彼女は高嶺の吸血鬼 ⑥
『緊急避難速報。緊急避難速報。品川区に、暴走した獣型の病ヰ持ちが出現。住民の皆さんはただちに避難を行ってください。目標と病ヰの相性の良い調停ヰ者の皆さんは、現場に急行を。繰り返します――』
どこかから聞こえる避難警報を聞き流しながら、僕と王崎さんは地を駆ける。
巨大な狼となった久玲奈を見上げていると、幼少期の頃の僕と久玲奈の記憶が思い起こされる。
思えば、小さな頃はお互い簡単に「好き好き」と言い合っていた。小さな子供のその言葉に、強い意味や深い意味はなかったのかもしれない。少なくとも、僕はそうだったと思う。
当時、久玲奈が僕のことをどう思っていたのかは知らないが、僕は唯一の友達として久玲奈のことが大好きであった。勿論、それは今もなのだが。
……そう。僕と久玲奈は友達だ。僕は、友達として久玲奈のことが大好きだ。
大人になるにつれて、いつしか僕らはお互いに好きと言わなくなっていった。
僕が久玲奈に好きと言わなくなっていったのは、僕が久玲奈のことを好きだという事実が自分の中で当たり前のものとなっていったからだ。
でも、久玲奈は違ったのかもしれない。
彼女が僕のことを好きと言ってくれなくなったのは、僕らが成長してしまったからなのかもしれない。
僕らは、男女という、切っても切れない関係を嫌でも意識せざるを得ない年齢となってしまったのだ。
……ただ、一つ言えるのは……。
好きという感情を初めて僕に教えてくれたのは、久玲奈なのだ。
「おりゃあっ!」
王崎さんが雄たけびをあげながら強く地を蹴り、天高く舞い上がった。
そのまま彼女は陽光を背に、久玲奈の横っ面に右ストレートを叩き込む。
しかし久玲奈は、尋常ならざる反応速度で頭を後ろに逸らして回避する。
それから久玲奈は間髪入れずに王崎さんに噛みつくが、王崎さんは血の翼をはためかせて久玲奈から距離を取った。
次いで、王崎さんの創生した様々な血の武器が、雨のように久玲奈に降り注ぐ。
久玲奈はそれを大口で噛み砕き、武器の破片を王崎さんに向かって吐き出す。だがそれは、王崎さんの血の盾によって絡めとられる。
僕の頭上で行われているのは、吸血鬼と巨狼との規格外の戦い。
二人の大きな力にあてられ、僕の病ヰがざわざわと力を増していく。二人を食らいたいのだろう。僕は、高鳴る心臓を服の上から強く押さえた。
久玲奈は、王崎さんと戦いながら片手間で僕を圧殺せんと右前足を振り下ろしてくる。
僕は全力で闇を放出して久玲奈の足を受け止めようとするが、すぐに彼女の足に押し返されてしまう。さすがに僕の病ヰでも、この質量の攻撃には力負けしてしまう。
闇をムチのように後方に伸ばし、そちらに自分の体を素早く引き寄せる。先刻まで僕がいた箇所を久玲奈の足が踏み抜いた。アスファルトが割れ、地響きとともに瓦礫が舞い上がる。
防戦一方では久玲奈は止まらない。僕は、久玲奈を助けるために、久玲奈を傷つける覚悟を決める。
「ごめん、久玲奈ッ!」
叫びながら、僕は久玲奈の右前足に病ヰを伸ばす。僕の闇が久玲奈の足に牙を立て、そこから血が噴出する。
しかし、巨体の久玲奈からすればそれはかすり傷程度の負傷なのだろう。彼女は少しも動じず、叫ぶこともなかった。
とりあえず、久玲奈の足を押さえて機動力を奪おう。そう考え、僕は彼女の右足に闇を集中させた。
テントを固定するペグのように、久玲奈の足に絡まる僕の闇は地に強く噛みついている。
しかし、これは長くはもたないだろう。
久玲奈は鬱陶しそうに吠えながら、拘束から逃れようと右前足を思い切り振り上げようとする。
僕も負けじと、闇を自身の周囲の欄干や地面に張り巡らせて自分の体を固定する。
僕の体と久玲奈の右前足とを繋ぐのは、禍々しい僕の病ヰ。
それは、巨狼と病ヰ殺しによる綱引きの様相を呈していた。
「力比べだ、久玲奈」
強がってみたが、もう限界だ。あと数秒もすれば、久玲奈が足を引き抜き、その勢いで僕はどこかへと吹き飛ばされてしまうだろう。
僕は空を見上げ、最強の吸血鬼の姿をこの目に映した。どうやら、王崎さんの攻撃も、今の久玲奈には通りが悪いようだ。
そうなると、久玲奈を鎮静化させるために最も現実的な案は――。
「王崎さん! 僕が動きを止めている間に、久玲奈の血を!」
「もう飲んでる!」
気付けば、王崎さんは久玲奈のたくましい首に噛みつき吸血作業にいそしんでいた。
久玲奈が激しく首を振るが、王崎さんはがっちりとしがみついており全くはなれる素振りはない。
「……いやこれ! この巨体を落ち着かせるためにどれだけの血を飲まないといけないわけ!?」
ぷはぁ、と一旦口をはなして叫ぶ王崎さん。彼女の顔と体は久玲奈の血で真っ赤に染まっている。
「ただ大量に流血させるだけじゃ駄目なのか!?」
「それじゃ、久玲奈が本当に死んじゃうかも。それに、わたしは吸血時に痛みと興奮を和らげる作用のある成分を相手の体に流してるの」
確か、以前トレーニング中にもそんなことを言っていた気がする。
いや、というかそれは吸血鬼というよりはもう……。
「なにそれ凄っ! ほぼ蚊じゃん!」
「蚊と一緒にしないで!?」
なんてやり取りをしている間に、僕の病ヰと体が限界を迎える。
「ごめん王崎さん、拘束が解ける!」
ふわりと自分の体が浮き上がる感覚を覚えたかと思うと、僕はいつの間にか宙に投げ飛ばされていた。
僕の数十メートル下に、久玲奈の顔と王崎さんの姿がある。ここでやっと、久玲奈が足を振り上げた際に僕が遥か彼方へと飛ばされたことに気が付いた。
やがて、無慈悲な落下が始まる。
この距離から地面に叩きつけられたら、ただの病ヰ殺しである僕は即死だろう。
王崎さんに助けを乞うわけにはいかない。王崎さんには吸血に集中してもらわないと。
「炉一ッ!」
「王崎さんは、そのまま吸血を!」
だから、ここは僕がどうにかするしかない。
覚悟の決まった僕の顔を見て、王崎さんは目を伏せて吸血を再開した。
ありがとう、王崎さん。僕を信じてくれて。
落下により生じる風を全身に受けながら、辺りを見渡す。
右方、約二十メートル先にビルが一棟。あそこまで病ヰを飛ばして、なんとか落下の勢いを殺せないだろうか。
失敗したら、死。
その緊張と重圧が、形となって僕の心臓にのしかかる。
だけど――。
「死が、なんだよ」
自然と、そんな言葉が僕の口から漏れた。
僕の周りにいる皆はいつも、僕のせいで死と隣り合わせなのだ。
今更、僕が死に怯えるなんてのはお門違いだ。
だから。
「死ぬ気で生きてやる!」
僕は、あらん限りの力を振り絞って病ヰをビルに向かって伸ばした。
体から溢れ続ける病ヰが凝縮され、ムチのような一本の細長い闇ができあがる。
落下しながら、僕はその闇をビルに向かって伸ばし続ける。
しかし、ビルまで残り五メートルの距離にまで迫った瞬間、僕の病ヰはその動きを止めて進行方向を勝手に変えてしまった。
病ヰの進行先。そこに、久玲奈の首に噛みつく王崎さんがいたのだ。落下するうちに、いつの間にか同じ高さにまで落ちてきてしまっていたらしい。
僕の病ヰは、青ヰ春殺し。ビルなんかよりも強力な病ヰ持ちを食らいたいに決まっている。それに、王崎さんだけでなく久玲奈もいる。より取り見取りだ。
今は吸血する王崎さんの邪魔はできない。
「止まれッ!」
僕は、二人に向かおうとする病ヰに全力で停止命令を送る。
病ヰの暴走と僕の意思とが拮抗し、病ヰは中空でその動きを止めた。
これで王崎さんは僕に邪魔されることなく吸血を行うことができる。
だが、病ヰを伸ばすことをやめてしまったせいで、僕の死の可能性は遥かに高まってしまった。




