6-5
時を少し遡る。
外宮にある学術庁群塔、魔術院へと続く螺旋階段を、ミアリエルは息を乱して駆け上がっていた。
裾が舞い、金の髪飾りが跳ねる。
「味方してくれないのは、なんでなのよぉぉぉ!!」
半泣きの勢いのまま、目的の扉を叩き破らんばかりに開け放つ。
中にいた青年が、椅子から跳ねるようにこちらを見た。
その横顔が、驚くほど見覚えのある線をしている。
「えっ…えっ? 誰? エイゼルに似てるんだけど!? 怪しい!」
「おや、殿下は愚弟と知り合いでしたか」
「ぐ、ぐてい…?」
「私はマリセルと申します。エイゼルの兄ですよ」
白い聖職衣を纏ったその人物は、弟より少し年長らしい落ち着きを備えていたが、手は紙やインクで汚れていて、典型的な聖官のそれではなかった。
「ななななんでよりにもよって、聖王庁の人が、こんな所に居るのよ!」
「ラストゥーリャ様に相談があって参ったのですが……主も補佐官も留守でして。ところで、泣いていらっしゃる理由をお聞きしても?」
「泣いてない! ちょっと怒ってるだけ! ……ちょっとだけ!」
瞳を潤ませ、威嚇しているような声音。
それは、守られたい気持ちの裏返しだった。
「ところで、エイゼルとは、どういうご関係で?」
「ど、どういう、って…! そ、それは…!」
突然矢面に立たされたマリセルからの問いに対する返事は、言葉に変わる前に口の中で暴れた。
「お友達でしょうか?」
「友……ちがっ……! きょ、共犯者みたいな……」
ようやく搾り出した声は、心のいちばん素直を巧みに隠す。
マリセルは一瞬だけ目を細める。
弟を過大評価しがちな兄としては、少しだけ胸が温まる。
「ふむ。では、差し支えなければ殿下、私も協力しましょう。弟の友を助けるのも兄の務めというものですから」
そのとき、扉が軽やかに開く。
「随分と賑やかですね。留守中に塔が崩れたかと思いましたよ」
戻ってきたラストゥーリャの声は、薄く笑っていた。
「殿下は先ほどぶりですね。それから、マリセル、どうしました」
「ああ、ディエル様について、ご相談が少し」
マリセルが卓上に数枚の紙片を広げる。
そこには、奇妙な報告が並んでいた。
ミアリエルも本来の目的――エイゼルに愚痴を言うという――釣られて卓を覗き込む。
「大司祭ディエル様が聖王の命により、発たれましたが……ご自室に一切の彼の方の痕跡がありません。記録も、私物も、まるで初めからそこに誰も居なかったかのように」
「ど、どどゆうこと?」
言葉だけで捉えると、かなり不穏な話である。
先程行っていた、王族だけの秘密の会議にて、王は大司祭に、戦の火種を収めるべく、調停のための特使として向かわせたばかりだ。
ミアリエルがきょとんとしてマリセルを伺うが、柔和そうな青年は軽く肩を竦めるだけだ。
「また、一部、二重の隔離結界で封じられた小部屋があり、入れませんでした」
ラストゥーリャの眉がわずかに動いた。
「……なるほど。猊下が出立されたのはいつですか?」
「王宮から命令書が届いて半刻もしないうちに」
「予見、されていたという事でしょうか」
彼は視線をミアリエルへ向ける。
「殿下には、かつて奥宮から抜け出した際に、結界の穴を見つけた経験がございましたね」
「う、うん。……あれ?」
ラストゥーリャの眼差しに、静かな光が宿る。
「それから、大神殿の庫院に施されていた二重結界を破壊されたことも」
「え、うん……」
破壊という言葉に、マリセルもその日の事を思い出したように、はっとした顔をする。
「もしよろしければ、協力していただけないでしょうか? これは軽々しく扱えない、事象です」
ミアリエルは、ぱちぱちと瞬きをし、会話の内容を反芻する。
それから、神妙な顔つきで「はい。任せて、結界壊せばいいのね」といった。
「いえ違います」
否定の言葉が即座に返された。
そしてラストゥーリャとマリセル、ミアリエルとエイゼルの四人は、密かに、ディエルの私室へ侵入した。
石壁には冷たい沈黙が張り付いている。
家具の位置はきれいに保たれているのに、匂いが無い。人の生活の痕跡が欠片すら残っていない。ミアリエルが不安そうに腕を抱く。
ただ一つ、封印された扉の前だけ、空間がざらついていた。
結界に触れたラストゥーリャが静かに呟く。
「これは…私の旧式の紋様術式だ。改変されている」
「破れますか?」
「穴はある。殿下ここに、力を」
ミアリエルが息を吸い、小さく頷く。掌を結界に添えると、光の膜が揺れた。花瓶が砕け散るような音。封印が静かに崩れていく。
扉の奥は、異様な空気が満ちていた。乱雑に積まれた古い魔術書。無機質な記録簿。記載されてある人名。黒い像。
「……っ」
ミアリエルが息を飲む。
そして――一冊の帳面。
ページには名前が並んでいた。
通り魔事件の候補者。
筆頭に、凛子の名。
「これは…」
ラストゥーリャの声が一段と低くなった。
彼が手にした書には、見覚えのある術式が並んでいた。
かつてラストゥーリャ自身が研究した、そして今もなお研究を進めている、禁じられた隔離結界。異なる空間を強制的に縫い合わせる術と限りなく近いものだ。
マリセルは古い日記帳のような物の中身を改めている。
十四年前の偶発的な事故により、異界と繋がる閉鎖的な空間に、ディエルが二昼夜閉じ込められた記録。
シェイルやラエルの例とはまるで反対の、絶望的な場所であった結果が、彼に怨嗟を呼び起こしたという記録だった。
そこからディエルは独自に異界と繋がる隔離結界を、独自に研究し続けた。
無論すべて、ラストゥーリャの発案した術式を基本構造に置いてあるが、二年前にディエルが繋いだ異界との繋がりを持った術式は暴発し、災禍を呼び込んだ。
そして、自ら望んで、魅了された。
「リゼットという女との記録……魔女かこれは……」
◇◇◇
血塗れの鎧を引きずり、シェイルが駆け寄る。
「ディエル! やめろ!」
その言葉は届かない。
ディエルの瞳は兄を認識していながらそこに何も宿していない。
紋様術式の暴発の瞬間、世界が裏返るかのようだった。
光が裂け、地が裂け、大地が裂け、空気が軋み、すべて赤色に染まった。誰かの叫び。誰かの断末魔。術が暴れ狂い、すべてを飲み込み、焼き付けていく。
ディエルの視界はやがて色を失い、次に見えたのは、自分の左腕が肩から無いという事実だけ。
痛みは遅れてやってきた。
だが叫びは上がらない。
胸の内のほうが、ずっと空洞だった。
シェイルに関する感情が綺麗に抉り取られている。
無感情のままそれだけを確認し、ディエルは立ち上がる。彼の目的は果たされた。世界の完成。失われたのは、救いか、罪か。
帝国軍とロマーヌ軍、トゥリローゼ兵、アゼリアスの騎士達。
怒号と不信が渦巻く中に、片腕の大司祭がゆっくりと進み出る。
その一歩ごとに空気が締め付けられる。
「終わりの時間が近づいている。これ以上の争いは必要ない」
帝国の将軍が唇を噛む。
「貴様ら聖職者や魔術師の気まぐれで、我らが退くと?」
「私が施したいのは恐怖ではない。愚かさをやめろと告げているのだよ。確かに、イズラルは五万の兵を集めた、だが――この先、トゥリローゼが参戦し、アゼリアス介入するだろう。つまり、戦は、長期化する」
「それが何だ」
「あなた方の補給線は?」
ディエルの問いに、将軍は黙る。
「イズラルは、確かに強大だが――この大陸の反対側まで、補給を続けられるか? それに――聖王庁は、この戦を侵略戦争と認定する。つまり、大陸全土に向けて、イズラルへの非難声明を出す」
将軍の顔色が、変わる。
「貴方たちは――孤立するだろうな」
「……脅迫か」
ディエルは、無感情の瞳をいきり立つ将軍に向けた。
「これは、提案ですよ」
「提案?」
「ええ。戦などやめて、その代わりに――貿易協定を結ぶのはいかがか?」
「貿易ぃ?」
「ロマーヌの工業技術。アゼリアスの鉱物資源。そして、イズラルの広大な市場。三国で協定を結べば、すべてが利益を得るのでは? 戦で奪うより、よほど確実にね」
ディエルが掌を上に向ける。
光の梯子が天へと伸びて、灰に塗れた戦場に光の粒子を撒き散らした。
戦場に沈黙が広がり、重圧だけが残る。
「新興国である貴国は知らぬだろうが、アゼリアスが他国の侵略を受けないのは、この大陸において、もっとも魔術と軍事に秀でているから」
この場を支配している男の言葉に逆らうものは現れなかった。
黒髪の女が微笑みながら、彼の影から姿を現す。
そして男に甘えるよう、残っている腕に身体を寄せた。
濃紺の瞳が、細められ、ディエルの掌に重ねるように自分の手をのせる。
黒い霧のような靄が梯子に纏わりつくように登り、戦場に闇の粒子を撒き散らした。




