彼女は高嶺の吸血鬼 ⑧
もう見慣れたはずの王崎さんの血。
美しいその紅が、雨のように彼女の腕の切断面から降り落ちる。それとともに、みるみるうちに王崎さんの顔色が悪くなっていった。
そんな王崎さんの様子を知ってか知らずか、久玲奈は無慈悲にも牙で追撃を行う。王崎さんはこれを、背の翼をはためかせて距離を取ることで回避した。
「ぐ、う……。これは、まずいかも……ッ!」
痛みに慣れているはずの王崎さんのうめき声は、今も聞こえている。
もしや彼女が叫んでいるのは、痛みに起因するものではなく、純粋な久玲奈への恐怖なのか?
いや、そんなことよりも!
「王崎さんは不死身のはずじゃ……!?」
困惑する僕をよそに、王崎さんと灰谷さんは努めて冷静に状況を分析していた。二人の額には、嫌な脂汗が浮かんでいる。
「「これは、フェーズ2……!?」」
王崎さんと灰谷さんが同時にそう溢した。
僕は、篠江先生と王崎さんが教室で話していたことをなんとなく思い出していた。
病ヰのフェーズ2。それは病ヰの進化先であり、暴走の果て。個人の願望を色濃く反映した病ヰの最終段階だ。
不死であるはずの王崎さんの腕が治らないところを見ると、今の久玲奈の病ヰは――。
「不死殺しってところ?」
そう呟いたのは王崎さんであった。
彼女は、残った左手で右腕の断面を押さえて止血の真似事をしている。右腕の血液を凝固させようと頑張っているようだが、彼女の出血の勢いは少しも変わらない。
「わたし、随分と嫌われたものだね、久玲奈……ッ! ……なんてね!?」
そう言って歯を溢す王崎さんがまとう感情は、怒りというよりは喜びに溢れているように見えた。
「灰谷さん! これは一体どういうことなんだ!?」
「ボクにも詳しくはよくわからん。たぶん、伊織が深層心理で王崎にどうしても勝ちたいと思ってんだろ。で、その強い気持ちが病ヰに反応して、フェーズ2に移行した。伊織の病ヰに、王崎を殺せる不死殺し性でも付与されちまったのかもな」
「なら、もう王崎さんの右腕は」
「戻らない……かもな」
その事実に、僕は愕然とする。
僕のどんな攻撃を受けてもけろりと回復してみせた王崎さんの不死身の体が、こんなにあっさりと欠損してしまうだなんて。
「入村。もうこれは王崎の腕がどうとかそういう問題じゃねぇ」
灰谷さんの首筋を、汗が伝っていく。
「不死性という優位と右腕を失った王崎が、フェーズ2の伊織に勝てる未来がボクには全く見えない。そんで……王崎が勝てないなら、東京中探しても今の伊織に勝てるやつなんて――」
「――らんらーーーーーーーーーーーーんッ!」
王崎さんの大声に、僕と灰谷さんは肩を跳ね上げた。
右腕を失った王崎さんは、久玲奈に挑戦的な視線を投げていた。王崎さんは久玲奈を正面に見据えながら、灰谷さんに向かって話しかけ続ける。
「ごめん! 今から、昔あなたが見た予知の通りになる! その先のことは、あなたと炉一に任せてもいい!?」
「はぁ? お前、マジか!」
叫び、歯を食いしばる灰谷さん。灰谷さんからは極限の緊張感が伝わってくる。僕は、そんな彼女に遠慮がちに声をかけた。
「未来って、王崎さんと灰谷さんの間だけで共有してた、きみの夢のことか?」
「……チっ、バレてたか。たぶんそのことだろう。その未来では、王崎がフェーズ2になって暴れまわってた。あいつがフェーズ2になった原因まではわからなかったんだが、たぶんあいつは伊織に勝つために――」
そこで言葉を切り、灰谷さんは眉間にしわを刻んだまま続きの言葉を漏らす。
「自力でフェーズ2になるつもりだ」
「自力で!?」
病ヰの暴走の果て……それがフェーズ2。
そんなものに自力でなれるのかどうかは甚だ疑問だ。
しかし、彼女ならやってのけるのであろう。
最強の調停ヰ者である、王崎桜歌なら。
王崎さんは、神話から飛び出してきたかのような巨狼に向かい、胸を張って宣言する。
「久玲奈! あなたが不死殺しの病ヰなら! わたしは! 絶対に誰にも殺されない病ヰ持ちになってみせる!」
王崎さんは、爛と瞳を閃かせる。
そして、彼女から莫大な風圧が発せられた。
瞬間、王崎さんの体中から鮮血が弾け飛ぶ。その血は彼女の右腕を覆い、形を取り繕う。
「嘘、だろ……!?」
僕は、自分の目を疑った。
いつの間にか、王崎さんの右腕は綺麗に元に戻っていた。
不死殺しにより二度と戻るはずのなかった彼女の右腕は、呆気なく再生されたのだ。
いや、呆気なくなんかない。僕は、王崎さんを見ながらそう思った。
「これが、フェーズ2か。あなたが『不死殺し』なら、私の体は『不死殺し殺し』! ……久玲奈。さすがのわたしも意識を持っていかれそうだから、わたしが正気なうちに勝負を決めさせてもらう!」
王崎さんから放たれるオーラは、見る者全てを刺し殺すかのようであった。彼女の周りの空気がひりついているのがわかる。
しかし、再生した右腕を左手で握り込む王崎さんは、小刻みに震えている。
彼女は、見た目こそ先ほどまでと大きく変わらない。だが彼女は、暴走し始めている自身の病ヰに理性で必死に抗っているのであろう。
病ヰの成長を証明するかのように、徐々に、彼女の背から生える血の翼が増大を始めていた。
不意に、僕の視界の端に赤が広がっていった。
ドクドクと。
ドクドク、どくどく、ドクドクと。
滲む赤。それは王崎さんの血。
王崎さんの体のあらゆる箇所から粘性の血液が噴出し、彼女の周りを漂い始めたのだ。その量は、優に彼女の体積を越えてしまっている。
そして、最強の吸血鬼は不死殺しの狼に向かって右手を掲げた。
「『紅血の威鎖』」
王崎さんがそう呟いた瞬間、彼女の血液が意思を持ったかのように移動し、久玲奈の周りを包囲した。
鎖のような形をしたそれは、久玲奈の体を瞬く間に拘束していく。
「お……ああああああああァァァっ!」
歯をむき出しにして叫びながら、王崎さんは鎖をたぐって久玲奈を自分に引き寄せる。彼女はそのまま久玲奈の首に食らいつく。
久玲奈を前にしてこう称すのもおこがましいかもしれないが、今の王崎さんの姿はもう、獣でしかかった。
その吸血速度は今までの比ではない。みるみるうちに久玲奈の体がしなびていくのがわかる。
確実に王崎さんの細い体には入りきらない量の血が、久玲奈の体から流れ出ていっている。王崎さんは、胃にブラックホールでも飼っているのか。
血の鎖に繋がれた久玲奈は、血を吸われながらもなんとか王崎さんの腹の辺りに牙を突き立てる。不死殺しの牙が王崎さんの腹を、紙を破るかのように貫いた。が、不死殺し殺しの王崎さんの体は瞬時に再生し、久玲奈の牙ごと体で拘束してしまう。
僕と灰谷さんは、そんな怪獣バトルを固唾を呑んで見守っていることしかできなかった。
次第に、王崎さん、久玲奈ともに、ふっと瞼が力なく降りた。その瞬間、王崎さんの鎖と翼が音もなく消え去った。
どうやら王崎さんは意識を失ったようで、重力に従って頭から地面へと落下を始める。




