い声が聞こえる。
あの化け物だ。振り返ると、地面に這いつくばる俺たちを見てケタケタと笑っている。
……おい。
俺はミツバをそっと地面に横たえた。
……てめえ、許さねえ。
胸の深いところから熱い怒りが沸々と沸いてくる。燃えたぎる憤怒が身体を支配し、視界を紅く染めていく。
トカゲの化け物は起き上がった俺に気付き、にたり、と笑うと太い尻尾で地面を叩いた。
次の瞬間、爆発的な速度でこちらに向かってきた。その動きは地を這う魑魅魍魎。おぞましくも不規則に揺れ動きつつ、死女の顔をピタリと俺に向けて滑るように近づいてくる。
「……てめえは、俺の、かけがえのないものに……」
深紅に染まった視界の中で、猛接近するトカゲ女がグワリと口を開いた。喉の奥で漆黒が渦巻いて球を形成していくが――
遅い。
俺は疾風のごとく前に踏み出し、灼熱の輝きを放つ右腕でトカゲ女のこめかみを殴り飛ばした。盛大に吹き飛ぶ後頭部、あさっての方向に飛んでいく漆黒の球。
「とんでもない、ことを!」
間髪を入れずに、燃え盛る左足で胸を蹴り上げる。仰け反ったところに右の回し蹴り。
「絶対に!」
火を噴き出しながら宙を舞う巨体を追いかけ、組んだ両手をハンマーのように叩きつけて地面に激突させる。
炎を撒き散らしながら右半身が破裂し、動きを止めてヒクヒクと横たわるトカゲの化け物。
俺はその死人の喉輪を掴み、目の高さまで引きずりあげた。
「……絶対に、許さねえ」
鷲掴みにした喉が右手の中でじりじりと焼けていくにつれ、赤目の燐光が消えていく。
それでも化け物はしぶとく鈎爪を俺に伸ばし、ぞっとするような憎しみを浮かべて口を開いた。
「ナんデ……オまエラだケ……にクイ、にクイ、コろス……」
軋るような耳障りな言葉を残し、化け物は息絶えた。鈎爪のある前脚がだらりと垂れる。
赤目の燐光が静かに消え、その奥にあったのは――
おい、どういうことだよ。
あまりのおぞましさに、俺は思わず化け物の死体を投げ捨てた。
そして、特大の炎の玉を作り出し、跡形もないほどに死体を焼却し……
その場で盛大に吐いた。
深紅に染まっていた視界が急速に元に戻っていく。
そうだ、ミツバが!
その想いでボロボロの体にまた活が入り、ミツバの元へとふらつきながらも駆け戻る。
「ミツバ!」
俺のかけがえのない存在は、まだらに赤く染まった雪の中、眠れる森の少女のようにあおむけに横たわっていた。俺が寝かせた姿勢のまま、全く動いていない。
「ミツバ!」
良かった。まだ息はある。
ミツバは深く、ゆっくりと呼吸をしていた。慎ましい胸の微かな上下運動が途方もなく貴重で、涙が出るほどありがたい。
待ってろよ!
そっと抱き上げようとして、右肩に激痛が走った。
なんだよ、くそ。
自由にならない自分の体を罵り、どうにかしてミツバを安全な場所まで運ぼうとしていると、誰かの足音が近づいてきた。
「ケースケさん!」
イツキだった。
後ろからクノやアヤさん、櫛名田のおっさんまでもが走ってきている。
「ミ、ミツバちゃん――」
イツキが、俺の腕にもたれる血まみれのミツバに気付き、駆け寄って傍らに膝をついた。
後ろの人たちも次々に駆けつけ、ぐるりと俺たちを取り囲む。
みんなの視線がミツバの口の端に残った血の泡に集まり、鮮血に染まった喉と防寒着を経て、俺に流れてくる。
驚きと混乱、そして沈黙。
俺はその沈黙に耐えられなくなって口を開いた。声が掠れている。
「化け物が魔法を撃ってきて……。咄嗟にミツバを抱えて……でも吹き飛ばされて、ミツバごと地面を転がって。気づいたら口から血が出てて!」
堰を切ったかのように溢れ出す言葉。
「一回は目を開けたんだ! でも血を吐いて! それで!」
一度深呼吸をする。
「怪我、させてしまった。転がった時かな。血を吐いたってことは内臓かもしれない。外傷はないんだ。今は気を失ってて――誰か、ミツバの手当て……を……?」
なぜか誰一人として動こうとしない。
「おい、誰か出来るだろ! 息だってしてるし、直撃を受けた訳じゃない! ――櫛名田さん! アヤさん!」
凍りついたような表情で、静かに首を振る二人。
「ケースケ君、残念ながらここに医者は……。化け物はやっつけてくれたようですし、とにかく、まずはミツバさんをドームに運んで安静に――」
「おい! おい! なんだよ! 結構な血を吐いたんだぞ? 何かこう、応急処置のようなものがあるだろ! 何で誰も知らないんだよ――」
声を荒げた拍子に揺らしてしまったのか、ミツバが弱々しく身じろぎをした。
そして再び、けぽり、と口から大量の血を――
時が止まったかのような沈黙の中、鮮やかな赤い血が、俺の腕を温かく濡らしていく。その顔はまるで――
「ミツバ! おいミツバ、俺が絶対に治してやるからな! だから、だから――ッ」
「ケースケ君落ち着いて!」
アヤさんの叫びを無視し、言うことを聞かない身体でミツバを抱え上げようとする俺の肩に、すとん、と手が載せられた。
クノだった。
艶やかな白金の髪を風になびかせ、思い詰めたような顔で俺を見つめている。
「ケースケさん」
鈴のような可憐な声が震えている。
「……どうしても、治したいですか?」
何を当たり前のことを。
俺はクノの薄い空色の瞳を正面から見返した。
「……ケースケさんの、何もかもを引き換えにしても?」
深い哀しみを浮かべ、すがるような目をしたクノが、消え入るようなか細い声でまっすぐに俺に尋ねてくる。
当たり前だ。
微動だにせずに見つめ返す俺の視線に、クノの薄水色の瞳に何故かみるみる涙が溢れていく。
そしてクノは涙を拭い――
「分かりました。ひとつ方法があります」
透きとおった笑みを浮かべ、はっきりと宣言した。




