彼女は高嶺の吸血鬼 ⑨
落下する王崎さんのことを、焦点の合わない目の久玲奈が追従する。
王崎さんは不死身だ。落下しても死なないだろう。しかし、意識を失った状態の今の彼女が不死殺しの久玲奈の牙に貫かれたらどうなるのであろうか。
今の王崎さんがまだフェーズ2であるという確証がもてない。もしも、彼女のフェーズ2が既に終了していたのだとしたら――。
「灰谷さんッ! 僕を久玲奈の元まで飛ばしてくれ!」
「はぁ!? お前になにができるんだよ!」
「なんとかして僕が久玲奈をとめてみせる! だから、灰谷さんは王崎さんを頼む!」
「……ちッ。確かに、ボクのパワーじゃ今の伊織を止めらんねぇ。わかった! いけ! 死ぬなよ! あと、殺すな!」
灰谷さんが布団の上から飛び降りた。そして彼女は空中で浮遊を始める。
そうして、僕だけを乗せた布団が久玲奈に向かって猛スピードで飛んでいく。
布団に乗って移動しながら、僕は落下する王崎さんを目端で捉える。すると王崎さんは、重力に逆らい横移動を始めた。灰谷さんが超能力で動かしてくれているのだろう。
久玲奈は最後の力を振り絞り、王崎さんを噛み殺さんと大口を開く。
「久玲奈ッ!」
僕は王崎さんと久玲奈の間になんとか割り込み、久玲奈の牙を自分の病ヰで――。
――受け止めなかった。
「入村ッ!」
「ぐ、うッ……!」
遠くから聞こえる灰谷さんの声と、僕の声が混ざり合った。
鮮血が僕の視界を赤く濡らす。その血は、王崎さんのものでも久玲奈のものでもない。間違いなく、久玲奈に噛まれて僕の体から吹き出した僕の血であった。
痛い。痛い。痛い!
体が焼けるように痛い!
久玲奈の牙は、僕の左肩の辺りを深くえぐっている。
僕が病ヰを展開しなかった理由は、色々ある。
まず一つが、誤って久玲奈を殺してしまわないように。
もう一つは……。なんとなく、なんとなくだが、フェーズ2になった王崎さんでも敵わなかった久玲奈をとめるためには、僕が覚悟を見せる必要があると思ったからだ。
久玲奈の牙に貫かれたまま、僕は久玲奈の頭に右腕を回して彼女のことを優しく抱きしめた。
そして、血の味の混じる口を開き、彼女の大きく素敵な獣耳に向かって声を囁く。
「久玲奈。僕のことを好きでいてくれてありがとう。こんなに……こんなになるほど、僕のことを好きでいてくれたんだな。全く、知らなかったよ」
久玲奈の瞳は虚ろだ。
この声が、今の彼女に届くかどうかはわからない。それでも、僕は言葉を紡ぐ。彼女を落ち着かせるため、ではなく、彼女の思いに応えるために。
「僕――」
「――言わなくても、いい」
久玲奈は、掠れる声で確かにそう言った。
「言わなくて、いい。返事がほしかった、わけ、じゃないわ。ろいちゃん、が、誰のことを好きなのかは、知ってる。だから、ろいちゃんに、迷惑、かけたくないから……」
「久玲奈……」
僕は、ぎゅっと唇を引き結んだ。
そして――。
「それでも、言わせてくれ。僕は、久玲奈のことが大好きだ」
「ろい、ちゃん……」
「昔から、きみは僕の一番の親友。でも、僕なんかが恋人になれるかは、ちょっとわからない。久玲奈と特別な関係になるのを想像すると、ちょっと、照れくさいというか……」
自分で言っていて、胸と頬が熱くなっていくのがわかる。
恥ずかしがる僕を見て、久玲奈は嬉しそうに牙を見せる。
「そっ……か。じゃあ、脈なしってわけじゃあ、ないのかな……」
「うん。これから、嫌でも意識しちゃうかもしれない」
「あは。それなら、好きって伝えて、よかった、なぁ」
そんな小さな声が、久玲奈の大きな口の奥底から漏れ出した。
「僕は王崎さんのことが好きで、その好きはきっと特別なものだ。でも、久玲奈への好きも、王崎さんとはまた違う特別なもの。きみだけへの、僕の特別な「好き」だ。きみへの好きはきっと、たった一人の親友へ送るかけがえのない親愛。これはきっと、恋人とはまた違った、別の愛の形。……なんて、僕なんかがなに言ってんだろ」
「……ううん。私、嬉しいよ。ろいちゃんの、特別になることができて」
閉じかけていた久玲奈の瞼が持ち上がり、その瞳から大きな雫が溢れ出した。
すると、久玲奈の体から毛が抜け落ち、そして徐々に小さくなっていった。久玲奈が元の姿に戻りつつあるのだ。
次第に、狼の毛の間から彼女の柔肌が覗き始める。僕はそれを見て、慌てて灰谷さんの掛け布団を久玲奈の体に巻きつけた。
しばらくすると、久玲奈の狼耳と尻尾も完全に消失してしまった。そして、髪の間から彼女の人間の耳が出現する。これは、フェーズ2が終わった後遺症みたいなものだろうか。
こう見ると、久玲奈は本当にただのか弱い少女のように見える。
布団の上で完全に元の人間のサイズに戻った久玲奈を、僕は強く抱きしめた。
「よかった! フェーズ2はもう終わったみたいだな」
「たぶん、ね。……。ゴメン。皆に迷惑かけちゃった。それに、ろいちゃん、私のせいで、左腕が……」
「ん? こんなの大丈夫」
なんて強がってはいるが、左腕に走る痛みは今までに経験した痛みの中でもぶっちぎりで一番だ。だが、アドレナリンが出ているからか、もうすでにこの痛みには慣れ始めてきている。僕は不死ではないから、不死殺しの久玲奈につけられたこの傷も治るはず。
「いつもは僕が人を傷つけてるんだから、僕も傷つかないと」
「もう。なに、それ……」
僕の浮かべた笑顔がぎこちなかったからだろうか、久玲奈は双眸に涙を浮かべながらも、僕に呆れたのか少しだけ表情を崩すのだった。
そして久玲奈は、僕の胸に力なく額を押し付けた。
「ねぇ、ろいちゃん。ろいちゃんが桜歌ちゃんのこと好きでも、私、ろいちゃんのことまだ好きでいてもいい?」
僕の胸に、久玲奈の湿った吐息が当たる。
「うん。自分の気持ちに、嘘なんてつかなくていいよ」
「……あり、がと」
久玲奈は、そう言って意識を失った。ついに限界がきたのであろう。
「こちらこそ、ありがとう。こんな僕を好きでいてくれて」
僕は、久玲奈を布団の上に優しく寝かせた。
「灰谷さん、久玲奈は眠った。こっちはもう大丈夫だ!」
下方に向かって叫ぶと、僕と久玲奈を乗せた布団は少しずつ下降を始める。数十秒もすると、布団はアスファルトぎりぎりの位置で停止した。
ここは、僕と王崎さんが昼食をとった小川沿いの道だ。
道の端の潰れたベンチの傍に、浮いている灰谷さんの姿があった。
僕は、その灰谷さんの表情を見て自然と背筋を伸ばしてしまう。
灰谷さんは、顔中を脂汗で埋め尽くしながら前方を見つめていた。
「入村。よくやってくれた。お礼にボクの頭をよしよしさせてやりたいところだが……。いや、冗談言ってる場合じゃねぇな、構えろ」
僕は、灰谷さんの視線の先にいる人物を目で捉え、歯を強く噛みしめた。
「――王崎がくるぞ」




