01話 不条理な異世界
一日目
あれから一日が過ぎようとしている。
俺は埜村 啓介。この春、高校を卒業して親戚のコネでサラリーマンになったばかりの新米社会人だ。
未だに何がどうなったか意味が分からないが、幸い鞄の中に入っていた手帳は無事なので、許す限り状況を書き連ねていこうと思う。
あの時、市ヶ谷駅のホームでスマホの緊急速報が一斉に鳴り響いたのが始まりだ。
駅のホームで、そこら中の人のスマホから一斉にアラーム音が鳴り始めたんだ。地震の時に鳴るようなやつだ。通勤ラッシュ時じゃないけど、まっ昼間のそれなりに人がいる時間だ。結構な人数がいて、何十台ものアラーム音が耳を塞ぎたくなるぐらいに一斉に鳴り始めた。アラーム音はしていないけど急にポケットや鞄をまさぐり出した人たちは、おそらくマナーモードにしてあった人たちだろう。
緊急速報の内容は、「隕石ハーロン、太陽系内で分離。複数が地球の引力圏に捉えられ、うち一部が日本付近に接近中。政府は東京都に戒厳令を発令しました。大至急安全な場所に避難し、強い衝撃に警戒してください」とかなんとかだったと思う。
こないだからハーロンのことは大騒ぎにはなってたけど、どの太陽系の星の引力圏にも引っかからずに飛び去る軌道だった筈。だから俺はXデイの今日も家に籠らずに、普段どおりに出勤したんだ。
小学校とかは休みになってたみたいだけど、俺と同様、世のビジネスマンたちは結構みんな仕事してたんじゃないかな。新入社員の俺は休める訳もなく。
家を出てみると、TVで大騒ぎしている割には駅も通りも人がいないということはなく、普段よりは歩きやすい程度の人ごみだった。
会社の中じゃ音を消したTVで隕石番組を流してたけど、サッカーのワールドカップと同じような感じ――みんな関心はあるけど、仕事はやらなきゃね、って空気だったんだ。
NASAから何から、専門家が口を揃えて大丈夫って言ってたしな。
なんか、書いてて切なくなってきた。あの日常には、もう戻れないんだろな。誰が悪い訳でもない。
今俺たちは理解不能な状況にあって、周りで訳も分からぬままバタバタと人が死んでいっている。そのむごたらしい死に様に、もう吐くものもなくなった。涙も枯れた。残された者の顔には疲れ切った絶望しかない。
次死ぬのは自分の番かもしれない。それまで何ともなかった人が急に発作に襲われ、咳き込み全身を掻きむしる。掻いた跡はズルリと肌が剥け……これ以上は書くまい。人間には尊厳が必要だ。誓ってもいいが、ここは地獄だ。
――話が逸れた。
スマホの緊急速報の後、俺はパニックを起こしつつある人の流れに押されるようにホームの階段を下り始めた。その時、偶然に腐れ縁の幼馴染――椎名啄人、通称たくちゃんの顔を見つけ――あんにゃろ、こんな時にすっとぼけた顔で女の子をハグして、見つめ合ってやがった。絶対殺す――そんなことが頭によぎった次の瞬間、強烈な光が全てを覆い尽くしたんだ。質量すら持っているような、暴力的な光。
その後は何も記憶がない。気が付いたら、集団でこの森の中に投げ出されてた。
その時点で半分が死んでいて、起き上がってきたのは二十人ぐらい。これは後で確認しあった話だから間違いないが、あの光の時、駅のホームの階段降り口付近にいた人がほとんどみんなここに来ているらしかった。
ほとんどみんな、って云うのは、それこそ階段の降り口にいた筈のたくちゃんがいないからだ。
たくちゃんは俺が昔から面倒を見てやってる腐れ縁のダチで、変な話、そこらの女子より可愛い顔してる。ただ、人とのコミュニケーションが壊滅的に下手糞な上に妄想癖があって、誤解されて孤立してることが多い。よくよく話してみると、相手の事をよく考えてくれるイイ奴なんだけどな。
俺は高卒で働き始めたけど、たくちゃんは頭がいいから飯田橋の予備校に通ってる筈だった。それがなんであんなところにいたんだか。
まあ、そんなたくちゃんなんだけど、この状況は奴には酷すぎる。せめて俺もいるってことを教えてやりたかったし、俺も知り合いがいた方が心強いしで、思い切って死んでしまった人全員の顔を恐るおそる覗き込んで回った。でも、たくちゃんはいなかった。ほっとしたし、がっかりもした。
あ、ほっとしたってのは、たくちゃんが死んだ人の中にいなかったからで、がっかりしたってのは、この地獄のような状況、たくちゃんが傍にいればどんなに有難かったか。なんだかんだ言って、俺のことを一番分かってくれてるのはたくちゃんで、これまで何回救われてきたかも分からないぐらいだからな。
ああ、我ながら弱気かもしれん。分かってるって。俺らしくないってか?
でもさ、余計なことを考えて、現実逃避もしたくなるさ。ホント、おぞましいぐらいに極限の状況なんだよ。
ここがどこかも分からないし、なんで突然こんなところにいるかも分からない。血と死の匂いが充満した原生林。スマホ、ガラケー含めた電子機器は例外なくぶっ壊れている。周りは死体だらけ、生きてる奴もどんどん死んでいく。俺も含めてみんながみんな混乱して、怯えて、わめいて。
そう、俺も駄々っ子のように泣き叫んださ。悪かったな。
そして、何より頭が狂いそうだったのは、後から更に人が現れること。
俺が目を覚まして二時間ぐらい経った頃だろうか、いきなり暴風が俺たちを襲い、辺りは断続的な閃光に覆い尽くされた。
周囲の巨木が怖いぐらいにしなり、地面に堆積していた落ち葉が片端から吹き飛び、顔を庇う腕にビタンビタンと叩きつけられる。
正直、俺は訳が分からないながらも今度こそ死ぬのかと思った。閃光が市ヶ谷での光にそっくりだったからな。
でも、死ななかった。
というか、風と光が収まった後、強烈なオゾン臭と共に更に四人が新たに地面に投げ出されていたんだ。残念ながら全員が息をしていた訳じゃないが。
それが間を置いて数回。手品やトリックでは絶対ない。暴風と閃光の後には、新しい生身の人間が忽然と出現する。……俺もこうやってこの原生林に現れたんだろうか。全くもって状況が分からない。
後追いで出現する人数はまちまちで、俺たちの頭数は増えてはいくものの、発作を起こして死んでいく人も多い。結局日が暮れる頃に生存していたのは初めと同じ、だいたい二十人といったところだった。広場に積み重なる死人の数は聞かないでくれ。
そして、俺たち生存者の間で時折思い出したように交わされる会話によると、後から現れた人も含め、俺たちの共通項はやっぱり市ヶ谷のホーム、階段付近。
クソッタレ、嫌な予感しかしない。
有志が何人か、周囲を確認に出掛けているが、どこまで行っても同じような原生林が続いている以外の話を持ち帰った人はいない。
勘弁してくれ。何なんだよ、全く。
そして、そんな狂った状況でも、当たり前のように夜はやって来る。
夜になってもキャンプの準備なんかない。
日没と共に後追いで出現する人はいなくなったが、身を削るような寒さの中、生き残りが遠慮気味に身を寄せ合って無言でガクガク震えてた。夏前のはずなのに夕暮れと共に寒さが押し寄せた。まるで晩秋のようだった。救いは月明りのお陰で真っ暗闇ではなかったこと。
さえざえとした月の光の下、考えることを放棄した頭の中でひたすら祈ってるのは、どうか自分に発作が来ないように、ということ。
そして、身を寄せ合う相手にも発作が来ないように、ということもだ。想像してもみて欲しい。こんな理不尽な状況の中、隣で温もりを分かち合っていた人が突然苦しみだし、目の前で血を吐きながら死んでいく光景を。俺の傍ではないが、夜の間に四人が発作を起こし息を引き取った。
隅っこの方にいたおばちゃんが一人、それで精神が壊れた。
ここはどこなのよ? これは何なのよ? わたし、帰りたいのよ……ヒステリックに金切り声を上げ続ける。
誰も何も言わない。言えないんだ。
でも、延々と続く泣き言に、遂に俺は怒鳴り声を上げてしまった。
だって、「ここどこ?」「なにこれ?」は分かる。
けどさ、「帰りたい」はないだろ。
ハーロンとか云うふざけた名前の巨大隕石が、最新科学の予測をあざ笑うかのように俺たちの目の前に置き土産を落としていったんだよ。
スマホの緊急速報を見たろ?
ホームで浴びたあの光は、その置き土産が東京のどこかに墜落した光。その瞬間に「帰りたい」だと?
TVでさんざん言ってたろ?
ハーロンがもし地球に激突したら恐竜絶滅以上の甚大災害だって。軌道が大きくずれてて、引力圏にかすりもしないって言うから安心しちゃってたけど、元があのデカさだ。太陽系内で分離って、どのくらいの置き土産を落としていってくれたことやら。
そして。
口には出さないけど、みんな心の底で結びつけてたんだろ?
市ヶ谷で俺たちを飲み込んだあの強烈な光と――
……広島の原爆ドームに焼き付けられた人型の影を。
俺たち、あそこで死んでて当然なんだよ。
帰りたいなんて言わないでくれ。
何がどうなってるのか分からないけど、少なくとも俺たちは今ここで生きてる。
そうだ、俺は意地でもこの生にしがみつく。
泣き事を言いたいのは俺も同じだ。だけど、帰りたいなんて言うのはどうか勘弁して欲しい。
◆ ◆ ◆
ああ、今何時かな。あれから誰も何も言わない。おばちゃんは嗚咽を漏らし続けてるけど、余計なことは言わなくなった。
延々と続くこの気まずい空気の中、眠れた奴はいるんだろうか。俺は無理だ。このまま夜は明けないんじゃないかって気がしてるよ。
月明かりって意外と明るいのな。街灯の灯りが当たり前だった俺には、月明かりで影ができるなんて知らなかった。こうやって文字もしっかり書けるしな。
オヤジやオフクロはどうしてるだろうか。
心配してるだろうな――いや、かけらと云っても日本に隕石だ。で、あの閃光。
それにたしか、スマホの緊急速報、「複数が地球の引力圏に捉えられて、そのうち一部が日本に接近中」とかだったよな。
それってつまり、一個だけではないってことじゃんか。日本は、世界は、残っているんだろうか。
東京の被害がたいしたことなくて、二人とも元気で俺のことを心配してくれてる、そう思っておく。それ以外は考えたくない。
ヤバい。これ以上続けると涙が出てきそうだ。
――ああ、また閃光が始まった。
ここには少なくとも生き残りがいる。
今度のお仲間はみんな生きてるといいな、そんなことを呑気に考えていた俺は、後でそれを呪うようになる。
そう、今回の閃光と暴風がもたらしたのは、俺たちにとって最悪のお仲間だったんだ。