17話 幕間 ヤーチ村のニソル
ヤーチ村。
肥沃なナイ川のほとりに五年程前に作られた新しい村。
遥か西、カヤ族の本拠マツラから植民された最新の村で、呪術を操るズミという名の領主が治めている村。
人口は百に僅か足りないぐらい、大半は奴隷だ。服とも呼べぬ粗末な麻布を身体に巻きつけ、日々過酷な開墾作業に使役されている。
村の主食は米、彼らカヤ族が偉大なる神から授かった奇跡の食べ物だ。
ニソルはそんなヤーチ村の奴隷の一人。
年は十六、黒髪黒目の平凡なカヤ族の少年。生まれながらにしての奴隷であり、その体は小柄で細い。両親とはこのヤーチ村に連れて来られる際に引き離された。父親も母親も、新しい村を開拓するという過酷な環境に耐えられる年ではなかったからだ。
連れて来られたのは、全て十歳から十五歳までの若く従順な奴隷のみ。嫌らしい薄笑いを浮かべるズミという新領主とその側近達は、別れに泣き叫ぶ奴隷親子に文字どおり鞭を打ち、問答無用で強引にニソル達をこの地に連れてきたのだ。
しかし、そんな辛い過去も今は思い出すことすらない。
この地に来て五年、今、何よりも肝心なのは、日々を生きること。
眼前のようやく実った稲穂を追い立てられるように包丁石で刈りながら、願うは後ろで仁王立ちする大男の目に止まらぬこと。もし手を抜いているなどと思われた日には、情け容赦ない暴力が待っている。
隣では、ここに来て仲良くなったヤヒメが荒い息をしながら懸命に刈り取りをしている。
薄汚れた顔に大きすぎる目が印象的な、一つ年下で最年少の女奴隷だ。しかし、時折ニソルがぼうっと見惚れてしまうその目も今は苦痛で曇り、大きな青痣に覆われている。先日痛めつけられた左足を庇うように引きずっているが、それがいつ大男の癇癪を引き寄せてしまうか、ニソルには心配で仕方がない。
横一線に並んで刈り取りをしている周囲の動きから目立たぬよう、ヤヒメの側を多めに刈り取ってやる――今のニソルには、そんなことしか出来なかった。
川から水路を作り、水浸しにした土地で育てる稲という作物は、それまでの常識を覆すほどの実りをもたらしてくれる。水田と呼ばれるその環境を作るには多大な労力が必要となり、ニソルは骨の髄までその労苦を知っている。そして、ニソル達奴隷が文字どおり身を削ってそうした水田を作っていくほど、領主のズミには大量の食糧が約束されるのだ。
稲作と共に生まれた貧富の差。
運にも左右される共同での狩猟生活にはなかったそれは、水田を持つ者と持たない者の間に明確な差を刻み付けた。
持てる者は栄え、力を得る。やがて持てる者が持たざる者を従わせ、労働力として更なる水田を作らせるようになった。爆発的な人口の増加も背景に、力を得た者は飛躍的にその力を強大にしていく。
いつしか生まれる身分という概念。最底辺の奴隷は物のように酷使され、肥ゆる支配者の懐をさらに肥え太らせていく。ニソルはそんな支配者に使役される奴隷のひとりだ。両親は昔は奴隷などない平和な村の一員だったと聞いているが、そんな暮らしなどニソルには想像もできない。
今の世の中は力と強欲の世界。見る間に近隣を版図とした支配者は、更なる富を得るため、未知の土地へ植民を繰り返す――そうして生まれた村のひとつが、ニソルの住むこのヤーチ村なのだ。
今日のニソルに与えられたのは、延々と続く稲刈りという苦行。
単調な作業がニソルに残された体力をすり潰し、思考に靄がかかり始めたとき――。
遂に隣のヤヒメが大きくバランスを崩した。
そしてニソルが包丁石を投げ捨て、無心でヤヒメの華奢な身体を抱き支えた、その瞬間。
――稲田の向こう、森の中から野太い咆哮が幾筋も湧き上がった。
全身が真っ黒な毛に覆われた逞しい大猿が、何十匹も森から走り出てくる。
ニソルの倍はあるその巨体は実に敏捷で、前腕を補助に使う変則二足歩行ながらも瞬く間にニソルのいる稲田に突入してきた。
「猿人だ! 猿人が出たぞ!」
蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出すニソルの仲間たち。
幼い頃に聞かされた恐怖の亜人がここ、東の未開の地には実在し頻繁に襲撃してくる。
彼ら猿人には人ほどの知性はなく、悪食でひたすらに凶暴。人の何倍もの膂力を持ち、そのうえ俊敏だった。
捕まったら生きながらにして喰われる。それは開拓村の全員が知る、紛れもない事実だ。
「馬鹿者ッ、逃げるな! こっちに集まって盾になれぇ!」
監督をしていた大男が叫ぶが、耳を貸す奴隷は誰一人としていない。生き延びたら後で絶対に痛めつけられるが、それより今、明白な危険が目の前に迫っているのだ。
ニソルはヤヒメを抱き抱え、村に向かって必死に地面を蹴った。疲労が芯まで蓄積されている脚はまるで言うことを聞かないが、それでも無我夢中で走り出した。
隣を走っていた仲間が、毛むくじゃらの腕に捕まって引きずり倒される。
言葉にならない、聞く者の胸をかきむしるような悲鳴。
それでもニソルは走る。自分がいつしか嗚咽をこぼしていることにも気付かず、ヤヒメをますます強く抱きしめながら、もがくように前へ進んでいく。
そんなニソルの両脇を、真っ黒な巨体が追い抜いて行った。
え?
ニソルの朦朧とした頭が更に混乱する。
追い抜いて行ったのは猿人、これまで獲物を攫ったらそれで撤退していくのが常の捕食者が、自分を無視してどんどん先に進んでいく。
ニソルの視界に村の防獣柵が映った。
先頭の猿人達がそれを越えようとしていて――
――轟音と共に炎の渦に巻き込まれた。
「ケダモノ共がッ! 焼け死ね!」
防獣柵の向こう側に、両手を掲げた領主のズミが立っていた。
稲作を伝えた神の末裔。炎を操る恐怖の呪術士、ズミ。
反抗した奴隷をこの男が見せしめに焼き殺すのを、ニソルは何度も見させられていた。
しかし、こういう時の呪術は頼もしい。
猿人達は出鼻を挫かれ、それでもズミを避けるように迂回しつつ村に飛び込んでいく。
「な?! 退かぬのか!」
いつもであったら炎の呪術一発で逃げていく猿人達の思わぬ行動に、ズミは慌てて二発目の呪術を練り上げる。
「くそ、くらえッ!」
ズミが放った炎の球はしかし、最後尾を走っていた一際大きい猿人に軽く躱されてしまった。何もない地面を削り、無為に炎を撒き散らす灼熱の球。
ニソルの目に、呪術を躱して村の中へ飛び込んだ猿人が、最後に振り向いてニヤリと笑ったのがはっきりと見えた。
え、猿人が笑った……でも、今、村は無人のはず――理解を超えた亜人の行動に、ニソルの頭に一瞬だけ疑問が浮かぶ――が、それより何より、周囲にはもう猿人はいない。
助かった、らしい。
そのまぎれもない事実が極限状態だった体をじわじわと弛緩させ、ニソルはヤヒメを抱いたまま地面にへんなりと崩れ落ちた。
しかし、ニソルのどこかで感じていた危機感は未だ切迫して首筋をヒリヒリさせていた。猿人達が現れてからずっと、その姿が見えなくなった今でも変わらず、いや一層強くなってきている。
しがみつくヤヒメをそっと地面に置き、ニソルはあたりを慎重に見回した。
周囲には仲間の奴隷たちがニソルと同じようにへたり込んでいる。アキツ、コチ、ウイナ、そしてユク――特に仲が良い顔ぶれはみんな無事だった。
しかし、その向こう――猿人達が飛び出してきた森の入り口に――
異様な瘴気を放つ、おぞましい化け物が立っていた。
ゾクゾクとニソルの全身に悪寒が走り、全ての音が消え去る。そしてその静寂の中で化け物と目が合い――心臓を鷲掴みにするような恐怖がニソルを襲った。
死人の顔と猿の胴体を持つ、死神にも似た四本足の怪物。
ぼんやりと紅く光る眼、うっすらと笑みを浮かべる血の気のない唇。
ああ、猿人たちはコレから逃げてきたんだ……そして僕たちになすりつけて――氷漬けになったニソルの思考の片隅で、密やかに理性が囁く。そう、眼前の化け物の目に浮かんでいるのは混じりけなしの殺戮への渇望。相手は何でもいい。
僕たち全員、鏖にされる。
ニソルは、啓示を受けたようにその事実をすんなりと理解し。
……そして、死に物狂いで逃げ出した。
腕にヤヒメをかき抱きながら。
次話より本編、主人公たちに話が戻ります。