グリベル島の変な奴
青い海が色を濃くして、どんどん黒い流れになった。温かな海は次第に冷えて行き、上の方は凍るようになった。とても小さな生き物達がその黒い流れに乗って、どんどん北へ流されていった。
どうしてわかるのか、その黒く大きな流れを殆どの生き物は知っていて、彼等は決まってその季節になると流れの行き着く場所に集うようになった。小さな連中を少し大きな連中が、少し大きな連中を今度はもっと大きな連中が食べて行った。
そうしてどんどん大きな連中が集まり、海はとても賑やかだった。海に入れない連中も、その祭りのような騒ぎに混ざろうと水辺に集まり始めた。そんな中に〝グリベル島の変な奴〝は居たのだ。
グリベル島の変な奴は、その大きく目立つ体で川を下り、静かな入り江の近くまで来ていた。この季節になると必ず川を遡って来る連中がいるものである。しかし挨拶しに来たのではない。当然食べに来たのである。
遡ってくるおいしい連中は、そう何時も来るわけではなかった。グリベル島の変な奴は何時だって長いこと待たなければならなかった。それもただじっとしているしかないので退屈で仕方なかった。だからこいつは、自然と様々なことを考えるようになったのであろう。
こいつが最初に考えたのは、もうずっと頭の遠い場所に沈んでいる臭いや光だった。懐かしいような気もするが、ひどく恐ろしく、心細くなるような記憶だ。それも、こいつが生まれたての頃にはもっとはっきり思い起こせたものだから、どうにもおかしかった。
グリベル島の変な奴が生まれた時、母は大変驚いたものである。どうしてか、こいつだけ体の色が違ったからだ。母も弟も黒いのに、こいつだけ白かったのだ。それから母と弟はこいつのことを〝冷たい〝と呼ぶようになってしまった。変な奴はそんな名前嫌だし悔しかったからよく泣いたものである。
一方母は色が違うと子供の内に死んでしまうという噂を知っていたから、そのおかしな呼び名とは裏腹に温かく育てたのであった。おかげで冷たいはやさしく、温かな心を持つようになったのである。
冷たいはしかし、他の連中からはやっぱり変な目で見られ、呼び名もそのまま変な奴となってしまった。そうして噂が遠く々々広がって、そこに場所の名まで冠するようになってしまった。こうしてグリベル島の変な奴、つまり冷たいは、色々な事を考えながら時間を潰すのが癖になっていた。
冷たいが考え事を終えると、やっぱり川をさかのぼる連中がやってくる。どうにもそうなっているのだ。決まり事だ。空を飛ぶ黒い奴がどうしてか飛べるように、そして冷たいがどうやったって飛べないように、決まり事なのであろう。
冷たいは待っているだけでよいので、さかのぼる連中が必死になって川をやってくるのを見るのはなんとも楽しかった。お日様が昇れば体は温まり、気分も良くなる。そいうのと同じことで、とにかく冷たいは待っていれば良かった。こうして長いこと旅してきた連中の幾らかは、勢いよく飛び跳ねた処で冷たいに掴まれ、そのままご馳走になるのであった。
どうしてこんな苦労をしてまで帰ってくるのか。冷たいには詳しくはわからなかったが、連中がどうしても川の上の方で子供を産まなければならないことは知っていた。それも一度にたくさん産むので、たくさんの親がたくさんの子を産んで、川がせき止められはしないかと冷たいは思うのである。
冷たいは幾らかご馳走になって、満腹である。満腹になると動きづらい。少し森に入った処、枯れた木の穴で横になって、冷たいは何時もの通り瞼が重くなった。そして同じ夢を見るのだ。
夢の中で、冷たいは冷たいではなかった。他の生き物だ。でも、体の形は同じだ。それに色も一緒だ。でも、自分ではないのだ。
冷たいは誰かの体で走っている。空はとても青く、黒いくらいだ。ちょうど海の色にそっくりだ。
地面を蹴ると白い煙が上がる。雪だ、氷だ。冷たいはとても冷たいところを走っているのだ。しかも寒いので、何処かで温まろうと走っているのだ。
冷たいがずっと走っていると、空を追い越して行く黒い連中が見えた。両脇に広がって、ちょうど山のような形に並んで飛んでいく。空の上の方は温かいのかと冷たいは思うが、どうやったって飛べやしない。だから走るしかないのだ。
冷たいはこれが夢だとわかっているので、なんとかしてこの嫌な夢から目覚めたいと思う。でも雪を蹴る度、そういうことは吹き飛んでしまう。ただ寒いので、必死なのだ。しかも途中から、腹がとても減っていることがわかり始める。おかしい、さっき食べたばかりだと、冷たいは何時も思うのである。
もう長いこと走っているのに、冷たいは疲れなかった。寒いのと腹が減るのとでそれどころではないのか、何処までも走れそうである。そうして、冷たいは決まって、何処まで走ればいいのかと考え始める。気付けば辺りには何もなく、ただ平らな氷の原が空と一緒になるまで続いていた。
冷たいは走るしかなかったので、寒さと腹の減るのを堪えながら走った。おかしなことに、お日様はどれだけ経っても沈まなかった。ただ、冷たいの周りをぐるりと一周し続けるのである。おかげでお日様目掛けて走ることも出来ず、いよいよ何処に向かえば良いのかわからなくなってきた。冷たいは決まってお日様を恨むのだが、その日差しがなければとうの昔に凍え死んでいただろうとも思い、これも決まって申し訳なくなるのだった。
お日様がぐるぐる周り、冷たいはやっと他に目印を見つけられた。それは近付くにつれて黒い点から斑点になり、もっと近付けば、自分を追い越して行った空を飛ぶ連中であった。連中は空の同じ処をぐるぐる回り、段々降りて来ていた。冷たいは食べたいと思った。
空を飛ぶ連中は氷の上に降りるとぐるりと円を作り、高く鳴いたり飛び跳ねて騒いでいた。冷たいはその円の真ん中にあるものを見つけて、とても興奮した。すばしっこくて、海に潜るご馳走。それが横たわってピクリともしていないのである。
冷たいは一目散に駆け寄り、先に突いていた連中の幾らかを追い払った。ご馳走は固くなってはいるが、まだ凍っていない。冷たいは柔らかいとこにかじりついて、そこからどんどん食べ進んでいった。そうして一番おいしいところを食べ始めると、黒い奴の高く鳴くのが聞こえた。何時もならそんなこと気にはしないのだが、どうしてか食べるのを止めようと思った。そうだ、何時もの夢とそこだけ違うのだ。食べる時、黒い奴が鳴くなんて初めてなのだ。
冷たいが顔を上げると、さっきと変わりなく黒い連中が立っていた。しかし今になって見てみると、とても弱っているようであった。とても小さな額が霜で白くなっているのを見ると、どうやら空の高いところも同じく寒いようである。それに、殆どの連中はとても小さく震えていた。一方冷たいはとても大きいので、よく見ないとそういう色々がわからなかったのだ。
何時もなら飛んで逃げられても、今なら簡単に食べれそうであった。冷たいはどうしたものかと迷った。ご馳走がいっぺんに食べられることなんてそうそうない、どっちを先に食べるか、である。
少しの間迷って、冷たいは大変なことに気付いた。この連中を食べてしまえば、もう何処に向かえば良いかわからないのである。今こうしてご馳走にありつけたのも、連中が見つけたからだ。お日様がぐるぐる回って空と地面がくっつくような処で、一体何を頼りに何処へ向かえばいいのか。考えるだけでお日様が沈むような気持になった。
冷たいはご馳走に顔を下ろして、一番おいしい処を少し食べた。そうしてそんなにおいしくない処を頑張って食べて、なんとか満腹になった。それでもご馳走は中々大きかったから、まだ随分残っていたものである。黒い連中は冷たいが離れると一息に集まって、仲良く肩を寄せ合いながら必死に突いた。そうしてお日様が殆ど動かない内に、ご馳走は綺麗さっぱり食べれるところが無くなってしまったのである。
連中がまだ忙しく突いている頃、冷たいはゆっくり歩き始めた。あんまり近くに居ると、やはり食べてしまいそうだったからだ。冷たいはすぐに腹が減るのである。
連中がまた黒い斑点になるまで遠ざかった後、冷たいは風が鳴るのを聴いた。それはどんどん高く大きく、やがて雨のように強くなった。風は連中の方へ向かって勢いを増し、通り過ぎていく。冷たいはちょうど正面から風を受けたから寒くてたまらず、顔を逸らした。するとすぐに風は過ぎて、音も遠のいていく。ぐるぐる回るお日様と同じだと、冷たいは思った。そして連中が飛ばされやしないかと心配になった。
短い風は氷の霞を引いて、あっと言う間に連中の処までいった。でも冷たいが心配したようなことは起こらないで、空を飛ぶ黒い連中は宿命のようにして風に乗ったのだった。随分食べていた筈なのに、どうしてあのように軽々しく飛べるのか、冷たいは本当に感心したものだ。
黒い連中は降りるのと同じようにしてぐるぐる上がり、すぐに空の高い処へ戻った。そうしてまた山のようして並び、何処か向かうべき場所へ飛び始めた。冷たいはそれを追いかけるだけで良いのだ。
高く鳴く声を聞いて、冷たいはお日様の傾いた明りの中に目覚めた。ただすぐに起き上がるようなことはしないで、体中を周る心地良さの中で浮いていた。そうすると段々、近くの川の流れが聞こえて来て、お日様はぐるぐる回らず、辺り一面氷ばかりの世界から抜け出したことがわかってくる。瞼の裏にはお日様の沈む前に染み出す、とても素敵な光があった。でも、何か違うのだ。
冷たいは瞼を開き、何か違うことがあったのを思い出した。声が聞こえたのだ。それも、あの黒い、空を飛ぶ奴の声だ。そうして眠たい瞼をぱちくりさせながら川へ戻ってみると、やはり、黒い奴が居た。
そいつはどうも、眠る前に冷たいが居た辺り、川から顔を出した岩の上でなにやらしているらしかった。冷たいはそいつらが風に乗れるのと同じように、静かに動く宿命を持っていたので、とても注意深い連中でもなければ気付かれたりしないのである。
冷たいがそいつに目を凝らして見ると、思った通り、自分の食べ残しを突いているのだとわかった。やっぱりそういうことだったのだと、冷たいはそいつが川のご馳走を取るのが余り上手くないのを思い出し、少し馬鹿にしてしまうのだった。そうして、そいつは冷たいの方を見たのである。固くて突き出した変な口に、川のご馳走の鮮やかな卵がぶら下がっていた。
まさか見つかると思わなかった冷たいは、そいつが睨み返してきたからびっくりしたものである。あんまり驚いたから尻もちを着いて、泥が冷たかったから高く短く鳴いてしまった程である。それを笑うようにそいつはまた高く鳴いて、決まり事のように吹いた短い風に乗って飛んで行ってしまった。
冷たいは体がとても大きいので、そういう色々の事に体がついていかなかった。頭では追いかけたかったのに、どうしてか手足は遅れてくるのである。だからそいつの居た処へ行き、飛んで行った方を見るばかりである。そいつは黒い連中の輪に戻って、素敵な色をした空を何処かへ飛んでいく処であった。
お日様はぐるぐる周らず、空も地面とくっついていなかった。それに、温まるために何処かへ走らなくても良かった。でも冷たいは、黒い連中が空を飛べるのが悔しかった。それだけは同じなのである。だからたまらなくなって、思い切り叫んでみた。それは、もう何も頼りにせず、何処かへ向かう必要もないという強がりの叫びで、でもどうしてかお日様のように暖かだった。
―グリベル島の変な奴 おわり