1話
四月。新学期。
春の風が教室の窓から吹き抜けて、開けっぱなしの窓際には桜の花びらが舞い込んできていた。
たぶん今日の空気を「穏やか」と表現する人は多いだろう。けれど、僕にとっては少しだけざわついて感じた。
理由はまあ、明白だった。
「えー、今日は転校生が来てます。水無月さん、前に出て自己紹介を」
担任のその一言で、教室の空気が一変した。
なんていうか、ピリッとしたような、そわそわしたような──まるで舞台の幕が上がる直前みたいなざわめき。
前の席の男子がちょっと前かがみになって、数人の女子は目配せしてるのが見えた。
(転校生か……ラノベみたいに超美少女だったりして)
僕はページをめくる手を一旦止め、ちらっと前を見た。
カツ、カツ──。
ローファーの音が静かな教室に響く。
教壇へ向かう少女は、制服のスカートから伸びる脚がスラリと長く、細くて、まっすぐで……いや、モデルか? モデルなのか?
「あれ……どこかで見たことあるような……」
そんな感覚だけが、微かに胸をよぎる。
でもそれよりも──クラスの反応のほうが圧倒的だった。
彼女は黒板の前に立つと、チョークを手に取り、迷いなく名前を書いた。
『水無月くるみ』
その瞬間、教室が凍ったように静まりかえる。
「え、マジで?」「本人じゃん……」「やば、うそ、まって本物!?」
──騒然。
本当に一瞬で、空気が爆発したように騒がしくなった。
(……くるみ?)
僕は机の端っこに視線を落としながら考える。
どこかで聞いたような気がしなくもない。
(くるみ、くるみ……ん? なんでそんなにみんな騒いでるの?)
彼女は振り返り、ぱっと笑った。
「水無月くるみですっ。今日からよろしくお願いします!」
明るい。眩しい。
その笑顔に、教室の数人が小さく叫び声を漏らしたのも、聞こえていた。
「やっば……テレビのまんまじゃん」
「ほんとに来たんだ……やば……」
「神、マジで神」
(テレビ……?)
ようやく気づく。
クラスメイトたちの騒ぎ方、異常だ。
ただの転校生じゃない──ってことか。
(……もしかして、有名人?)
そう思ったけど、それまでだった。
誰なのかも、何をしてたのかも、僕は本当に知らなかった。
「水無月さんの席は……えーっと、久世の隣だな」
担任の声に、思わずラノベを閉じた。
(……え。僕の隣……??)
極めて静かに、穏やかに、目立たず新学期を過ごしたかったのに。
なのに、よりによってクラス中の──いや、日本国民の注目の的が、僕の隣席に配置されるなんて、完全に運がない。
彼女は徐々に近づいてきて──
「久世くん、今日からよろしくね」
にこっと笑って、声をかけてきた。
それはまるで、テレビの中で笑っているアイドルのような、けど不思議と距離を感じさせない笑顔だった。
「……あ、よろしくおねがいします……」
なんとかそれだけ返す。
言葉がぎこちないのは、自分でも分かってる。
(……ていうか、誰なんだこの人)
そんなことを思っていると、彼女は僕のことをじっと見つめてきた。
「久世くんって、もしかして……」
(なんでそんなに見つめてくるんだよ……)
「……私のこと、知らないの?」
一瞬、息が止まりかけた。
その目には、驚きと──ほんの少しの期待が混じっている気がした。
(やばい、お前誰ってのが態度に出てた……?)
なにを言えばいいのか分からず、ただ俯くことしかできない。
彼女はそれを見て──ふっと肩の力が抜けたように笑った。
「そっか……! じゃあさ、今日から私たち友達ねっ!」
クラス中に響き渡る声で、そう宣言された。
(僕の平穏な高校生活が……!!)
新学期。
隣に座ったのは、元トップアイドル。
でも、僕には──ただの転校生でしかなかった。
本気で誰だか知らなかったんだから。
──けど、知らなかったからこそ、踏み込める世界もあるのかもしれない。
このときの僕は、まだ何も知らない。
自分の世界が、少しずつ。
彼女によって変わっていくことを。