身勝手な婚約者を捨てたら、護衛に求婚されました~誇り高き令嬢は偽りの婚約を断ち切り、八年越しの誓いは果たされる~
学園の中庭を抜けると、白い大理石の噴水から立ち上る水飛沫が午後の陽射しを受け、細い虹を作っていた。
高い空の青と、噴き上がる白が混ざり合う、その一瞬だけの色彩。
薔薇の生け垣に囲まれた石畳の小道を歩きながら、私は無意識に首元のペンダントに触れた。
母から受け継いだ蒼玉。私の瞳の色でもあり、ル・サージュ侯爵家の象徴でもあるそれは、緊張で冷たくなった指先に、ひやりとした感触を返す。
――落ち着いて、ヴェロニク・ル・サージュ。
侯爵家の跡取りが、こんなことで動揺してどうするの。
そう思うのに、心臓は妙に早い。
それも仕方がない。だって、噴水の向こうに――見たくない光景があるのだから。
金髪が春の光を弾き、水色の瞳が楽しげに細められている。
ルシアン・ド・モンレーヴ。私の婚約者。
彼は、見知らぬ令嬢と親しげに笑い合っていた。
距離が、近い。
艶やかな黒髪と黒曜石のような目を持つ彼女は、妖艶な雰囲気をまとっている。
彼女の頬は薔薇色に染まり、ためらいもなくルシアンに寄り添っている。
遠くから聞こえる学生たちの談笑が、まるで別世界の音に感じられた。
噴水の水音だけがやけに大きく、胸の奥を叩く。
私の中で何かが、静かに音を立てて崩れていく。
それは恋ではない。
――婚約者として、貴族として踏みにじられた誇りだった。
指先が冷たくなる。
同時に胸の奥で、小さな炎が燃え上がる。
私は、ここで泣くような女ではない。
ル・サージュ侯爵家の娘として生まれた以上、私に許されるのは「正しく怒る」ことだ。
「お嬢様」
背後から静かな声がかかる。
振り返ると、護衛兼従者のユーゴが、穏やかに微笑んでいた。
黒に近い焦げ茶の髪。灰青色の瞳。きっちり身に着けた短上着。乱れのない所作。
けれど私は知っている。その服の下に隠された鍛えられた体躯と、剣を握った時の静かな威圧を。
「……見えていたのね」
「はい。ですが、お嬢様が望まれなければ、私は何もしません」
言葉は柔らかいのに、芯が揺らがない。
私を守るという意思が、そこにある。
「気にしないで、とは言わないの?」
「ええ。気にすべきことです。あなたのお立場は、あなたの誇りは――守られなければなりません」
胸の奥の炎が、少しだけ落ち着く。
不思議だ。彼がいるだけで、背筋が伸びる。
私は小さく息を吐いた。栗色の髪を結い上げた飾り紐が、風に揺れる。
――このままにしておくわけにはいかない。
侯爵家の跡取りとして。
そして、婚約者として。
きちんと決着をつける。
「……明日、呼び出すわ。温室のティーサロンへ」
「承知しました」
ユーゴは微笑み、ほんのわずかに視線を逸らした。
まるで、私の決意を誇らしく思っているように見えて、胸がくすぐったくなる。
噴水の虹が揺れた。
その向こうでルシアンは、まだ誰かに笑いかけている。
――あなたは、何を失いかけているのか、分かっていない。
翌日。
学園の温室は、陽の光を透かして淡い金色に満ちていた。
ガラス越しの陽射しは柔らかいのに、空気はどこか湿り気を帯びている。
葉を打つ水滴の匂い、土の匂い、花の甘い香りが混ざり合い、息を吸うだけで胸の奥が落ち着く――はずだった。
温室の一角にある小さなティーサロンは、来賓も使う静かな場所だ。
白いアイアンの椅子、丸いテーブル、そしてガラス天井から落ちる光。
私はそこで、ルシアンを待った。
背後にはユーゴが立つ。
彼はいつもと同じ距離、同じ姿勢で、私の視界に入らないように控えていた。
それなのに、不思議と心だけは守られている。
やがて、軽い足音。
「……ヴェロニク、こんな場所に呼び出して。用件って何?」
ルシアンは不機嫌そうに言いながら椅子に腰を下ろした。
周囲に人が少ないのを確認したのだろう、声にも遠慮がない。
私は紅茶に口をつけてから、カップを静かに戻す。
「昨日のことよ」
「昨日?」
「噴水の前で、あなたが誰と、どんなふうに笑っていたか――覚えていないの?」
一瞬、彼の目が泳いだ。
「ああ……彼女のことか。友人だよ。学園では社交も必要だろう?」
社交。
私は、笑いそうになるのを飲み込んだ。
「ずいぶん都合のいい社交ですこと」
「君は相変わらず堅いな。ここは共学なんだし――」
彼はちらりと、私の背後へ視線を投げた。
「いつも男性の従者を連れ歩いている君に、言われたくないな」
温室の空気が、一段冷えたように感じた。
指先が震え、カップが小さく音を立てる。
ガラス越しの光が揺れて見える。
私は息を整えた。
ここで取り乱すわけにはいかない。
「……そう。あなたの言いたいことは分かりました」
私は立ち上がった。
その瞬間だった。
サロンの入口、温室の扉が開く。
冷たい外気が流れ込み、花の香りが揺れた。
「ルシアン様!」
甲高い声。
計ったようなタイミングで、昨日の令嬢が現れる。
――名前で呼ぶことを許しているなんて。
彼女の胸元には、特徴的なブローチが揺れていた。
私は一瞬だけ、それを見てから、優雅に微笑んだ。
「初めまして。私、ヴェロニク・ル・サージュ。ルシアンの婚約者ですわ」
令嬢の表情が凍りつく。
ルシアンは息を呑み、言葉を探して口を開いた。
「違う、ヴェロニク、これは――」
「でしたら、堂々と紹介すればよろしかったのでは?」
温室の花々は、何も知らぬ顔で瑞々しく咲いている。
けれど、この場にある空気だけは、はっきりと終わりの色を帯びていた。
私は踵を返す。
背後で、ユーゴの足音が私に寄り添った。
ガラス天井の向こうで光がきらめき、私の胸の奥に燃えるものが、静かに形を変えていく。
――終わりよ、ルシアン。
事態は思いのほか早く動いた。
翌週。両家の当主が揃い、婚約破棄が決定した。
父は、ルシアン側の有責として多額の違約金を得ることに成功した。
それだけではない。
同時に進んでいた鉱山事業の提携話も白紙に戻されたのだ。
書斎で父は満足そうに言った。
革張りの椅子に深く腰掛け、窓から差し込む光が父の銀髪を輝かせている。
「ヴェロニク。あの家は――こちらを甘く見ていた」
私は頷きながらも、胸の内に小さな引っかかりを覚えていた。
あまりにもスムーズすぎる。
まるで最初から筋書きがあったみたいに。
私は、父に婚約を考え直してほしいと伝えていた。
けれど、まさか一週間でここまで決着するだろうか。
学園で彼女が現れたタイミング。
私が立ち上がった瞬間。
あれは偶然にしては出来すぎていた。
――そして、あの騒動以降、彼女の姿を見ていない。
そもそも彼女は、どこの家の令嬢だったのか。
ルシアン自身も、よく分かっていないようだった。
思い出す。
彼女の胸元には、外部来訪者に渡される小さなブローチ型の許可証が輝いていた。
もしかして……学生ではなかったのかもしれない。
父が意味深な笑みを浮かべた。
「お前に話しておくことがある」
「何かしら、父様?」
「ユーゴのことだ」
――ユーゴ?
父は書類を整え、淡々と言った。
「彼は二ヶ月前、私のところに来た。『婚約破棄を成功させ、鉱山事業の提携を阻止する代わりに、ヴェロニク様との婚約をお認めください』とな」
「……え?」
頭が追いつかない。
二ヶ月前と言えば、私が学園に入学する前だ。
「私は驚いた。彼は七年間、誠実に仕えていた。だが一度も、そのような野心を見せたことはなかった」
父は窓の外に視線を向ける。
「彼は言った。『諦めていました。身分が違いすぎる。側で仕えるだけで幸せだと、自分に言い聞かせていました』とな」
「では、なぜ……?」
「偶然、ユーゴがド・モンレーヴ家の召使の会話を耳に挟んで、調べた。……いや、調べさせた、と言うべきか」
父は一拍置いて、窓の外を見た。
「向こうの鉱山は、鉱脈がほぼ枯渇している可能性が高い。こちらの資金と流通網を引き出すための、詐欺的な話だった」
「枯渇……?」
「それで、彼は決めたらしい。侯爵家を守れるなら――自分の想いも賭けてみようと」
胸が、きゅっと締め付けられた。
父は、一枚の手紙を取り出した。
ルシアンの筆跡。
「そして計画を実行した結果がこれだ」
手紙には『ヴェロニクと結婚したら、君には家をあげる。彼女とは政略だ。君とは結婚できないけど、君の子を跡取りにするから許してくれ』と書かれていた。
恋に酔い、その愚かさにすら気づかず書き連ねた文章。
私は言葉を失った。
婿入りするのはルシアン。
当主を継ぐのは私。
それなのに、愛人の子を跡取りにする?
「これは簒奪の意志があるという重大な証拠だ」
父の声は冷たい。
「お前が学園で見たルシアンと一緒に居た令嬢――あれは、役者だ」
「役者……?」
「本物の令嬢を巻き込めば人生を壊す。だから、舞台慣れした者に演じさせた。ルシアンから情報を聞き出すのも、普通の令嬢なら難しかった」
父は私を安心させるように、こう続けた。
「彼女は隣国へ出国し、当分戻ってこない。姿も変えていたから、会っても気付かれないだろう」
私は息を吐いた。
「ルシアンは虚栄心が強い。弱そうな相手に優越感を示したがる――そこを突いただけだ。情報を得るためで、恋愛関係だと思い込んでいたのは彼だけだ。彼女は聞き役に徹していただけだそうだ」
父はそこで言葉を切り、わずかに肩をすくめた。
「正直、あそこまで舞い上がるとは思わなかった。家の内情を話しただけでなく、愛の証だとあんな手紙まで寄越した……あれは、さすがにユーゴも想定外だったようだがな」
私の胸の中に冷たい風が吹き抜ける。
彼は女性に対して隙のある印象はあったが、ここまで判断を誤るとは思っていなかった。
「学園の規定を調べ、外部来訪者として出入り許可まで取り付けたのもユーゴだ。ルシアンと接触させ、噂が広がるよう導線を作った」
父は私を見つめながら「侯爵家の名前を使うことは許可した。しかし短期間でここまでするとは。信頼していたが思っていた以上だった」と言った。
その瞳には、娘を案じる優しさと、ユーゴへの評価が混じっている。
「私はこう言った。『本当にやり遂げたなら、お前との婚約を認めよう。ただしヴェロニクが望まなければ、この話はなかったことにする』と」
心臓が、強く打った。
「ユーゴが……私のために……?」
私を守るためだけではない。
侯爵家全体を、詐欺から救ったのだ。
胸の奥が熱い。
同時に、恐ろしいくらいの現実感が湧き上がる。
――彼は、どんな気持ちで、私の背後に立っていたの?
私は、彼の想いに気づかないふりをしていたのかもしれない。
次の日の朝。
応接室で、私はユーゴと向き合った。
ドアは開け放たれ、信頼のおける侍女が壁の位置に控えている。
不用意な噂を避けるための、最低限の配慮。
ユーゴは、いつになく真剣な表情をしていた。
灰青色の瞳に、決意の光が宿っている。
「お話があります」
「ユーゴ……父から、聞いたわ」
彼の目が驚きに見開かれる。
「そう、ですか……」
「全てを計画していたのね」
「はい」
短い返事。
誤魔化しもしない。逃げもしない。
「なぜ、そこまで……?」
問う声が、少し震えた。
ユーゴは、静かに息を吸った。
「あなたが傷つくのを、見たくなかったからです」
それだけで、胸が締め付けられた。
「……でも、手段が大胆すぎるわ」
「承知しています。ですが、あなたは侯爵家の跡取りです。あなたの婚約は、あなた一人の問題ではありません。詐欺の提携が成立すれば、領地も民も――危険に晒される」
彼の言葉は理屈なのに、その奥に熱がある。
冷静なだけではない。必死なのだ。
ユーゴは一歩近づき、膝をついた。
「ヴェロニク様。侯爵様との約束は果たしました。でも、最も大切なのは――あなたのお気持ちです」
彼はまっすぐに私を見る。
「私は男爵家の二男です。あなたとは釣り合いません。ですが――あなたを幸せにする自信はあります。いえ、必ず幸せにします」
灰青色の瞳に、決意の光が宿る。
「そして――あなたに、好きになってもらう自信もあります」
心臓が一拍飛ぶ。
そんなこと、言う人だと思っていなかった。
「八年前、覚えていらっしゃいますか?」
「八年前……?」
「園遊会です。いじめられていた少年を、あなたは助けてくださいました」
記憶が、鮮明に蘇る。
夕暮れの庭園。
泣いている少年。
貴族の子供たちに囲まれ、傷ついていた彼を、私は庇った。
差し出したレースのハンカチで、そっと涙を拭いた時の、彼の驚いた表情。
「いつか必ず恩返しをします」
震える声でそう言った少年と、小指を絡めて約束した。
夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。
私は息を呑む。
小さくひ弱だった少年と、目の前のユーゴが、一本の糸で繋がる。
当時は成長前で、年上だなんて思いもしなかった。小柄で細く、影の薄い子だったのに。
「……あれは、あなた?」
「はい」
ユーゴは微笑んだ。
その笑顔に、あの日の少年の面影が重なる。
「私は決めました。強くなって、必ずあなたの元に行くと。いつかあなたを守れる男になると」
声が、少しだけ震えている。
その震えが、胸に刺さる。
「伯父の伯爵家で一年間修行しました。剣術も、学問も、執事としての技能も。それから侯爵家に雇っていただき、七年間――あなたのそばで仕えながら、ずっと想い続けていました」
涙が出そうになった。
でも泣くのは違う。これは――嬉しさだ。
「でも」
ユーゴは少し寂しげに笑う。
「もしあなたが望まないなら、この婚約の話はなかったことに――」
「ユーゴ」
私はその言葉を遮った。
胸の奥の炎が、今度は温かい光になっている。
「実は、私も……あなたが側にいてくれることが、とても嬉しかったの」
いつから意識していたのだろう。
喫茶席で背後に立ってくれた時?
毎朝、優しく微笑んでくれた瞬間?
気づけば彼の存在なしには、私の日常は成り立たなくなっていた。
「お嬢様……」
「ヴェロニクと呼んで」
私は近づいた。
レースのハンカチを取り出し、八年前と同じように彼の頬に触れる。
今度は涙ではなく、幸せの証として。
「父は条件を達成したあなたを認めてくださった。でも、私の気持ちも同じよ。あなたとなら……幸せになれる気がするの」
ユーゴの目が驚きに見開かれ、そして、ゆっくりと微笑んだ。
「それは……私の人生最高の勝利になります」
彼の声は少し震えていた。それが、嬉しかった。強くなった彼の中に、まだあの純粋な少年が生きている。
窓の外で噴水の水飛沫がまた虹を作っている。けれど今度は、それが未来への架け橋に見えた。
身勝手な婚約者を失った代わりに。
私は、八年間の想いと、誠実な愛を手に入れた。




