彼女は高嶺の吸血鬼 ②
しばらくすると、僕たちは東門に辿り着いた。
東門は、数ある出入口の中で最も大きな門で、一番生徒の出入りが多い。放課後ということもあり、下校している生徒ばかりである。
そんな中、王崎さんが生徒の耳目を集めていることに気が付く。
彼女が関東最強の調停ヰ者だから有名、ということもあるのだろうが、それよりも、危険な病ヰを持つ僕なんかと手を繋いでいることが気になるのであろう。
なんとなく居心地が悪くて下を向いていると。
「彼は、わたしよりも強くなろうと頑張っているところだから、皆も応援してあげてね!」
隣から、そんな快活な声が聞こえた。
王崎さんのその語気からは、できっこない夢を抱く僕を茶化す風ではなく、純粋に僕を応援しているという気持ちが滲み出ていた。
周りの生徒も、王崎さんが冗談を言うはずがないとわかっているのだろう。僕なんかに、温かい言葉をかけてくれた。
僕は無言のまま、皆に頭を下げる。
そんなことをしながらアーチ状の門をくぐり、三週間ぶりのシャバの空気を味わったのだが、そんなことはもうどうでもよくなっていた。
手を繋いだまま道を歩きながら、僕は王崎さんに小声で訊ねる。
「僕の言葉、覚えてたんだ」
「うん。とっても嬉しかったから」
つぼみが開くかのように、彼女は朗らかに破顔する。
「大体の人は、わたしを見るとびびっちゃうんだよね。でも炉一はわたしと対等に……いや、わたしを越えると言ってくれた」
「随分と大それた目標だけどね」
「ううん。そんなことない」
関東最強の調停ヰ者は、僕の言葉にかぶりを振る。
そして。
「わたし、目標のために頑張ってる人、好き」
言葉と同時に浮かべられる、あまりにも大人びた微笑。
その顔を見ただけで、僕と王崎さんの間にどれほどの隔たりがあるのかを察してしまう。
それは、強さの隔たりであり。
それは、相手への思いの大きさの隔たりでもある。
「あ、ありがとう。もっと好きになってもらえるよう、頑張るよ」
「あはは。炉一、わたしみたいなこと言ってる」
手を繋ぎながら、僕たちは往来を歩む。
歩道は学生でごった返している。その人いきれに揉まれながら、彼らが全員別々の病ヰを持っているのだと思うと感慨深くなる。自分が病ヰにかかるまでは、こんなことあまり考えたことはなかったのだが。
病ヰのせいで体が大きくなっていたり、角が生えていたり、見た目に大きな変化が起きている者も多い。そうでなく、普通の見た目をした人もなにかの病ヰを患っている。
当たり前だが、病ヰ持ちは僕だけでなく全員が全員それぞれに苦労し、なにかを抱えているのだろう。
そしてそれは、僕の隣を歩く王崎さんも一緒で――。
「あっ。こことかどう?」
立ち止まり、王崎さんが道路に面したとある飲食店の看板を指さした。
そこは、山盛りの丼物が人気なチェーン店。やはり王崎さん、こういう食べ物が好きなのか。
店頭に張り出されたポスターには、バカでかい文字で、肉肉肉豚豚豚脂脂脂ニンニクニンニクニンニクと書かれている。うん、僕一人では絶対に入れない店構えだ。
「わたし、よく一人でくるけど、ここの豚丼がとっても美味しいんだ」
まさかの常連!? さすがは王崎さんだ。
「じゃあ、ここにしよっか。密閉空間で僕の病ヰが出ると危険だから、持ち帰りでいい?」
「うん」
僕の提案に、王崎さんは静かに頷いた。そうして、僕らは一緒に店の中へと足を踏み入れる。
店に入った瞬間、強烈な脂とニンニクの匂いが鼻を襲う。不快ではない。むしろ、食欲をそそられる類の暴力的な香りだ。
その店は食券制だった。王崎さんは豚丼の大盛、僕は豚丼の並盛を選ぶ。
代金と交換で二つの豚丼を受け取り、店を出た。
丼の匂いで興奮する王崎さんをなんとかなだめ、僕らは人通りの少ない裏道を歩いた。人の多い場所でこの香りの爆弾を解き放つわけにはいかないだろうから。
裏路地を歩いていると、不意に王崎さんが纏う空気が一変した。楽し気な雰囲気から、緊張感をまとった表情へと。
「……誰かにつけられてるかも。怪しまれないよう、そのまま歩いて。角を曲がったらスピードを上げて撒くから」
王崎さんの言葉を聞き、動揺が動きに現れないように微かに頷く。僕も後方に意識を向けてみるが、さっぱり人の気配は感じない。
角を曲がった瞬間、王崎さんは背中から血でできた紅の翼を発生させた。彼女は怪我をせずとも自身の血を操れるようで、硬質化させた血を背中から噴出させて翼を生んでいるらしい。
「飛ぶよ」
王崎さんに横抱きにされ、僕らはビルの屋上までひとっ飛び。二人して下方を確認するが、特に怪しい人影は見当たらなかった。僕らに気が付かれたことに、向こうも感づいたのか?
しばらく空中浮遊し、やがて王崎さんは別の路地へと降り立った。
体勢を整えながら、僕が訊ねる。
「なんだったんだろう」
「さあね。まあ、心当たりはたくさんあるけれど」
華麗な動作で、赤の髪を手で払う王崎さん。
「そうなんだ?」
「わたしは強いからね。病ヰを悪用しようとしている大人とか、わたしと戦いたい腕自慢とか。その辺じゃない? 悪意を持って向かってくるやつは全員ボコボコにしてるから、まあ恨みは買っててもおかしくないよね。まあ、大丈夫。どんなやつがきても炉一はわたしが守るから」
そんなことを、彼女は真顔で言う。やはり、生きている世界が違う。
「それより、豚丼は無事?」
ハラハラとした表情で、彼女は僕が持つビニール袋を見つめる。
「うん。たぶん大丈夫」
自分の身よりも豚丼の方が心配なのか。王崎さんらしいな。
辺りに注意をしながら、僕たちは再び歩みを進め始める。
その道を少し歩くと、吹き抜ける風が鼻先を駆け抜けていった。目の前には、ビル群を割るように流れる小川。その川を見下ろせる場所に、木製のベンチが設置されている。
幸い、現在人通りは少ない。僕たちはそのベンチに腰を下ろした。
大盛を王崎さんに渡し、並盛のふたを僕が開ける。
その瞬間に立ち込める湯気と、甘辛い香り。プラスチックの器の中に広がっていたのは、まさに桃源郷。山のように重ねられた豚肉。その頂点に坐す黄金の卵黄。散在する申し訳程度の野菜。その下にはタレと肉の脂を存分に吸い、煌めく白米が。
「「いただきます!」」
我慢できずに、僕たちはどちらからともなく割りばしを割っていた。
王崎さんとほぼ同時に一口。
まず広がったのが強烈なタレの味。これは塩ダレだろうか。濃いだけでなく意外とあっさりとしており、これなら最後まで飽きずに食べられそうだ。
次いで舌を覆うは、優しい豚肉の甘味。肉とタレが官能的に混ざり合い、奇跡的なマリアージュを引き起こしている。
そして、肉とタレの間を上手く取り持ってくれるのが少し硬めに炊かれた白米だ。
細かく刻まれたキャベツやニラや玉ねぎも、アクセントとしていい仕事をしている。
その一口を飲み込み、僕と王崎さんは無言で見つめ合い、何度も頷きあったのだ。
言葉は不要であった。
僕たちはなにも言わず、再び丼に視線を落とす。
今度は卵黄を割って、一口。まろやかさがアップし、より食べやすい味となった。
夢中で食べ進めること約十分。先に王崎さんが丼の上に割りばしを置いた。見てみると、彼女の器は米粒一つ残っていなかった。
王崎さんは恍惚の表情で、ぼぅっと空をただ眺めている。こんなに気の緩んだ彼女を見たのは初めてのことかもしれない。
続いて、僕が食べ終わった。お茶を飲まずに無我夢中で食らいついてしまった。
王崎さんとともに、喉を鳴らしてペットボトルのお茶を胃に流し込む。
そうして、二人で同時に嘆息。
「「美味しかったぁ」」
声が重なり、僕たちは思わず吹き出してしまった。
まだ口の中に丼の余韻が残っている。食べ終えたばかりだが、既にもう一度来店したくなっている僕がいる。いやはや、恐ろしい豚丼であった。
「本当ならニンニクをたっぷり入れてもらうんだけどね。今日はデートだから抜きにしちゃった」
そう、今回は王崎さんの提案でどちらの丼もニンニク抜きにしたのであった。
つまり、この丼はまだ一段階進化するということなのだ……。いやはや、末恐ろしい。
「じゃあ、今度はデートの終わりに食べにいく? ニンニクたっぷりの豚丼」
いや、なにを言ってるんだ、僕。ちゃっかり次のデートの約束なんかしちゃって。キモすぎただろうか。なんて思っていたのだが。
「うん! そうしよっか!」
水平線からさす朝日のような清らかな彼女の笑顔にやられ、僕の心は浄化されていった。
「わたし、ニンニク大好きだから!」
吸血鬼がニンニク大好きなのもどうかと思うけど。
「そういえば、吸血鬼の弱点はどうやって克服したんだ?」
「ん? 効かなくなるまで、くらうだけ。ニンニクは毒みたいなものだから、抗体ができるまで食べまくったし、十字架は体が慣れるまで身に着けまくったし、日光は効かなくなるまで浴びまくったし。他にも聖水を浴びまくったり杭で心臓を突きまくったり」
指折り数える王崎さん。
「でも、日光が一番きつかったかな。わたし、日焼けしちゃうの苦手だから」
文字通り体が焼かれるよりも、日焼けの方が嫌なんだ? やはり王崎さんはぶっ飛んでいる。
豚丼を食べ終え、再び日傘をさす王崎さん。
「改めて訊くけど、王崎さんはどうしてそこまでして強くなりたいんだ?」
「んー」
吸血鬼の彼女は、快晴を仰ぐ。その瞳には、深い色の空が綺麗に映り込んでいた。
「まあ、炉一になら言ってもいいかな。これ知ってるの、学校では篠江先生と倉骨先生くらいなんだけどね」
「そんな重大な秘密を、僕なんかに?」
「うん。デートもしたしね。それに、炉一ならたぶん引かないと思うから」
「え……?」
「ごめんね。ちょっと重い話になるんだけど、聞いてくれる?」
僕はゆっくりと頷く。頷くしかなかった。
「わたしさ」
吹き抜けていったビル風が王崎さんの髪を弄び、彼女の言葉を、僕の耳元へと運んでくれる。
「――昔、家族を病ヰで襲っちゃったんだよね」




