4話
「ここが購買です」
僕がそう言うと、くるみさんはショーケースをのぞき込んだ。
放課後の購買部はすでに静まり返っていて、パンは数個だけ、ぽつんと並んでいる。
「へぇ〜、なんか想像してたより地味めなんだね」
「昼休みはすごいんですけどね。今はもう……売れ残りの時間帯なので」
「そっか。でも、落ち着いてて好きかも。こういうとこ」
くるみさんはそう言って、ケースの中を軽く眺めただけでパンには手を伸ばさなかった。
「じゃあ、次行きますか。まだ回ってない場所、いくつかあるので」
「うん、楽しみにしてる!」
彼女は軽やかに笑って、僕の隣を歩き出す。
──
教室、美術室、中庭。
時間帯のせいか、歩いても人とすれ違うことはほとんどない。
「なんかさ、この学校って文化部少なめ?」
「……そうですね。吹奏楽と美術部と……僕の入ってる写真部くらいです」
「へえっ、久世くん写真部なんだ〜。なんか意外かも」
「……そうですか?」
「うん、ちょっと」
その言葉に少しだけ返答に困って、僕は無意識にメガネのフレームを押し上げた。
前髪のせいで、くるみさんの顔はぼんやりとしか見えない。
「写真って……人を撮る時、距離近くなるじゃん? だから、ちょっと意外」
「……僕、基本は風景を撮るので…。人物写真は家族以外は撮らないんです」
「そっか、そうだよね」
「……はい。というか、なんていうか……少し離れた場所から傍観者としている方が、好きで」
そう言ってから、自分でも変なことを言っている気がして口を閉じた。
「……うん、なんとなく分かるかも」
「え?」
「わたしもね、たまにそう思うときある。
自分が主役じゃなくて、背景の一部として溶け込む方が落ち着くっていうか」
くるみさんは、そう言いながら前を向いて歩き続ける。
「そういえば……今日って部活お休み? 人、全然見かけないね」
「……あぁ、それは……」
(余計なお節介だと思われないかな……)
僕は少し考えてから、正直に言った。
「くるみさん、有名な方だから……あまり人目に触れないほうがいいかと思って。人気の少ない場所を中心に案内してたんです」
「……あー、なるほど。……優しいね、久世くん」
「い、いえ……」
「でも、うれしい。気を使ってくれてたんだ。ありがとう」
くるみさんはそう言って、少しだけ俯いたかと思えば、すぐ僕に顔を向けた。
「実はね。私、“普通の高校生”ってやつをやってみたくて、ここに来たんだ」
「……普通、ですか?」
「そう。クラスメイトと笑ったり、部活で汗流したり、放課後に寄り道したりとか。
普通にJKしてみたくなっちゃってさ〜」
彼女の言葉には、少しだけ影があった。
「だからね、私のこと知らなくて、ちゃんと“同い年の子”として見てくれる人と仲良くなりたかった。……だから久世くんみたいな子、いいなって思って。
それで、友達になりたいな〜って!」
「……そうだったんですね」
「それにね、目ぇ合わせてくれないのも逆に安心だった。すっごい無害そうで!」
「……それ、褒めてます?」
「もちろん! ちょっと陰キャっぽいけど、それも含めて!」
くすっと笑ったあと、彼女は僕の前をひょいっと軽やかに歩いていく。
──
「で、ここが音楽室」
僕は引き戸の前で立ち止まり、そう言ってから静かに扉を引いた。
中はやっぱり誰もいなくて、グランドピアノが静かに置かれていた。
窓から差す光の中で、ほこりの粒がゆらゆらと舞っている。
「……きれい。音、響きそう」
くるみさんはそっと部屋に入っていき、ピアノのそばで立ち止まった。
「弾いてもいい?」
「はい、もちろん。たぶん、今は使う人いませんし」
「ありがとう。……でも久世くん、そんなとこに突っ立ってないでさ、ちゃんと聴いてよ。案内係でしょ?」
「え、あ……はい」
僕はちょっとだけ前に出た。
──そして、音が鳴る。
彼女の指が鍵盤に触れた瞬間、静かな旋律が音楽室に広がった。
軽やかで、どこか懐かしくて、まるでこの一日を閉じ込めたような音だった。
僕は黙って、それを聴いていた。
ひとりの少女の“日常”を、そっと見守るように。