彼女は高嶺の吸血鬼 ③
「病ヰは大体、前触れなくかかるもの。炉一がそうだったように」
王崎さんは滔々と語り始めた。
「雪の降る日だった。冷たさで肌が張って、少し動くだけでも微かな痛みが体に走るような酷い寒さ。十二月。わたしの十三歳の誕生日。その日、わたしは病ヰを発症した」
王崎さんの瞳は、彼女が語る冬の夜のように冷たく暗く、闇に沈みこんでいる。
「お父さんとお母さんとわたしで、料理を作ってた。誕生日だからって、わたしの好きな物をたっくさん」
彼女は遠い目をして、戻ることのない昔日に思いを馳せている。
「桜歌は誕生日だから手伝わなくていいってお母さんに言われてたのに、わたし、テンションが上がっててなんでもかんでも手伝おうとしてたんだよね。ピーラーでカレー用のじゃがいもの皮を切ってたんだけど、そのときにちょっと怪我しちゃって、血が出ちゃったの」
その際の痛みを思い出したのか、そのあとに起こるであろう凄惨な事件のことを思い出したのか。彼女は顔をしかめていた。
「誕生日で浮かれてた気持ちとか。痛みでびっくりしちゃった気持ちとか。血を見た恐怖とか。たぶん、色々な気持ちがない交ぜになっちゃったからだと思うんだけど。そのとき、わたしは『我は貴き血喰い姫』を発症した」
王崎さんは、右手の平を広げて自身の胸に優しくあてがった。
「わたしの指から溢れた血は蛇みたいに蠢いて、家中の物を突き刺し、切り刻んでいった。物だけじゃなくて、お父さんも、お母さんも。わたしには、その血をどうすることもできなかった」
苦悶の表情で、彼女は歯を食いしばる。僕の心に、深く棘が刺さったかのような痛みが走る。
「わたしとお母さんは、ずっと叫んでた。お父さんだけは冷静で……いや、冷静であろうとしてたんだと思う。お父さんはわたしに、『大丈夫、落ち着いて』って何度も声をかけながら、わたしを抱きしめてくれた。わたしの血は、そんなお父さんをめった刺しにした。足なんてもう、切断されかかっていた」
それだけじゃ終わらなかった、と、王崎さんが低い声で言った。
「わたしは、目の前で血だらけになっていくお父さんを見て、その綺麗な血を見て、お腹を空かせてしまった。そのとき、わたしはなんとなくわかった。わたしは、吸血鬼になってしまったんだって」
日傘を構えたまま、王崎さんは自分の心臓の鼓動を落ち着けるかのように深呼吸をする。
「そのときのわたしは、血が飲みたくて血が飲みたくて仕方がなかった。砂漠を数時間も彷徨ったかのように、喉がどんどん乾いていくの。そして、目の前にはお父さんの血が流れてる。瞬きをした次の瞬間、わたしの口には血が含まれていた」
ごくりと、僕の喉が空気を飲み込む音を発した。
まさか、王崎さんは……。
「……たぶん、炉一の考えは外れてる。わたしは、お父さんの血を飲もうとしなかった。お父さんがわたしに血を飲ませてくれたの」
僕は、その光景を想像する。王崎さんの父の姿を。
実の娘が急に病ヰを発症し、暴走した病ヰによって傷だらけとなりながらも、血を求める娘に自分の血を与える父親の姿を。
「たぶん、わたしを落ち着かせるためだったんだと思う。そして、お父さんのその行動は正解だった。わたしは、お父さんの血を飲むことで少しずつ落ち着いていったの。しばらくして、わたしの病ヰは治まった。その代わりお父さんは……わたしのせいで両足を失うことになった」
彼女が日傘を握る手に力が籠り、爪が刺さった部分から血が溢れ出した。
「それで、お父さんは今でも車椅子生活。山登りが趣味だったんだけれどね……。でも、お父さん、ない足を見ながらわたしにいつもこう言うの。『これは、桜歌を守った勲章だ』って」
僕がなにか声をかける前に、王崎さんはこちらに視線を向けた。その瞳の表面には、薄い涙の膜とともに、確かな決意の色が揺らいでいる。
「わたしは、病ヰによって大切な人を傷つけた。大切な人の、大切なものを奪った。だからわたしは強くなりたいの。誰よりも、なによりも。わたしみたいに、病ヰで悲しい思いをする人がもう現れないように。全てを圧倒するくらいの、超常的な力を、わたしは欲している」
僕は、言葉を失いその場で立ち尽くすことしかできなかった。
これが、王崎さんが最強にこだわる理由。
思いが違う。
覚悟が違う。
僕は、こんな人の横に立とうとしていたのか?
僕は、こんな人を越えようとしていたのか?
黙りこんでしまった僕に、王崎さんは優しく声をかけてくれる。
「ごめんね、暗い話をして」
「いや、いいんだ。ありがとう。僕なんかに話してくれて」
なんて、月並みなことしか言えない自分のことが嫌になってくる。
もしかして、王崎さんが僕を強くしたい理由って……。
「……きみは、自分の代わりを求めているのか?」
僕の言葉に、王崎さんは両眉を上げる。
「病ヰは、大人になる過程で自然と治る。だから、いつかきみは自分の後継者を見つけなければいけない。だから僕に、きみくらい強くなってほしいのか?」
「それもあるけれど」
と、前置きした上で彼女はこう続けた。
「わたし、この世から病ヰがなくなればいいと思ってるんだ。炉一の病ヰなら、それも可能かもしれないって、倉骨先生が言ってたでしょ? だから、炉一には強くなってほしいの」
「……そっか」
誰よりも自分の病ヰを誇りに思い、病ヰを鍛えていた王崎さんは、誰よりも病ヰという存在を恨んでいたのか。
「僕、強くなるよ。絶対」
「うん」
僕たちはそれから、黙り込んで小川を眺めていた。
沈黙がなんとなく嫌で、僕は独り言のようにこう呟く。
「そういや、デートが終わる時間と終わる場所を久玲奈に伝えておかなきゃなんだった」
言いながら思ったが、あいつは僕の親か?
「そうだったね。炉一は久玲奈との約束もあるから、今日のデートはこれくらいにしておく?」
「名残惜しいけど、そうしよう。王崎さんも、日課のトレーニングがあるしな」
一緒にご飯を食べ、王崎さんの過去の話を聞いただけだけれど、初めてのデートならまあ、こんなものなのではないだろうか?
僕は、もうすぐデートが終わる旨と、現在の位置情報を久玲奈に送った。
その後、しばらく無言の時間が過ぎ、僕は頃合いを見て王崎さんに声をかける。
「王崎さん。今日はありがとう。楽しかったよ」
「そう? それはよかった。わたしも、いいリフレッシュに――」
そこまで言って、笑顔を浮かべていた王崎さんが唐突に顔を引き締めた。
僕もなにか嫌な予感を覚え、身構える。
しばらくすると、脈絡もなく、大きな影が世界を覆った。
首を上に向けると、いつの間にか快晴が姿を消していた。
そこにあるのは、薄墨を混ぜたような、どこまでも広がる重い灰の空。
つい先刻までは、あんな雲はどこにもなかったはずだが。それなのに今は、青い部分を探す方が難しい。
傘布の上でなにか弾ける音がした。
王崎さんの日傘の上で雨が弾けたのだと理解した刹那、雨滴の大群が視界を塗りつぶした。
なぜかはわからないのだが、僕はその雨に不穏な気配を感じていた。
なんというか、この雨は普通ではないような……。
不意に、僕を濡らす雨が遮られた。上を見ると、王崎さんが腕を伸ばして日傘を僕の上に掲げてくれていた。
「王崎さ――」
彼女の横顔を見て、僕は口をつぐむ。
王崎さんは、目を眇めて前方を見据えていた。彼女がまとう針の先のような威圧感に、僕は思わず背筋を伸ばす。
彼女の視線の先。小川沿いの歩道の上。僕たちのいる位置から約十メートルほどはなれた位置に、一つの人影が揺らめいていた。
彼は、学ランを着ていた。傘もささず、両腕を大きく広げておおげさな足取りでこちらへとやってくる。
そいつはプリン頭の痩身の男で、彼の双眸は長い前髪で隠れていた。
「やっと会えた。あんたがあの王崎桜歌だよな」
その一言だけで、僕は彼の目的を理解する。……恐らく、僕らをつけていたのはこいつだろう。
「だったらなに?」
王崎さんの返答に満足したのか、男は口端を不気味に吊り上げた。
「俺が作った」
男は、口元だけで笑ったまま曇天を指さし繰り返す。
「これ、俺が作った」
瞬間、黒雲を引き裂くかのような稲光が空を駆け抜ける。
数秒後、轟音が大気を震わせた。
雨と雷を背負いながら、アスファルトで弾ける雨音に負けないほどの声量で哄笑する男。
「俺は須郷垣丸。最近病ヰ持ちになった。病ヰ名はまだねぇが、どうやら天候を好き勝手にできるみてぇだ」
その言葉に、僕の肌が栗立った。
――天候を操るだって?
大自然への干渉だなんて、病ヰの規模が大きすぎる。
そこで僕は、灰谷さんの予知を思い出した。巨大な敵に気を付けろというのは彼の――いや、彼が操る天気ということなのであろうか。
「今、全能感に溢れてっからさ。俺と戦ってくれねぇか? 関東最強」
須郷と名乗った男はヘラヘラとした声調で王崎さんを煽っている。
対して王崎さんは、緊張の色を少しも見せずに冷淡に言い捨てる。
「そう。一瞬で終わらせてもいい? わたし今、悲しいことを思い出してそれどころじゃないから」
背から血の翼を生やし、王崎さんが『我は貴き血喰い姫』を展開した。




