血の繋がり
咲き誇る花の香りが鼻腔を満たしてゆくなか、イリゼは途方に暮れるほかなかった。
どうすれば地上に降りられるのか。
落下は防げたものの、黒毛の獣によって上空で振り回されている現状は変わらなかった。
と、そのとき、背中に気配を感じた。
「や、遅れてごめんごめん。さあ深呼吸して。気をしっかり保てば、神獣は君の心に応えてくれるはずだ」
耳の後ろから軽い調子の声が聞こえた。
寒空の下に晒されていたイリゼの体は、後ろから抱きしめられるような形で支えられる。
「え、どうやってここにっ……!?」
靡く銀の髪がまるで宝石が放つ一筋の輝きのようで。
どこまでも余裕そうにした薄紫の瞳が、イリゼを映してほんのりと細まる。
とてつもない強風に煽られていようとも美しさがこれっぽっちも霞む様子がない、ルシアンがそこにいた。
「おお、ちゃんと声は出るみたいだ。どうやってここに来たかというと……まあこう、ひょいっと飛んできたんだ」
形の良い唇をにこりと笑わせたルシアンは、なんでもないように言う。どう「ひょい」っとすれば空高く上がった獣の背中にたどり着けるのか。理解ができない。
「それよりもまずは下に降りようか」
「下に……どうやったら降りられるんですかっ」
急降下はしなくなったが、先ほどから黒毛の獣は同じところをくるくると飛んでいる。まるで進む方向を見失った鳥のようだ。
「難しく考えることはない。気を強く保って降ろせと思えばいいんだ。心の中でも口に出してもいい。重要なのは君の心を神獣の心と共鳴させること」
「よ、よく意味が」
「わからないかい? でも、君はもうやって見せたじゃないか」
「え……」
「この樹海を花だらけにした。時を進め、蕾が開くように」
風圧で耳がやられたのか、イリゼはルシアンの言葉をうまく呑み込むことができなかった。
けれど最終的にはルシアンの言うとおりになった。
気を落ち着かせて「あの大きな屋敷の前に降ろして欲しい」とイリゼが獣に伝えると、すんなりと向きを変えて飛んでくれたのだ。
(今さらだけどどうやって飛んでいるんだろう)
獣の背中には翼がない。
だというのに空を飛ぶ……というよりは、宙を蹴って進んでいる。
突然開花した樹海の木々といい、夢でも見ているのかと思ってしまうようなことの連続だ。
「クゥーン……」
あっという間に屋敷に到着する。
イリゼが降りやすいように腹部を地面にぺたりとつけた獣は、叱られた子犬のような鳴き声をもらした。
「なんだか元気がないみたい」
「君のご機嫌を窺っているみたいだ」
「私の機嫌なんて、どうしてそんなこと」
ルシアンに手を引かれ、イリゼは躊躇いながら獣の背中を降りる。
「君を主だと思っている証拠かもしれないね」
ルシアンは部屋から咄嗟に掴んで持ってきたという室内靴をイリゼの足元に置いたところで、またさらりと重要なことを言った。
「主……」
尽きることなく増え続ける疑問にそろそろ頭がおかしくなりそうだ。
そして、足が地面についた安堵に浸る余裕はなく、イリゼは屋敷の外にいたレドの鋭い眼光を浴びることになった。
「力を……使ったな?」
「力って、なんのことですか」
「時の神獣の力だ」
レドはイリゼの後ろにいる黒毛の獣――時の神獣を見やる。
「私には、よく分かりません」
「しらばっくれるのもいい加減にしろ。時を止めて俺たちの目を掻い潜り、ここから逃げようとしただろう」
確かにこんなところ出て行けたらとは思ったけれど、それはあくまでも思っただけである。実行に移す気なんてなかった。
そもそも時を止めるだの、進めるだの、イリゼには理解できない。
なのに頑なにそうだと決めつけられるのは癪だった。
敵対意識が芽生えているレドに言われれば余計に、日ごろザルハン領主城では抑えていたイリゼの本心がふつふつと表に出始める。
「いつの間にか外にいたんです」
「は、言い逃れするつもりか」
「そんなつもりはなくて、だから、本当に分からないんです」
この男、ちゃんと話を聞いているのか。テコでも動かなそうな頭でっかちをどうにかしてくれと、イリゼはレドを睨みつける。
「何も分からずに時の神獣が、ああも操れるわけないだろ」
「……っ、だーかーら! そんなこと言われても分からないものは分からないって言ってるのに! そっちこそいい加減にしてよ分からず屋! 石頭!」
「なんだと? 誰がなんだって!?」
「目の前にいるすっとこどっこいが、分からず屋の石頭って言ったのよ!」
夜の酒場で皿洗いをしていたとき、すぐ近くで酔っ払いの会話を聞いていたからか、つい口が悪くなっていく。
実際に使うのは初めてだったが、きっとこういう人間のために用意されているのだろう。絶対にそうだ。
「ふっ……あはは! あー、おかしい。ボスをすっとこどっこいなんて言う子、初めて見た」
「たくっ、ルシアン。面白がってる場合じゃねーぞ。ボスも話が進まねぇから落ち着いてくれよ」
二人のやり取りを横で見ていたルシアンは、からからと笑って腹を抱える。そして額に手を当ててため息を吐くダヴィデ。
イリゼとレドは、お互いふんっと顔を反対方向に背けた。
「それでお嬢ちゃん、体は平気か?」
「……あ、はい」
「さっきはすまなかったな。お嬢ちゃんを置いてけぼりにして話しちまって」
おそらく部屋でレドと言い合っていたことを謝っているのだろう。
「その黒毛……時の神獣は名前の通り、時を操る力をもった神獣でな。七つの祝福のうちのひとつなんだ」
「……祝福って、女神が授けたっていう、あの?」
ダヴィデがその通りだと頷く。
楽園の噂は、話の種のひとつとしてよく地上人の間でされていた。
女神が天空を創造し、その寵愛によって七つの祝福を授けたというのも、物心がついた子どもなら皆知っているくらい有名である。
「急に言われても理解できないかもしれねぇが、とりあえず聞いてくれ。時の神獣は、お嬢ちゃんの意思を汲み取って動いたんだ」
「私の意思を?」
そんなことを上空でルシアンも言っていた。
「逃げる気はなかったとしても、そうだな……よく分からねぇ俺たちの会話ばかり聞いて出ていきたいと思わなかったか? 神獣の背中にいたとき、心でなにを考えていた?」
「それは……」
レドとダヴィデの不穏な空気を感じとって、もういっそこんなところ出て行けたら、逃げ出せたら、と思った。
向かう先も分からず突き進んでいた時の神獣には、止まれ、とも、進め、とも言った。
止まれと言った瞬間、急降下が始まった。
前に進めという言葉で解釈を間違えた神獣が時を進めたのだとしたら。樹海に広がる花びらの理由も、時を進めて咲かせたということになる。
「思い当たるところはあるか? もしあったなら、時の神獣は、お嬢ちゃんの心と共鳴し合ってる可能性が高い」
言い聞かせるように、丁寧に。
ダヴィデはゆっくりとイリゼの中に溜まっていた疑問を解消していく。
しかし、その事実はさらにイリゼを吃驚させた。
「時の神獣を操れるのは七色眼を宿す者と、後継者となるにふさわしい者と決まっている。それに該当するのは、領主家の血が流れる人間だけだ」
「あの、それって……」
「うん。君には、おそらく天空領主の家系と血の繋がりがあるってこと」
そう言ったルシアンは、イリゼの肩にふわりと自身の上着をかけた。薄い寝衣一枚だけが包んでいた体は、ルシアンの体温の名残で少しずつ温まっていく。
しかし、手と足は氷のような冷えきったままだった。




