6-7
初夏の陽光が、王都アゼリアスの大闘技場を照らしていた。
石造りの観客席は祭典を楽しむ民衆で埋め尽くされ、色とりどりの旗が風にはためいていた。これから、騎士たちの腕比べが始まる。武と魔が交錯するこの競技会は、三国同盟締結という歴史的な祝宴に、大いなる熱狂と興奮を呼び起こしていた。
あの日、見知らぬ世界に迷い込んでから、幾月が過ぎただろう。
凛子は今、この世界の人々が新たな時代を祝う瞬間を、目撃している。
隣には、いまや親友とも呼べる腐れ縁であるエイゼルがいた。
観客席の一角に腰を下ろすと、眼下に広がる闘技場の光景に思わず息を呑む。白い砂が敷き詰められた円形の舞台。その中央で、各国を代表する戦士や騎士たちが次々と技を競い合っている。
言葉にならない高揚感。
剣と剣がぶつかり合う金属音。
魔術の光が空気を切り裂く閃光。
それらすべてが、見たことのないはずなのに、どこか懐かしい。
胸の奥で、何かが疼く。
「シェイル様だ。さすが勝ち抜いてきたな~」
エイゼルが指さす先に、亜麻色の髪をした騎士が立っていた。
王国騎士右将軍シェイル。
その名は異世界から来た凛子でさえ知っている。
なぜなら彼はこの国きっての騎士で、信奉者も多い。
彼の姿を目にするのは久しぶりだった。
いつだったか、怪我を負って寝込んでいる所に見舞いに来た美丈夫が、かの将軍であると後から知らされて心の底から驚いたのだ。
いったいどこで縁ができたのか、まったく記憶になかった。
だが、彼の妹であるミアリエル姫とは親しくさせて貰っているし、彼もまた、凛子が異世界から来ている存在である事を認識している一人であるという事を、ラストゥーリャより知らされて、なんとなく納得した。
それでも──。
なぜだろう。
彼を見るたび、胸が締め付けられるような感覚がある。
まるで、大切な何かを忘れているような。
闘技場に、準決勝を告げる角笛が高らかに鳴り響く。
シェイルが砂の舞台に歩み出る。
対するはロマーヌ公国の代表でもあるバルドゥス。
炎を操る魔術師として知られる男だった。
「始め!」
審判の声が落ちると同時に、バルドゥスの両手に紅蓮の炎が渦巻いた。
大気が熱を帯びる。観客席にいる凛子の頬にまで、その熱気が届いてくる。
「焼け落ちてしまえ、若き将軍よ」
バルドゥスが腕を振るうと、炎の奔流が舞台を駆け抜けた。
だがシェイルは動じない。剣を鞘から抜き放つと、刀身に青白い光が宿る。
「大気よ我の手に」
短く呟いた瞬間、シェイルの周囲に小さな光の粒子を帯びた旋毛風が巻き起こった。炎は風に散らされ、無数の火の粉となって宙に消える。
「なんて……きれい」
凛子は思わず身を乗り出していた。
これが戦いなのか。
命を懸けた技の応酬が、こんなにも美しいものなのか。
心の奥底で何かが震えていた。
知っている──ような気がする。
この剣捌きを。この立ち姿を。
シェイルが地を蹴った。
一瞬で間合いを詰め、剣を振り下ろす。
バルドゥスが杖で受け止めるが、その衝撃で砂が爆ぜた。
二人の攻防は加速していく。
光と風と炎が交錯し、剣と杖が火花を散らす。
「速い……」
凛子の目には、もはや二つの影しか見えない。だが、不思議と目を離せなかった。いや、離したくなかった。シェイルの動きを、一瞬も見逃したくない。
やがて、決定的な瞬間が訪れた。
シェイルの剣が閃く。
それは単なる一撃ではなく、雷風の魔術と剣技が完璧に融合した奥義だった。「雷嵐断だ」観客席から誰かがその技の名を叫んだ。
バルドゥスの杖が砂に落ちた。勝負あり。
闘技場が歓声に包まれる。
だが凛子は、ただシェイルを見つめていた。
彼が剣を収め、深く息をつく姿を。
汗に濡れた髪が陽光を反射して輝いている。
ああ──見たことがある。
どこかで、確かに。
「決勝だ、うちの将軍強いな本当に」
エイゼルの声が遠く聞こえる。
凛子の意識は、闘技場の中心に立つ一人の騎士に釘付けになっていた。
決勝戦。
シェイルの相手は近衛聖騎士団に就任したばかりの副団長、カトレア。
水の魔術と槍術を極めた女騎士だ。
両者が向かい合う。
カトレアの槍が神々しい光を放ち、シェイルの剣には再び風と雷の魔力が宿る。
「負けるつもりはありませんよ、閣下」
カトレアの声に、静かな覚悟が滲んでいた。
それに応えるように、シェイルが頷く。
「無論、俺もだ」
短い言葉。
だがその響きに、凛子は胸を突かれた。
戦いが始まった。
槍と剣。光と水。
二つの力が激突するたび、闘技場全体が震える。
カトレアの槍捌きは完璧だった。水の魔術が槍先から放たれ、シェイルに襲いかかる。だがシェイルは、それらすべてを見切っていた。
剣で水柱を弾く。風で軌道を逸らす。
そして、隙を突いて踏み込む。
攻防は延々と続いた。どちらも一歩も引かない。
観客たちは息を呑んで見守っている。
これこそが、真の騎士の戦いだった。
やがて、シェイルの目に決意の光が宿った。
「カトレア」
名を呼び、大きく息を吸う。そして──。
「俺には、取り戻さなければならないものがある」
その瞬間、シェイルの剣に今までとは比較にならない量の魔力が集束した。
風が咆哮し砂嵐が舞い上がる。
シェイルの身体が砂を蹴り、一瞬で宙を舞った。
風に乗って、光の如き速さで突進する。カトレアが槍を構えるが、間に合わない。
シェイルの剣がカトレアの槍を弾き飛ばし、その喉元で止まった。
「……私の負けです」
カトレアが微笑み、両手を上げる。
勝者、シェイル。
闘技場が割れんばかりの歓声に包まれた。
人々が立ち上がり、手を叩き、騎士の名を叫ぶ。
だが凛子は、ただ立ち尽くしていた。
頬に何かが伝っている。
なぜ泣いているのか、自分でも分からない。
ただただ、胸が痛い。
聖王の声が重々しく響いた。
「優勝者アゼリアス聖王国騎士右将軍シェイル、その武勇を讃える。望むものを言うがよい。褒賞として、汝の願いを叶えよう」
シェイルが膝をつき、しかし顔を上げた。
その瞳には、迷いがなかった。
「陛下。私の願いは一つです」
観客席が静まり返る。
シェイルの声が、よく通る。
「かつて、この剣を捧げたいと心に願った人がいます」
凛子の鼓動が速くなる。
「けれど彼女の手を、離してしまった」
凛子は、隣に居たエイゼルの袖を思わず掴む。
「陛下、どうか」
シェイルが顔を上げる。
その視線が、まっすぐに観客席の一点を射抜いた。
「彼女を。もう一度、私の隣に」
世界が、止まった。
「リィン、あなたよ!」
いつの間に隣に来ていたのだろう。
ミアリエルが頬を染めて叫んだ。
周囲の視線が一斉に凛子に注がれる。
だが凛子には、もう何も見えていなかった。
ただ、闘技場の中央で自分を見つめるシェイルの姿だけが、鮮明に映っている。
身体が勝手に動いていた。
観客席の階段を駆け下り、闘技場への入口を抜ける。
白い砂を踏みしめて、シェイルの元へ。
「――シャール」
名前が口をついて出た。
知らないはずの名前を、どうして呼べるのだろう。
けれど、これが彼の名だと、魂が知っている。
シェイルが走ってくる。凛子も走る。二人の距離が縮まる。
そして──。
シェイルが凛子を抱え上げた。
その瞬間、凛子の脳裏に、記憶が雪崩れ込んできた。
出会った日。
疲れ果てて帰宅した自室で、剣を突き付けられた。
稀有な二日間。少年を少し出たくらいの彼と過ごした時間。
大人になった彼を見た時の違和感。
共に見上げた星空。花冠の柔らかな香り。
言葉が通じぬまま、それでも同じ月を見ていた。同じ風を感じていた。
そして──。
彼が自分を見る目が、他人のものになった瞬間。
あの痛み。引き裂かれるような喪失感。
けれど今、すべてが繋がる。
「シャール、シェイル……!」
今度は、確かな想いを込めて、その名を呼んだ。
「リィン――――高宮、凛子」
シェイルの声が震えている。
その腕に抱かれたまま、凛子は彼の顔を見上げた。
青灰の瞳に、涙が光っている。
「ごめん。忘れてた」
「いや──お前のせいじゃない」
シェイルが凛子の頬に手を添える。
「俺が、守れなかったから」
凛子はシェイルの手に自分の手を重ねた。
額が、触れ合う。
「ただいま」
「おかえり」
言葉が重なった。
闘技場が、再び歓声に包まれる。
今度は祝福の声だった。
人々が拍手し、笑っている。
初夏の陽光が二人を照らし、風が優しく髪を撫でていく。
観客席では、エイゼルとミアリエルが抱き合って泣いていた。
ラストゥーリャも、珍しく目を細めて微笑んでいる。
カトレアが槍を掲げ、二人の再会を祝っている。
シェイルがゆっくりと凛子を下ろした。
だが腕は離さない。凛子も、彼の胸に額を預ける。
「名前、覚えたの? 私の日本名」
「──かなり、練習した」
シェイルが凛子の髪に触れる。
その手は、剣を握る手とは思えないほど優しかった。
失われた時間は戻らない。
けれど、ここから紡がれる時間がある。
闘技場に、祝福の花びらが舞い始めた。
観客たちが投げる花が、二人の周りに降り注ぐ。紅、白、黄、紫。色とりどりの花びらが、風に乗って踊っている。
空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。
遠く、鐘楼の鐘が鳴る。
新しい時代の始まりを告げる音色が、王都中に響き渡り、三国の旗が並んで翻った。
シェイルが凛子の手を取った。
「行こう」
「どこへ?」
「君の望むままに」
二人は、花びらの舞う中を歩き出す。
闘技場を出て、石畳の道を抜けて。
凛子は振り返った。
向こうにアゼリアス王宮が、学術庁の尖塔群が陽光を浴びて輝いている。
異世界に迷い込んだ彼女と、異世界に迷い込んだ彼。
かつての空間の共有者である二人。
そして……剣は結末を断ち、愛は記憶を紡ぐ。
<完>
このあと一話だけ後日譚?の小話がありますのでよければお読みください。
終幕後 「或る日の寓話」




