青春を始めるのに遅いなんてことはない ⑧
久玲奈は、右腕だけが完全なる狼のそれへと変貌していた。
しかし、大きさは彼女の腕そのままだ。
「それは、不死殺しの爪か? 制御できたのか……。フェーズ2を」
「そうみたい。……っ、危ないッ!」
言いながら、久玲奈は右腕を軽く振ってみせた。
直後、僕らの周りに漂っていた王崎さんの血のムチが久玲奈により切断され、消滅する。
「あ、ありがとう」
僕は久玲奈を落ち着かせることに精一杯で、王崎さんからの攻撃に全く気が付いていなかったようだ。
王崎さんのインターバルはもう終わったのだろう。彼女の体から剥離した血液たちが、様々な武器の形を模して僕たちに襲い掛かってくる。
僕たちは王崎さんの肩の上を走りながら、首を目指した。王崎さんの攻撃は、常人離れした動きの久玲奈が全て叩き落としてくれている。
王崎さんはこんなことを言っていた。吸血鬼は首から血を吸うことに意味があるのだと。首から血を吸いながら、相手を落ち着かせる成分を出すことで、沈静化させられるのだと。
だから、僕が血を吸うのは王崎さんの首である必要があるのだ。
王崎さんの本体がどこにいるのかはわからない。だが恐らく、本体の首ではなくこの血の外郭の首から血を吸っても効果はあるはず。
王崎さんの『我は貴き血喰い姫』は、首という箇所に対して特攻を持っているから。コピーした僕には、なんとなくそれがわかるのだ。
走りながら、息切れ一つしていない久玲奈がこんなことを訊いてくる。
「ろいちゃんはさ。私のこと、その。す、好き……って、言ってくれたじゃない?」
「うん」
躊躇いなく、僕は頷いた。
「いじわるな質問かもだけど、私への好きと、桜歌ちゃんへの好きはどう違うの?」
「それは……」
言われて黙考してみるが、明確な答えは出てこない。
そんな僕を見て、久玲奈は慌てたように両手をぶんぶん振った。
「って、ごめんなさい! 変なこと訊いちゃって! 気にしないで」
「ううん。いいんだ。……。えっと、たぶんだけど」
そう言い、僕は頭の中で思いを整理しながらそれを言葉にしていく。
「僕は、久玲奈のことも、王崎さんのことも、鍵市さんのことも、山乙さんのことも、灰谷さんのことも好きだけれど。でも、その好きのベクトルは全部少しずつ違うんだ」
「……うん」
僕たちの前方に出現した草刈りのチップソーのような血の刃を、久玲奈が右手で豆腐でも切るかのように切断した。
「久玲奈への好きは、一緒にいると安心する、家族へ向ける親愛のような好き、かな」
すると久玲奈は、歓喜と悲哀が同程度に混じったかのような複雑な感情に眉を曲げていた。
「それで王崎さんへの好きは……。ヒーローに向けるかのような、崇拝にも似た好き。――『崇愛』とでも言うのかな」
あの日。僕が病ヰを初めて発症した日。
暴走する僕を止めるために颯爽と現れた彼女は、紛れもない、僕にとってのヒーローだった。
「だから、どっちの好きがどうとか、どっちの好きが上とかは、正直……わからない」
でも、僕が久玲奈の告白を断ろうとしたのは事実だ。
ということは僕は、深層心理では久玲奈よりも王崎さんのことを好きだと思っているということなのだろうか。
いや……そうじゃない。久玲奈は大事だから、軽率にお付き合いできないというか……。ああ、もう、なにもわからない。
「そっか。崇拝、崇愛ねぇ。……ん? でもそれって、恋愛的な意味で桜歌ちゃんのことが好き! ……って、意味ではないってことなの?」
ぴこりと、久玲奈の耳と尻尾が天を衝いた。
「どうなんだろう。僕はその、恋ってのをしたことがないから。正直、王崎さんと付き合いたいのかと問われると、そういうことではない気もするし……」
彼女は高嶺の花とうか、なんというか。
だから、こうやってうじうじと色々考えてしまうのだろう。
「ふ、ふーん? ……なら、桜歌ちゃんを見て心臓がドキドキしたりはする?」
「それは。……。する」
風が凪いで、一瞬の沈黙が訪れた。
そして。
「……。なら、それが恋だわ」
風に掻き消えるかのような小声が、久玲奈の口から発せられた。
久玲奈の美しい横顔は、王崎さんの攻撃をいなすことで付いた血によって淡く彩られていた。
久玲奈は、左手で耳に髪をかけながら僕に告げる。
「その証拠に、私、ろいちゃんといると胸の高鳴りが止まらないもの!」
「久玲奈……」
彼女のその言葉と、久玲奈にしては大人びた表情が僕の心臓を掴んで、強く鼓動させた。
胸を押さえる僕を見て、久玲奈は悪戯っぽく口角を上げる。
「あはは! 私に惚れ直すのはいいけど、桜歌ちゃんをどうにかしてからね! 今ろいちゃんの病ヰが暴走しちゃうと、私死んじゃうから!」
「……ああ。惚れないように気を付けるよ」
「い、いや、ちょっと待って! 全然惚れてくれてもいいわよ!? 今は駄目ってだけでね!?」
現在、僕たちを阻む王崎さんの血の障壁はなにもない。
足を踏み出す速度が、自然と上がっていく。
「ろいちゃん。全ての好きを、無理に恋愛に結び付ける必要はないと思うわよ。恋愛の好きも尊いけど、友情の好きも同等に素敵じゃない?」
「……そうだな」
「……私、ろいちゃんに特別な友達って言われて、嬉しかったよ」
今僕は、昔みたいに久玲奈と一緒に駆けている。
いつか途切れた夢の続きの上を、二人で走っているかのようだ。
僕らを繋ぐのは、あまりにも純粋な、お互いのことを好きな気持ち。
それはもしかしたら、男女の関係を超越した関係なのかもしれない。
それで、よかった。
それが、よかったのだ。




