青春殺しと吸血鬼 ①
吸血鬼のような彼女は、僕に殺されながらこう言った。
「安心して。わたしがあなたの青春を殺させないから。青春は、この程度では終わらない!」
それが、僕と彼女との出会い。
僕は震え、彼女は笑っている。彼女から吹き出る鮮血越しに、ぼくたちは見つめ合っている。
えっと、どうしてこんなことになったんだっけ。
混乱する頭で、僕は意識を五分前に飛ばす。
〇
僕は昔から、特殊な力を持ち、巨悪に立ち向かうヒーローに憧れていた。
残念ながら、僕にはそんな力がない。でも、世界はそんな力を持つ者で溢れている。
試しに当たりに目を走らせると。
モップに座り、魔法の箒よろしく空を飛ぶ魔女っ娘のような少女。
街灯や建物の屋根の上を、身軽に跳ねながら移動をする男子中学生。
口から火を吐き、その炎で持参した菓子パンを温めている男子高校生。
この世で普通なのは大人だけ。ああ、それと。未だ『病ヰ』にかかっていない僕も普通ってことになるのだろう。僕は青春とは無縁だから、当たり前だが。
通学路を歩いていると、前方五メートルほどの場所で、見慣れた尻尾が揺れていることに気が付いた。
その尻尾を持った少女は制服に身を包んでいる。尻尾だけでなく、彼女の銀の長髪の上ではぴょこぴょことした狼の耳が生えている。
間違いない。伊織久玲奈だ。彼女は僕の幼馴染で、唯一の僕の友達。
「久玲奈!」
そこまで言って僕は、彼女が獣人系の病ヰ持ちのための、獣耳に装着するヘッドフォンを身に付けていることに気が付いた。これでは僕の声が届かない。
「うおっとォ!?」
不意に上空で、そんな男の声がした。
声がした方に目線をやれば、建物や電柱の上を身軽に移動していた少年が足を滑らせて落下しているところであった。
しかし、心配する必要はない。町中で病ヰの症状の使用を認められている彼らは、病ヰを発症して一年以上のベテラン。つまり、トラブルの対処にも慣れている。この程度の光景は日常茶飯事だ。
彼の病ヰは恐らくだが、自分の体重を自由に増減させられる、といったところだろう。
だが、どうにも落下場所が悪かった。少年の靴裏は、火を噴いてパンを焼く男子高校生の頬にめり込んでしまった。
少年は体重を限界まで減らしていたようで、蹴られた彼に大きな衝撃は伝わらなかった。
しかし、精神的な衝撃までは緩和されない。
パンの彼は、絶叫とともに巨大な火球を吐き出してしまう。
そして、その火球が向かう先には僕がいる。
ひょいと体を逸らせばこの火球は避けられるだろう。そう思った瞬間、僕は久玲奈の存在を思い出す。
彼女は、僕の前方にいて今も歩き続けている。そして久玲奈はヘッドフォンを付けている。だから、火球が背に迫っている音にも気が付いていないであろう。
気づけば僕は、久玲奈の元に走っていた。
僕が走るスピードよりもほんの少しだけ早い速度で火球が追いかけてくる。
走る勢いをそのままに、無我夢中で僕は前方へとダイブ。
押し倒すかのようにして、僕は久玲奈を抱きしめた。
「ろいちゃんッ!?」
久玲奈の叫び声とともに、体の下部を地獄からやってきたような痛みと熱が噛みついた。
非現実的な苦痛に苦悶するが、なんの取り柄ももたない僕如きが久玲奈の未来を守ることができたのだと考えれば、安すぎる代償であろう。
「ろいちゃん、足が……っ!」
「だ、大丈夫だ」
僕と久玲奈の背を追い越した火球は少しずつその火力を弱め、とあるビルの壁面にぶつかり消え去った。
ビルのガラスが飛び散り、強い衝撃が辺りに響く。しかし、火はどこにも燃え広がらず、負傷した人間も僕以外には誰もいないようだ。
それは良かったのだが、問題なのは僕の心臓だ。生死の境を彷徨い、至近距離で久玲奈に見つめられ、僕の心臓はかつてないビートを打ち鳴らす。
「あ、ありがとう。また助けられちゃったわね」
若干ハスキーな声で、久玲奈は頬を染めながらそう言った。
またって、小さい頃に久玲奈が木から落ちたときのことを言っているのだろうか。
そんなことを思った瞬間。僕の心臓……いや、全身がドクドクとおかしな鼓動を刻み始めた。一気に色々な刺激を受けすぎたからだろうか。
……? なんだか、凄く嫌な予感がする。
心臓の鼓動が早すぎる。内側から、出どころのわからない力が湧いてくる。
恐らくこれは、僕は知らないけど、僕と同年代の者なら誰もが知っているもの――。
青少年だけがかかる謎の病気、『病ヰ』だ。病ヰになった者は、その身に特別な力が宿る。
十七歳にして僕は、初めて『病ヰ』を発症しようとしているのだろう。
次の瞬間。
僕の全身から、夜よりも黒い闇が溢れ出た
――僕の全身から、夜よりも黒い闇が溢れ出た。
不定形のそれは僕の周りに浮かびながら、まるで得物を探すかのように形を変えて宙を漂っている。
不気味なのは、その闇の至る所に鋭い牙のようなものが内蔵されていること。
なんとなく、本能でわかる。
この病ヰはきっと。
青春を殺してしまう。
そんな、災厄の病ヰだ。
「逃げてくれッ!」
久玲奈は、自分に向かって伸びる闇とその中に蠢く無数の牙を見て、喉の奥で小さく悲鳴をあげた。
彼女は、必死に謝りながら僕を置いて歩道を駆けていく。
「ごめん、ろいちゃん……!」
いや、謝るのは僕だ。
ごめん。せっかく二人とも無事だったのに。
どうして、こんな――。
半狼の久玲奈の身体能力は人間を遥かに凌駕し、更に言うと並大抵の病ヰ持ちと比べてもかなり速い方だろう。
しかし、僕の闇の方が彼女よりもほんの少しだけ速い。
あと数秒もすれば、僕の闇は彼女の背に牙を立てるだろう。
その場面を直視したくなくて、熱いものが溢れる目を思わず瞑ろうとすると。
「――病ヰも持たないのに、勇敢な男の子だね。その涙は、本当に誰かが死んだときまで取っておくといいよ」
ふいに、頭上から少女の声がした。
彼女は、なにもない空から日傘を持ってふわりと現れた。
その背には、紅色のコウモリのような翼が生えている。
空中を揺蕩い、華麗に着地を決める紅の少女。彼女は、翼と似た色のワインレッドのような髪を瀟洒に手で払う。
少女の顔には、薔薇のような自信に満ちた笑顔が飾られていた。
僕は、いきなり現れた彼女に目を奪われてしまう。
彼女が降り立ったのは、僕と久玲奈の直線上。
僕の闇は、もっと良い得物を見つけたとでも言わんばかりに、紅の少女へとその進路を変える。
そういえば、聞いたことがある。
日傘に、紅の翼。
それは、関東最強の病ヰ持ちの特徴だ。
確か、吸血鬼のような力を持っているとか。
まさか、彼女が?
途端、肉を裂く音と血が吹き出す音がほぼ同時に僕の鼓膜に届いた。
紅の彼女はあっけなく、僕の闇と牙に体の半分ほどを食いちぎられてしまった。
天を衝くかのような僕の絶叫が響く。
彼女はボロボロの体のまま、それでも太陽を遮るための日傘だけはしっかりと持ち、闇を掻き分けながら僕の方へと無理やり進む。
「日傘が無事でよかった。わたしの色白のお肌が焼けてしまうと困るから」
全身から血を吹き出しながら。
半身を失った体で。
紅の彼女は、僕に向かって不敵に笑いかけてみせた。
「安心して。わたしがあなたの青春を殺させないから。青春は、この程度では終わらない」
僕は、全身に血を塗りたくった彼女の笑みに心を奪われる。
その姿は紛れもなく、僕にとってのヒーローにほかならなかった。
心臓が、更なる高鳴りを始める。
それは、不安や緊張といったマイナス要因が由来の鼓動ではない。
だって今、僕はこんなにもドキドキとしているのだから。
彼女は、僕に殺されたくらいでは死ななかった。紅の少女の体は少しずつ再生を始めている。原理はわからないが、彼女の着ている制服ごと。
血よりも赤い紅の髪。鮮血に濡れた制服。背から生えた翼。黒の日傘。
彼女は誰よりもなによりも血が似合う。
頭から垂れた血を舌で舐めとる少女を見て、そんなことを思った。
「意識ははっきりしてるね。『フェーズ2』ではなさそうかな」
そう呟きながら、彼女は僕の瞳を正面から見据えてくる。
僕は、彼女に……まるで吸血鬼のような彼女に、見惚れていた。
人を見て、ここまで心臓が高鳴るのは初めてだ。
えっと、こういうときはどうすればいいんだっけ。
まずはお礼を言って、それから――。
「――好きだ」
ぽろりと、そんな言葉が口から飛び出した。