プロローグ
『――俺のすべてを犠牲にしても君を守るよ。他の誰にも触れさせやしない。君が目覚める、その時まで』
誰かの悲しむ声がする。
誰かのささめく声がする。
誰かの乞い願う声がする。
けれどあの頃の私は、なにも分からなかった。
知り得なかった世界の真実も、誰かの決意も。
***
北大陸の南方に位置するディモン王国の末端、ザルハン領。
今宵、王家の傍系血族にあたるザルハン領主が開いた舞踏会に大勢の招待客が参加していた。
楽団が奏でる音色に合わせて皆が踊り、酒と華々しい雰囲気に酔いしれていたときのこと。
「このドブネズミ! またわたくしの指輪を盗ろうとしたわね!? 呼んでもいないのに会場にまで来るなんてなんて図々しいのっ」
会場に設けられた未成年の少女たちの談笑スペースにて声高い叫びをあげるのは、ザルハン領主の一人娘であるエティナだ。
くるりと巻かれた黒髪に、フリルとレースがふんだんにあしらわれたドレスを着用するエティナは、傲慢な性格がそのまま滲み出たような顔をしている。
「これはわたくしのだと何度言ったらわかるのよ。本当に、私生児はやることも下賎なのね」
エティナは鼻で笑うと身につける首飾りに触れた。
金色の素材でできたペンダントの先端には、透明色の宝石がはめ込まれる指輪が揺れていた。
エティナはそれを手のひらに載せると、見せびらかすように転がした。
(――この、性悪女)
そんなエティナが睨みを効かせる視線の先には、みすぼらしい姿の少女があった。
服はつぎはぎだらけの木綿のワンピース。適当に切られたざんばらな黒髪の癖毛は煤だらけ、袖と裾から覗く手足は小枝のように細い。
「まあ、まるでボロ雑巾じゃない」
「なんて場違いな……」
伸びきった前髪で顔の半分が隠れており、周囲は小汚い少女の姿に眉をひそめた。
けれど少女の瞳にはら燃え盛る闘気が宿っている。
少女はエティナに狙いを定め、今にも仕留める勢いでペンダントを見定めた。
(そのムダにくるくるした髪を引っ張ってやろうかしら。でも、そんなことしている場合じゃないわ。いまはお母さまの指輪を返してもらわなきゃ)
「――、――」
「なに? なんて言っているのか聞こえないわよ」
少女が口を開けば、出てくるのはかすれた音ばかり。言葉が紡がれることはなかった。
(私の声を奪った張本人のくせに)
いっそ頬を引っ叩いてやりたい思いに駆られるが、少女はぐっと堪えた。
(お母さまの指輪さえ戻ってくれば、すぐにこの城を出てやる)
少女がエティナに掴みかかろうとした瞬間――会場全体に、突風が吹き荒れた。
いたるところで悲鳴が上がり、扉から乱入者が現れふ。
一人、二人――おおよそ十人程度が会場に流れ込んでくる。
誰も彼も目を引く黒衣を纏っており、その先頭に立つ男の姿に周囲は驚愕に表情を染め上げた。
(こんなときに、誰……?)
まばたいた瞬間――七色眼が、少女の姿を映したような気がした。
「……!」
気のせいではなく、あきらかにその人物はこちらを見ていた。
集団の先頭に立つ男は、光の粒を詰め込んだような、美しく煌めく白金の髪をしていた。
底知れぬ恐怖さえ感じる美貌に人々は息を呑み、誰もが身を竦ませたとき。
少女の頭には、亡き母の言葉が蘇った。
『――この空を見ていると、どうしてなのかしら、胸が苦しくて仕方がなくなる。きっと私は大切な記憶を忘れてしまったのだわ』
虹のカーテンが夜空を彩ったあの日、母は泣いていた。
娘には見せまいと空を見上げた横顔に、一筋の涙を伝わせて。忘却の記憶に思いを馳せるそんな母の姿を、少女は鮮明に思い出せる。
「あの目の色は、まさか……デアテゾーラの天空領主!?」
舞踏会の招待客が、その男を指差して言う。
デアテゾーラ――人呼んで、楽園。
はるか昔、七つの祝福を授ける女神によって創造された天空の大地は、統治者である領主と、守護者と呼ばれる者たちによって成り立っていた。
その楽園は異能力者という人知を超えた力を持つ人々が集い生きており、獣のような姿に近い者から、ある一定の特徴を持つ者と、幅広く現存しているという。
中でも強大な力を保持しているのが、天空領主と、かの者から力を分け与えられた眷属である守護者であり――。
世界は、この天空の楽園と、四つの大陸と島々から成る地上との二つに分けられていた。
天空と地上を行き来する手段は存在するものの、地上人が易々と赴けるわけではない。いつだって片方の――天空人の出方によって成り立つ不確かな関係にすぎなかった。
「天空領主だって?」
「……あの男が本当に」
「間違いない。瞳の七色眼と、女神の紋章は――」
女神は天空に七つの祝福を授け、その証として領主の瞳は神秘の色を宿す。それは天空領主と、次期後継者になるにふさわしい者だけが持つ色とされていた。
「ふん……」
段々と野次馬の声が大きくなる。
しかしその男は気にもとめず少女とエティナの元までやって来た。
「な、ななな……あなたっ」
エティナは魚のように口をぱくぱくとさせながら、自分の背丈よりもうんと高いその男を見上げる。
男が纏う雰囲気に圧倒されたのか、すっかり男に魅入っていた。
(いまなら、取り返せる)
そんなことを少女は考える。
誰もが突然現れた男に意識を集中させる場面でも、少女にとって一番大切なのは一つだけ。
エティナに奪われた――母親の形見の指輪だけである。
「その指輪は、お前のか」
男はエティナが手のひらで転がしていた指輪に目を向け尋ねた。
「そ、そうよ。これはわたくしのよ! お父様から譲り受けた、わたくしの指輪なんだからっ」
見たことのない美貌の男が自分の所持している指輪に興味を持っていることに優越感でも持ったのか、エティナは得意げに言った。
「……っ!」
違う、と否定したくて開けた少女の口からは、一声も出てこない。
少女はエティナの両肩に掴みかかった。
「ちょっと、なにするのよっ!? まだこの指輪を狙っているのね! いい加減に諦めなさいよっ」
エティナは少女の手を払おうと腕を振り上げる。
揉み合った拍子に、少女の頬にエティナの肘が思い切り当たった。
普段からろくな食事をしていなかった少女には突然の衝撃に耐えるだけの力がなく、そのまま倒れ込んでしまった。
(痛っ)
どうやら腰を打ったらしい。
じんわりと広がる鈍痛に顔を顰めた少女が見上げると、同じように眉間に皺を寄せた男と目が合う。
「……!」
男は、前髪の隙間から見えた少女の顔に動揺を示した様子だった。
「お前、は」
そのまま床に伏した少女の前に片膝をつくと、一分一秒も惜しいと言いたげな動きで腕をこちらに伸ばしてくる。
思わぬ接近に少女は身をすくめ目を瞑った。
はらりと、前髪が男の手によって持ち上がる感覚がして、空気に触れた額がやけに冷たく感じた。
「――オフィーリア」
消え入りそうな声。
その名を聞いて少女は瞳を開ける。
(どうしてお母さまの名前を知っているの?)
もしや母を知る人物なのだろうか。
それまでは指輪の奪取が最優先であったため、乱入者である男にさして興味もなかった少女は、改めて目の前の人物を確かめた。
「お前は、何者だ」
七色の神秘な輝きを宿す瞳が、弱々しく揺れたような気がして。何者だ、という言葉に、少女は声が出せない現所を恨んだ。
少女の名は――イリゼ。
男が呟いたオフィーリアのたった一人の娘であり、このザルハン領主城では、妾の子と罵られて生きてきた。
十歳にしては驚くほど小さな、小さな少女である。




