表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

身勝手な婚約者を捨てたら、護衛に求婚されました~誇り高き令嬢は偽りの婚約を断ち切り、八年越しの誓いは果たされる~

作者: 水主町あき
掲載日:2026/01/04

 学園の中庭を抜けると、白い大理石の噴水から立ち上る水飛沫が午後の陽射しを受け、細い虹を作っていた。

 高い空の青と、噴き上がる白が混ざり合う、その一瞬だけの色彩。


 薔薇の生け垣に囲まれた石畳の小道を歩きながら、私は無意識に首元のペンダントに触れた。

 母から受け継いだ蒼玉(サファイア)。私の瞳の色でもあり、ル・サージュ侯爵家の象徴でもあるそれは、緊張で冷たくなった指先に、ひやりとした感触を返す。


 ――落ち着いて、ヴェロニク・ル・サージュ。

 侯爵家の跡取りが、こんなことで動揺してどうするの。


 そう思うのに、心臓は妙に早い。

 それも仕方がない。だって、噴水の向こうに――見たくない光景があるのだから。


 金髪が春の光を弾き、水色の瞳が楽しげに細められている。

 ルシアン・ド・モンレーヴ。私の婚約者。


 彼は、見知らぬ令嬢と親しげに笑い合っていた。


 距離が、近い。

 艶やかな黒髪と黒曜石のような目を持つ彼女は、妖艶な雰囲気をまとっている。

 彼女の頬は薔薇色に染まり、ためらいもなくルシアンに寄り添っている。


 遠くから聞こえる学生たちの談笑が、まるで別世界の音に感じられた。

 噴水の水音だけがやけに大きく、胸の奥を叩く。


 私の中で何かが、静かに音を立てて崩れていく。

 それは恋ではない。

 ――婚約者として、貴族として踏みにじられた誇りだった。


 指先が冷たくなる。

 同時に胸の奥で、小さな炎が燃え上がる。


 私は、ここで泣くような女ではない。

 ル・サージュ侯爵家の娘として生まれた以上、私に許されるのは「正しく怒る」ことだ。


「お嬢様」


 背後から静かな声がかかる。

 振り返ると、護衛兼従者のユーゴが、穏やかに微笑んでいた。


 黒に近い焦げ茶の髪。灰青色の瞳。きっちり身に着けた短上着(タバード)。乱れのない所作。

 けれど私は知っている。その服の下に隠された鍛えられた体躯と、剣を握った時の静かな威圧を。


「……見えていたのね」


「はい。ですが、お嬢様が望まれなければ、私は何もしません」


 言葉は柔らかいのに、芯が揺らがない。

 私を守るという意思が、そこにある。


「気にしないで、とは言わないの?」


「ええ。気にすべきことです。あなたのお立場は、あなたの誇りは――守られなければなりません」


 胸の奥の炎が、少しだけ落ち着く。

 不思議だ。彼がいるだけで、背筋が伸びる。


 私は小さく息を吐いた。栗色の髪を結い上げた飾り紐が、風に揺れる。

 ――このままにしておくわけにはいかない。


 侯爵家の跡取りとして。

 そして、婚約者として。

 きちんと決着をつける。


「……明日、呼び出すわ。温室のティーサロンへ」


「承知しました」


 ユーゴは微笑み、ほんのわずかに視線を逸らした。

 まるで、私の決意を誇らしく思っているように見えて、胸がくすぐったくなる。


 噴水の虹が揺れた。

 その向こうでルシアンは、まだ誰かに笑いかけている。


 ――あなたは、何を失いかけているのか、分かっていない。


 翌日。

 学園の温室は、陽の光を透かして淡い金色に満ちていた。


 ガラス越しの陽射しは柔らかいのに、空気はどこか湿り気を帯びている。

 葉を打つ水滴の匂い、土の匂い、花の甘い香りが混ざり合い、息を吸うだけで胸の奥が落ち着く――はずだった。


 温室の一角にある小さなティーサロンは、来賓も使う静かな場所だ。

 白いアイアンの椅子、丸いテーブル、そしてガラス天井から落ちる光。


 私はそこで、ルシアンを待った。


 背後にはユーゴが立つ。

 彼はいつもと同じ距離、同じ姿勢で、私の視界に入らないように控えていた。

 それなのに、不思議と心だけは守られている。


 やがて、軽い足音。


「……ヴェロニク、こんな場所に呼び出して。用件って何?」


 ルシアンは不機嫌そうに言いながら椅子に腰を下ろした。

 周囲に人が少ないのを確認したのだろう、声にも遠慮がない。


 私は紅茶に口をつけてから、カップを静かに戻す。


「昨日のことよ」


「昨日?」


「噴水の前で、あなたが誰と、どんなふうに笑っていたか――覚えていないの?」


 一瞬、彼の目が泳いだ。


「ああ……彼女のことか。友人だよ。学園では社交も必要だろう?」


 社交。

 私は、笑いそうになるのを飲み込んだ。


「ずいぶん都合のいい社交ですこと」


「君は相変わらず堅いな。ここは共学なんだし――」


 彼はちらりと、私の背後へ視線を投げた。


「いつも男性の従者を連れ歩いている君に、言われたくないな」


 温室の空気が、一段冷えたように感じた。


 指先が震え、カップが小さく音を立てる。

 ガラス越しの光が揺れて見える。


 私は息を整えた。

 ここで取り乱すわけにはいかない。


「……そう。あなたの言いたいことは分かりました」


 私は立ち上がった。

 その瞬間だった。


 サロンの入口、温室の扉が開く。

 冷たい外気が流れ込み、花の香りが揺れた。


「ルシアン様!」


 甲高い声。

 計ったようなタイミングで、昨日の令嬢が現れる。

 ――名前で呼ぶことを許しているなんて。


 彼女の胸元には、特徴的なブローチが揺れていた。

 私は一瞬だけ、それを見てから、優雅に微笑んだ。


「初めまして。私、ヴェロニク・ル・サージュ。ルシアンの婚約者ですわ」


 令嬢の表情が凍りつく。

 ルシアンは息を呑み、言葉を探して口を開いた。


「違う、ヴェロニク、これは――」


「でしたら、堂々と紹介すればよろしかったのでは?」


 温室の花々は、何も知らぬ顔で瑞々しく咲いている。

 けれど、この場にある空気だけは、はっきりと終わりの色を帯びていた。


 私は踵を返す。


 背後で、ユーゴの足音が私に寄り添った。

 ガラス天井の向こうで光がきらめき、私の胸の奥に燃えるものが、静かに形を変えていく。


 ――終わりよ、ルシアン。


 事態は思いのほか早く動いた。


 翌週。両家の当主が揃い、婚約破棄が決定した。

 父は、ルシアン側の有責として多額の違約金を得ることに成功した。


 それだけではない。

 同時に進んでいた鉱山事業の提携話も白紙に戻されたのだ。


 書斎で父は満足そうに言った。

 革張りの椅子に深く腰掛け、窓から差し込む光が父の銀髪を輝かせている。


「ヴェロニク。あの家は――こちらを甘く見ていた」


 私は頷きながらも、胸の内に小さな引っかかりを覚えていた。


 あまりにもスムーズすぎる。

 まるで最初から筋書きがあったみたいに。


 私は、父に婚約を考え直してほしいと伝えていた。

 けれど、まさか一週間でここまで決着するだろうか。


 学園で彼女が現れたタイミング。

 私が立ち上がった瞬間。

 あれは偶然にしては出来すぎていた。


 ――そして、あの騒動以降、彼女の姿を見ていない。


 そもそも彼女は、どこの家の令嬢だったのか。

 ルシアン自身も、よく分かっていないようだった。


 思い出す。

 彼女の胸元には、外部来訪者に渡される小さなブローチ型の許可証が輝いていた。

 もしかして……学生ではなかったのかもしれない。


 父が意味深な笑みを浮かべた。


「お前に話しておくことがある」


「何かしら、父様?」


「ユーゴのことだ」


 ――ユーゴ?


 父は書類を整え、淡々と言った。


「彼は二ヶ月前、私のところに来た。『婚約破棄を成功させ、鉱山事業の提携を阻止する代わりに、ヴェロニク様との婚約をお認めください』とな」


「……え?」


 頭が追いつかない。

 二ヶ月前と言えば、私が学園に入学する前だ。


「私は驚いた。彼は七年間、誠実に仕えていた。だが一度も、そのような野心を見せたことはなかった」


 父は窓の外に視線を向ける。


「彼は言った。『諦めていました。身分が違いすぎる。側で仕えるだけで幸せだと、自分に言い聞かせていました』とな」


「では、なぜ……?」


「偶然、ユーゴがド・モンレーヴ家の召使の会話を耳に挟んで、調べた。……いや、調べさせた、と言うべきか」


 父は一拍置いて、窓の外を見た。


「向こうの鉱山は、鉱脈がほぼ枯渇している可能性が高い。こちらの資金と流通網を引き出すための、詐欺的な話だった」


「枯渇……?」


「それで、彼は決めたらしい。侯爵家を守れるなら――自分の想いも賭けてみようと」


 胸が、きゅっと締め付けられた。


 父は、一枚の手紙を取り出した。

 ルシアンの筆跡。


「そして計画を実行した結果がこれだ」


 手紙には『ヴェロニクと結婚したら、君には家をあげる。彼女とは政略だ。君とは結婚できないけど、君の子を跡取りにするから許してくれ』と書かれていた。


 恋に酔い、その愚かさにすら気づかず書き連ねた文章。

 私は言葉を失った。


 婿入りするのはルシアン。

 当主を継ぐのは私。

 それなのに、愛人の子を跡取りにする?


「これは簒奪の意志があるという重大な証拠だ」


 父の声は冷たい。


「お前が学園で見たルシアンと一緒に居た令嬢――あれは、役者だ」


「役者……?」


「本物の令嬢を巻き込めば人生を壊す。だから、舞台慣れした者に演じさせた。ルシアンから情報を聞き出すのも、普通の令嬢なら難しかった」


 父は私を安心させるように、こう続けた。


「彼女は隣国へ出国し、当分戻ってこない。姿も変えていたから、会っても気付かれないだろう」


 私は息を吐いた。


「ルシアンは虚栄心が強い。弱そうな相手に優越感を示したがる――そこを突いただけだ。情報を得るためで、恋愛関係だと思い込んでいたのは彼だけだ。彼女は聞き役に徹していただけだそうだ」


 父はそこで言葉を切り、わずかに肩をすくめた。

 

「正直、あそこまで舞い上がるとは思わなかった。家の内情を話しただけでなく、愛の証だとあんな手紙まで寄越した……あれは、さすがにユーゴも想定外だったようだがな」


 私の胸の中に冷たい風が吹き抜ける。

 彼は女性に対して隙のある印象はあったが、ここまで判断を誤るとは思っていなかった。


「学園の規定を調べ、外部来訪者として出入り許可まで取り付けたのもユーゴだ。ルシアンと接触させ、噂が広がるよう導線を作った」


 父は私を見つめながら「侯爵家の名前を使うことは許可した。しかし短期間でここまでするとは。信頼していたが思っていた以上だった」と言った。

 その瞳には、娘を案じる優しさと、ユーゴへの評価が混じっている。


「私はこう言った。『本当にやり遂げたなら、お前との婚約を認めよう。ただしヴェロニクが望まなければ、この話はなかったことにする』と」


 心臓が、強く打った。


「ユーゴが……私のために……?」


 私を守るためだけではない。

 侯爵家全体を、詐欺から救ったのだ。


 胸の奥が熱い。

 同時に、恐ろしいくらいの現実感が湧き上がる。


 ――彼は、どんな気持ちで、私の背後に立っていたの?


 私は、彼の想いに気づかないふりをしていたのかもしれない。


 次の日の朝。

 応接室で、私はユーゴと向き合った。


 ドアは開け放たれ、信頼のおける侍女が壁の位置に控えている。

 不用意な噂を避けるための、最低限の配慮。


 ユーゴは、いつになく真剣な表情をしていた。

 灰青色の瞳に、決意の光が宿っている。


「お話があります」


「ユーゴ……父から、聞いたわ」


 彼の目が驚きに見開かれる。


「そう、ですか……」


「全てを計画していたのね」


「はい」


 短い返事。

 誤魔化しもしない。逃げもしない。


「なぜ、そこまで……?」


 問う声が、少し震えた。


 ユーゴは、静かに息を吸った。


「あなたが傷つくのを、見たくなかったからです」


 それだけで、胸が締め付けられた。


「……でも、手段が大胆すぎるわ」


「承知しています。ですが、あなたは侯爵家の跡取りです。あなたの婚約は、あなた一人の問題ではありません。詐欺の提携が成立すれば、領地も民も――危険に晒される」


 彼の言葉は理屈なのに、その奥に熱がある。

 冷静なだけではない。必死なのだ。


 ユーゴは一歩近づき、膝をついた。


「ヴェロニク様。侯爵様との約束は果たしました。でも、最も大切なのは――あなたのお気持ちです」


 彼はまっすぐに私を見る。


「私は男爵家の二男です。あなたとは釣り合いません。ですが――あなたを幸せにする自信はあります。いえ、必ず幸せにします」


 灰青色の瞳に、決意の光が宿る。


「そして――あなたに、好きになってもらう自信もあります」


 心臓が一拍飛ぶ。

 そんなこと、言う人だと思っていなかった。


「八年前、覚えていらっしゃいますか?」


「八年前……?」


「園遊会です。いじめられていた少年を、あなたは助けてくださいました」


 記憶が、鮮明に蘇る。


 夕暮れの庭園。

 泣いている少年。

 貴族の子供たちに囲まれ、傷ついていた彼を、私は庇った。


 差し出したレースのハンカチで、そっと涙を拭いた時の、彼の驚いた表情。


「いつか必ず恩返しをします」


 震える声でそう言った少年と、小指を絡めて約束した。

 夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。


 私は息を呑む。


 小さくひ弱だった少年と、目の前のユーゴが、一本の糸で繋がる。

 当時は成長前で、年上だなんて思いもしなかった。小柄で細く、影の薄い子だったのに。


「……あれは、あなた?」


「はい」


 ユーゴは微笑んだ。

 その笑顔に、あの日の少年の面影が重なる。


「私は決めました。強くなって、必ずあなたの元に行くと。いつかあなたを守れる男になると」


 声が、少しだけ震えている。

 その震えが、胸に刺さる。


「伯父の伯爵家で一年間修行しました。剣術も、学問も、執事としての技能も。それから侯爵家に雇っていただき、七年間――あなたのそばで仕えながら、ずっと想い続けていました」


 涙が出そうになった。

 でも泣くのは違う。これは――嬉しさだ。


「でも」


 ユーゴは少し寂しげに笑う。


「もしあなたが望まないなら、この婚約の話はなかったことに――」


「ユーゴ」


 私はその言葉を遮った。

 胸の奥の炎が、今度は温かい光になっている。


「実は、私も……あなたが側にいてくれることが、とても嬉しかったの」


 いつから意識していたのだろう。


 喫茶席で背後に立ってくれた時?

 毎朝、優しく微笑んでくれた瞬間?

 気づけば彼の存在なしには、私の日常は成り立たなくなっていた。


「お嬢様……」


「ヴェロニクと呼んで」


 私は近づいた。

 レースのハンカチを取り出し、八年前と同じように彼の頬に触れる。

 今度は涙ではなく、幸せの証として。


「父は条件を達成したあなたを認めてくださった。でも、私の気持ちも同じよ。あなたとなら……幸せになれる気がするの」


 ユーゴの目が驚きに見開かれ、そして、ゆっくりと微笑んだ。


「それは……私の人生最高の勝利になります」


 彼の声は少し震えていた。それが、嬉しかった。強くなった彼の中に、まだあの純粋な少年が生きている。

 窓の外で噴水の水飛沫がまた虹を作っている。けれど今度は、それが未来への架け橋に見えた。


 身勝手な婚約者を失った代わりに。

 私は、八年間の想いと、誠実な愛を手に入れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ