時を操る力
イリゼの膝上で寝息を立てている生き物を、レドははっきり「時の神獣」と言った。
「お前、一体なにをした?」
ふいに左肩に手を置かれる。
イリゼを貫くのは、レドの鋭く威圧のある眼光だ。
(そんなこと言われても)
イリゼにも理由が分からない事態であるため答えることができない。
なにかをしたわけではないが、そういえばレドが落とした指輪には触れていた。
(たしか、この辺に)
もぞもぞと片手を動かして指輪の場所を探る。
指先にこつんと固いものが当たり掴んで手のひらを確認すると、色づいた指輪がそこにはあった。
(ずっと透明だったのに)
無色透明だった指輪の宝石は、淡い輝きながらもレドの瞳と同じような七色の彩りをしていた。
「ダヴィデ!」
レドの苛立ちを孕んだ声が室内に響いた。呼ばれた当人は、眉間に皺を深く刻ませてイリゼを静かに目視している。
「俺も予想しなかった事態だ。見たままを言うなら、たしかに指輪はお嬢ちゃんに反応した。反応した指輪は凄まじい威力をもった光の波動を放って――そして時の神獣が現れた」
「それは分かってる。で、だからどうなんだって聞いてるんだろ」
「……言ったところで、あんたは簡単に認めねぇだろ」
徐々にピリついた空気へと変わっていく。
さすがのイリゼも、これはとんでもないことが起きているのだと思い、背中に冷や汗が流れた。
(私はただ、城を逃げ出したかっただけなのに。もう、こんなよく分からないところ……出ていけたら)
知りたいこと、聞きたいことはある。
けれどそれ以上にいつまでたっても不明な状況にほとほと嫌気が差してきた。
本当に実行する気はなかったが、このまま外に飛び出していけたら、と遠い目をして考えてみる。
いわゆる一種の、またむやみに暴走しないための感情の逃避のつもりだったのだ。
「言ったところで、だと? まずは言うのが筋だろうが。忘れるなよ、俺が、聞いているんだ」
「……はあ、ったく。ならはっきりと言ってやる。お嬢ちゃんが指輪に触れて、色が宿った。それはつまり、お嬢ちゃんが――」
「クゥン?」
ダヴィデの言葉が、イリゼの膝に乗っていた時の神獣によって遮られた。
気持ちよさそうに眠っていたはずの小さな獣は、白く大きな瞳を開いて不思議そうにイリゼたちを見上げている。
正確には、イリゼの顔だけをずっと見つめていた。
「クゥーン」
「……なあに?」
「クゥン、クゥン」
またイリゼに向かって小さく鳴く。
イリゼになにかを尋ねるように、心をそっと覗き込むような眼差しと絡み合った瞬間――妙な気配をイリゼは感じた。
そして、クゥーン、と。鳴き声が耳をかすめたと思えば、
「……へっ?」
間の抜けたイリゼの声が、突風にかき消される。
たった一瞬まばたきをしただけだった。それだけだというのに、目を開いた先の景色は屋外。それも明らかにここは上空で。
(空が、近いっ……なんで、なにこれ、落ちてる!?)
天と地が逆さまになった感覚に、イリゼは凄まじい叫び声をあげた。
一体どうなっているのか、イリゼは轟々と吹き荒れる風の中心で右も左も分からなくなる。
「クーゥン」
ふと、その鳴き声が聞こえ、イリゼは奥歯を噛みしめながら閉じていた瞳をうっすら開く。
落下しているのだと思っていたが、正確には獣の背中に乗って上空を進んでいたらしい。
(この、毛色……さっきの子!?)
落ちないようにと死に物狂いで掴んでいた黒い毛は、つい先ほどまでイリゼの膝にいたそれとまったく同じである。
そして発せられた独特な鳴き声に、自分が乗っている物体は体を大きく変化させたあの獣なのだという結論に至った。
「なにっ……どうしてっ」
びゅうびゅうと風を切りながら進んでいく時の神獣の背中でイリゼは慌てふためく。
眼下はどこまでも広がる樹海で、葉もあまり見えず寂しげに枝だけが長く伸びている。
どこに向かおうとしているのだろう。
先ほどまでいた建物はどこにあるのかと振り替えると、視界の端に見知らぬ屋敷の屋根を見つけた。
(あれが、さっきまでいた場所? 分からないけど、このまま前進されるよりはいい)
「と、止まって! お願い、止まって!」
「クゥーン?」
イリゼは懸命に声をかける。
黒毛の獣は不思議そうな声音をあげて素直に止まった。
それはもう綺麗に、ピタリと空中で。
「とまっ……わああああ!」
止まりはしたが、もの凄い勢いで地上に落下している状況にイリゼの顔色は真っ青になる。
(止まれって言ったけど! 落ちてとは言ってない!)
「クゥン〜クゥン〜」
イリゼは死すら予感するほど気が気ではないというのに、当の時の神獣は楽しんでいるのか鳴き声が弾んでいた。
さらに気持ちよさそうに体を動かし、くるくると回転しはじめる。
まるで遊んでいるようだ。
(……)
ぶちっと、イリゼの頭の中で何かが切れる音がした。
「いい加減に……しろー!!」
「ク、クゥーイ?」
「前に進んで! そのまま飛んで、浮いたまま、動いて――進め!!」
樹海との距離が縮まり、いよいよ木々に体を突っ込んでしまうというところで、イリゼは必死になって指示を出す。
こんなところで死ぬのは御免だ。
なりふり構っていられず最後は命令のようになってしまったけれど、黒毛の獣は聞き受けたと言いたげに鳴き声をあげた。
「クゥーン」
ぎゅっと、きつく目をつぶる。
鳴き声が耳に届いた瞬間……イリゼの鼻先をかすめたのは、柔らかな花の香りだった。
(花びら?)
つん、とイリゼの鼻の上に引っ付いていたのは、真っ白な色の花びら。
おかしな違和感を覚えたイリゼは、下を向いて言葉を失う。
薄暗い雰囲気を纏っていたはずの樹海。
それがどうだろう。イリゼが目を閉じていた一瞬の間に姿を変え、可憐な花を一斉に咲かせていた。




