6-6
一週間後。
イズラル帝国は、撤兵を決定した。
そして三国貿易協定が、締結された。
ロマーヌは、内乱の危機を脱し、若き公子を中心に団結する。
トゥリローゼが受けた国境沿いの争事には、ロマーヌとイズラルより違約金が支払われた。
報告は簡潔だった。
調停は成功した。
だが、代償は、あまりに深く、取り返しがつかない。
ディエルの左腕喪失、および特定の人物に対する感情のみ欠落。
凛子の特定の人物に対する記憶のみ消失。
ミアリエルは奥宮を抜け出し、学術庁の塔から祝宴の雰囲気を纏っている王宮を見下ろし、ぽつりと呟く。
「みんな……傷だらけじゃない……」
その声は、誰にも届かず宙に溶けた。
◇◇◇
凛子は暖かな室内で毛布に包まり、医師の問いに淡々と答えていた。
「記憶障害……?」
「ええ。特定の人物との関係性が、すっぽり抜けています」
特定の人物。
そう、たったひとりだけ。
シェイルは廊下で、壁に額を押し付けたように立ち尽くしていた。
声をかければいいのに。
名前を呼べばいいのに。
一歩が出ない。
胸の奥には、凛子のあらゆる記憶が鮮烈に残っているから、この距離の方が安全だった。
「今度は……俺が、忘れられる番か」
その言葉は喉奥で崩れ苦し気に溜息を吐いた。
「ディエル……お前は、本当にひどいことをする」
だがしかし、怒りは遠く寂しさだけが残る。
肝心の弟は、この場所に在ったという証を全て捨てて去ってしまった。
ややして、面会許可が下りた。
扉が開かれた瞬間、視界の中に見知らぬ男の影が差す。
「リィン」
凛子は反射的に身体を引いてしまう。
知らない人物が、自分の名を呼ぶ。
それなのに、なぜか泣きたいような奇妙な衝動が溢れ、困惑する。
「ごめんなさい……えっと、あなた、誰……?」
シェイルは、確かに、笑おうとした。
けれど、唇はうまく動かなかった。
「俺は――アゼリアスの剣を預かる者。それで十分だ」
凛子の頬にそっと触れると、指先を通じて、震えがシェイルに届いた。
「――私、何か、大切なことを忘れてる」
シェイルの胸倉を掴み上げる様な残酷な言葉に、血の味がするほど唇を嚙みしめる。
「気にするな」
◇◇◇
アゼリアスからは遥か遠い南の土地。乾いた砂漠を抜けて蒼海の臨む丘の上に、石造りの小さな修道院跡がある。何年も使用されておらず、最も近い集落からも徒歩で数日かかる、そんな不便な場所で、片腕を失った袖を結びディエルは本の山に囲まれて座る。
日差しだけが友。紙の音だけが世界。
だんだんと朧になっていく記憶を確かなものとするのに記録だけが頼りだった。
彼も、彼女もこのような感覚だったのかと、ただ思う。
「こんな結末で良かったか? リゼット」
隣には誰もいないのに問いだけが零れ落ちる。
古禁呪と契約する代償として引き換えたのは、己の大切な物。
文字を書く利き腕と、固執していた相手に対する感情。
感情を消し去った筈なのにも関わらず、どこか痛むような気がする。
その違和感だけが、今や彼が生きている証拠だった。
◇◇◇
ラストゥーリャの第二研究室は、魔術院塔の地下にある。
最上階は執務室と第一研究室と一部の資料庫で、倉庫と第二研究室は地下室だった。
「トゥーリャさん、呼んでいるって聞いたけど――」
「おお、リィン」
少しかび臭い階段を下りた先の戸は開け離れていて、見慣れた顔が揃っていた。
魔術院の庁であるラストゥーリャ、彼の補佐官であるエイゼル。
それから王室会議顧問官と成り、外宮を走り回っている若き王族の姫君であるミアリエル。凛子にとっては皆心を許している相手である。
どういった理由で、異世界に辿り着いたのかは記憶にない。
記憶にはないのだが、このアゼリアス聖王国は凛子にとって、既に馴染み深い場所となっていた。
人物を構成する色合いが似ているという点から、ラストゥーリャの遠縁の娘として、新たな戸籍を得て、今は彼の元でエイゼル同様、業務サポート役に徹している。
一時期は軍本部で秘書をしていたのだが、上官とは反りが合わなかったのか、既に任を解かれ、一番最初の職場へと復職していた。
「ちょうどよかった。見てもらいたいものがあるんです」
「何ですか?」
ラストゥーリャが示した机上の装置は、卓の天板と同じサイズの銀製の板に、複雑な紋様術式の陣が刻まれているものだった。
「これは……」
「隔離結界の、改良版です」
ラストゥーリャの説明に、凛子は首を傾げた。
隔離結界というのは、はじめて聞く単語だった。
「あの時の術式陣を、さらに調整したんですよ」
「あの時の」
複雑そうな顔で、ラストゥーリャの言葉を繰り返した凛子に、ミアリエルが話題を変えるように、ぽんと手を叩いた。
「わたくしも、魔力をお貸ししたのです! 褒めてください。あとエイゼルも少し」
「俺も、結構注ぎましたよ。もうへろへろ……」
にこにことしながら期待した目でこちらを見るミアリエルに微笑みを返し、凛子は彼らの話の内容が全く理解できないまま「おつかれ」とエイゼルにも声を掛けた。
「貴女の世界と、もう一度繋がるかもしれない、という事です」
色々な説明を端折って告げられた言葉に、凛子は思わず息を呑んだ。
「え、え、どういう事? 本当ですか?」
「ただし――まだ実験段階なので、時間制限があります。空間の範囲も貴女が居た室内の中だけ。つまり箱庭のようなものです」
唐突な宣言に、唖然としていた凛子が、震える声で呟いた。
「家族に、私がここに居るって伝えられるかもしれない……」
「ええ、最終調整をしたいので、生体検証にお付き合いいただけますか?」
迷わず、頷いた。
エイゼルとミアリエルが凛子の両側から彼女の腕を取った。
ふと、よぎる既視感。
ミアリエルが励ますように、顎を上げて笑顔を作っている。
「大丈夫ですわ。私たち、数多の試練を共に打ち砕いてきた仲間なのですから!」
「数多の、試練……」
ぶつぶつと、小声で反応しているエイゼルを、ミアリエルが軽く睨みつける。
いつもとまるで変わらない調子の彼等に、凛子は思わず笑いを落とす。
数多の災難、といった方が正しいかもしれない。
特にエイゼルにとっては。
くすくすと笑う凛子の脇を、エイゼルが肘で突く。
ラストゥーリャの眉間に皺は寄っていない。
場に居る三人にそれぞれ指示を出し、板の上に彼は掌を翳した。
室内中の空気が彼の掌に向かって流れていくような感覚。
「今日は、あくまでも検証ですからね、中には入らないで下さい」
蒼と緑と黒の光が収束し、幽かに震えたのちそこにマンホールサイズの穴が出現した。
底が、見える。
数メートル程度下にあるのは、見慣れた自分の部屋だった。
「あ……」
部屋は相変わらず、散らかっていた。
床には、雑誌や服が散乱している。
テーブルの上には、カップ麺の空容器。
恐らく一年ぶりくらいに見る自室は、懐かしさと共に、彼女に反省を促していた。
エイゼルが、興味深そうに穴の中を覗き込む。
「これは、部屋……? なのか……?」
「うう……一応……」
ミアリエルもまじまじと穴の中をのぞいている。
ラストゥーリャが興味深そうに、散乱しているコンビニのビニール袋について、矢継ぎ早に質問を飛ばしてくる。
わりと感動的な場面な筈なのに、カップ麺や空き缶の用途について説明していて、凛子は最終的に大きな声で笑いだした。
「はー、ほんとこうして上から見ると汚い!」
「お掃除してくださる方は居らっしゃないの?」
「そういうシステム……制度もありますけど、基本的に自活ですよ! 私のところは」
「リィン、そろそろ閉じます」
ラストゥーリャが、残念そうな声をあげた。
「少々、結界が、不安定になってきていますので」
凛子は、名残惜しそうに部屋を見おろした。
もし次に帰れる時が来たら、やっぱり最初にするのは掃除だろう。
穴は、じわりと輪郭をぼやかして、静かに閉じた。
「また――繋がります?」
凛子の問いに、ラストゥーリャは確信をもった目つきで、頷いた。
本日三話分更新します。




