6-3
冬の名残を引きずる風が、頬を刺した。
視界の向こう、深い霧に沈む国境山脈――あれが、イズラルの方角。
「トゥリローゼ救援……名目は、ですけど」
小声で呟いた凛子に、横で騎獣を操るシェイルがちらと視線を寄越した。
氷のような青灰の瞳。その奥には、言葉では掬いきれない焦燥が潜んでいる。
「名目でも構わない。帝国がロマーヌへ足を踏み入れた瞬間、火種は燃え上がる」
「戦争を……止めるための戦い、ですね」
シェイルは短く頷いた。
「聖王の命により、部隊を三つに分ける。南部防衛、中央救援、そして――」
鞍上で振り返り、続く将校たちを見渡す。
「奇襲隊は俺が指揮を執る」
騎士たちの鎧が一斉に震え、金属音が刃先のように凛と響く。
誰もが、この作戦が一歩間違えば全滅を意味することを理解していた。
シェイルは獣を先に進め、部隊の先頭に立った。
風が、彼の外套を大きくはためかせく。
「帝国の刃を――ここで折る。朋友の為に」
その声の先に、不吉な戦雲が渦巻いていた。
凛とした冷気を帯びた矢羽が、ぞっとするほどに静かに震えている。
帝国軍の斥候が、既にこちらを窺っている証拠。
息を吸った。
吐く白い息が、すぐさま霧に飲まれる。
「カミ―ヤ」
名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
シェイルがこちらを見ていた。
夜明け前の闇に沈む瞳で、それでも確かに自分を捉えて。
「離れるな。俺の視界の……届くところにいろ」
それは命令であり、願いであり――ほんの少しだけ、弱さの滲んだ言葉に聞こえた。
「全軍、進軍――!」
乾いた雪を蹴り上げ、馬蹄が一斉に轟く。
夜明け前の戦場へ向かう、その音は、まるで運命の幕が上がる音のようだった。
やがて、雪解けの泥に、黒い染みが点々と続いていた。
馬を進めるたび、革の匂いと血の鉄臭さが鼻を刺す。
「……酷い」
誰に向けたわけでもなく漏れた声が、白い息になって消える。
前線から退けられたはずのロマーヌ辺境兵が、――倒れていた。
まだ若い兵士も多い。
武具は奪われ、胸甲はひしゃげ、顔には恐怖の刻まれたまま。
「帝国軍は……容赦が無いな」
誰かの呟きに、隣の士官が歯を噛みしめる。
「――弔う時間は後だ!」
先頭の指揮官が怒号を飛ばす。
槍先を前方へ向けると、部隊が一斉に走り出した。
ロマーヌ公国辺境の砦が見えた。
トゥリローゼとロマーヌの境界に築かれた、簡素な前哨拠点。
だが旗が、違う。
「え……?」
掲げられているのは、帝国の黒双頭鷲だった。
すでに奪われていたのだ。
「敵影! 構え――!」
瞬間、闇の中から矢雨が降り注いだ。
地面に突き刺さる音が耳を裂く。
「伏せろ!」
叫んだカトレアの声と同時に、何本もの矢が間近を掠めた。
砦の陰から、鎧を黒で塗りつぶした兵が次々と躍り出る。
その装備は――帝国正規軍ではない。
「リィン、後ろだ!」
振り向いた瞬間、槍が迫る。
冷たい刃が頬を切り裂いた。
血が、温かい。
腰の短剣を抜き、相手の腕を払い、転がり逃れる。
数歩の距離――殺されるには十分。
「離れるな、と言っただろう」
低い声が頭上から落ちた。
次の瞬間、兵士が吹き飛んだ。
シェイルだった。
「閣下」
「予定変更だ」
短く言い捨て、彼は砦を睨み据える。
「この前哨を確保する。帝国は既に動いている」
その声は、冬の刃より冷たかった。
目が合う。
呼吸が、止まりそうになる。
彼は何も言わない。
けれど、その眼差しは――どこか痛みを抱えているようで。
凛子の胸にひりつく疑問が残った。
「また、傷を付けている」
シェイルの指先が、凛子の頬をなぞる。
僅かな魔術痕を残し、傷跡が塞がった。
「すいません、足手纏いで。お前の仕事は砦についてからが本番だ」
答えると、彼はわずかに目を細めた。
その一瞬が、どうしようもなく美しく――怖かった。
「行くぞ。帝国の喉元を断ち切る」
シェイルの剣が閃き、夜の闇を裂いた。
知られざる真実へ。
彼らの戦いは始まったばかりだった。
◇◇◇
ラストゥーリャは山の中腹の先にある大神殿へと向かっていた。
長い階段を上り、扉を叩く。
「大司祭ディエル猊下にお会いしたい。私は天文院長官、ラストゥーリャ・ウル・ハルス・シータです」
「少々お待ちください」
聖官の若者は奥へと消え、しばらくして、リアス聖教会の主である男が現れた。
「やあトゥーリャ珍しい。君から来てくれるなんて……シェイルに何かあったのかな?」
真っ先にその名を口にする。
ラストゥーリャの胸が僅かに刺さる。
「サーシャ殿から、書簡が届いたので」
「ああ……」
ディエルは薄く笑み、ラストゥーリャに椅子を進めた。
片手をあげると、奥に合図をする。
運ばれてきた茶は、酷く甘い香りがした。
「で、何だって?」
「聖王庁本山。つまり貴方からは、何の指示も来ていないと」
「ふむ」
「ここに来る前、マリセル殿の所にも顔を出しましたが、彼も何も知らされていないようでした」
淡々と事実を述べるだけの黒き賢者に、ディエルは詰まらなそうに肩を竦める。
「何も言っていないからね」
「それは、何故……聖教会からはいかなる仲裁も出さないという事でしょうか?」
「おや、忘れちゃったのかな?」
ディエルはいっそ楽し気に嗤った。
「政治と宗教。我が国はそれぞれの独立性を重んじているのではなかったっけ。つまり僕たちの立場としては、政治に不当に介入するなんて、出来ないんだよ」
ラストゥーリャは慎重に言葉を選ぶ。
「しかし、今回の件に関しては、トゥリローゼ救援を主として」
「詭弁だな。しかも他国への不要な介入じゃないか。そんな事をして本当に、アゼリアスの民が一人も傷つかないでいられるという保証はあるのだろうか? それに、イズラルにはリアス聖教会は無い」
「聖王の願いだとしても、という事でしょうか」
「トゥーリャ。あのね、戦いが何を産むか、知っているかな? 戦えば血が流れる。血が流れれば、何を求める? 人々はきっと祈りを求めるだろう。我々聖職者は、天の摂理に従うしかない」
苦し気に眉を潜め、天を仰いだディエルは苦悩に満ちている聖職者の鏡のようだ。
ゆっくりと目を開けた彼の瞳には静謐な静けさだけに満ちているようにも見える。
「秩序が壊れれば、新しい信仰の在り方が生まれるかもしれないね。聖王は大司祭を任命する、だがしかし、大司祭もまた聖王を導いている」
◇◇◇
「猊下は、動かれないとの事です」
聖王が難しそうな顔で机に肘を立てた。
「長く、アレとはまともに話をしていないな」
ため息とともに吐き出された声が後悔と共に沈む。
「私もです、父上」
皇太子であるディエルの兄・ラエルは額に手をあて、項垂れている。彼の隣に蒼褪めた頬で、座っているのは、トゥリローゼから輿入れしてきた皇太子の妃だ。王妃は孫である少年に、少し離れたところで、手製の布絵本を読み聞かせていた。
ミアリエルは、居心地悪そうに座りなおし、報告書を携えてこの部屋に来たラストゥーリャの紡ぐ言葉を静かに聞いていた。
小さな庭園を望む、王の私室に、当代アゼリアス王室を構成している者が顔を揃えていた。
だがそこに二人の兄弟が居ない。大司祭であるディエル、それから右将軍であるシェイル。
ミアリエルは陰鬱が支配する室内を見回し、結局彼らと同じように肩を落とした。
歪な家族だと思う。――王族だからか。
この数年、家族が同じ空間に同時に顔を揃えることなど、公式行事の際以外には、殆ど無かった。
それでも彼女が幼い時、甥っ子である皇太孫が生まれたころまでは、この小さな空間は、いわゆる一般的な家族を構成している民たちと等しく、暖かい雰囲気に包まれていた。いつからこのようにバラバラな形になったのだろう。
しかし庶民の出でもある母はこの奥宮においても、以前と近しい生活を望み、それを父王は受け入れた。母親の違う兄達も皆、最初の頃は、今みたいに遠い、と感じる存在ではなかった。話をしたいとき、という感覚もなく、一緒に居た記憶しかない。
「聖教会への補正予算、国内行事および法整備の見直し――」
ラエルが懊悩を滲ませながら言う。
「いや、いっそ国外任務に出すか。特使として正式に」
大司祭という名分を守りつつ、実質的に権限を奪う。
大司祭であるとともに、ディエルはアゼリアス王室の人間である。
前線で命をとしているいるシェイルに対し、大神殿に引き籠っているディエルという世論戦に持ち込む。
「――血が流れれば、祈りが生まれる。秩序が壊れれば新しい信仰が生まれる、そう言ったのだな」
普段は柔和な目が、射抜くようにラストゥーリャを見る。
「その発言だけを捉えれば、思想的に国家に対する反逆とも考えられる」
「陛下……ですが」
「無論リアス聖教会は政治とは異なる立場にあって良い。だが、その教会を構成している人員は我が国の民でもあろう」
「待って! なんでこんな時にディル兄さまが糾弾されるの?」
弾かれた様に、ミアリエルが立ち上がった。
勢いで、座っていた椅子が引き倒され、母は少年を庇うように抱きかかえるのが横目に見えた。
沈黙していた空気が、砕け散る音がした。
「姫殿下」
ラストゥーリャが静かに諌めようとするより早く、聖王が手を上げた。
「ミアリエル、座りなさい」
ラエルが諌めても、ミアリエルは首を振る。
「だって……家族なのに! なんで喧嘩するの!」
「家族は一緒じゃないとダメなの!」
彼女の言葉は拙く、幼い。
だがその真っすぐさだけが、会議の冷気をかろうじてゆらがせた。
「ミアリエル」
王の声は落ち着き払っていた。
「これは喧嘩ではない。国を動かすための判断だ」
短く、硬いその言葉に温度はない。
王は感傷を持たないまま話を続ける。
「ディエルは大司祭だ。そしてこのアゼリアス聖王国を構成する王族の一人でもある」
ラエルも淡々と頷いた。
「軍事面を担うのがシェイル、宗教面を担うのがディエル。役目どおりに働いてもらう。それだけの話です」
ミアリエルは唇を尖らせ、
「やだ……離れ離れになるのやだ……」と呟き、涙をこらえる。
だが誰も、慰めない。
誰も、立ち止まらない。
その隙間で、ただひとりの名が響く。
「ディエルを前線へ特使として送る」
王の決定は氷の刃のように会議を切り裂いた。
「介入はさせぬ。戦場の均衡を保て。それが特使としての義務だ」
ラエルが思案したのちに王に問う。
「拒否した場合は?」
「その時は……」
父王は遅れて、わずかに肩を落とした。
「神殿の権威と象徴を、こちら側が取り戻すだけだ」
ミアリエル以外、誰も眉一つ動かさなかった。




