6-1
なんとも後味の悪い結末を迎えた事件から、三ヶ月が過ぎた。
新年の鐘が、凛と澄んだ冬空に鳴り響く。
王都アゼリアスは、薄く雪を纏っていた。
人々の祝福の声と、祝いに飾り立てられた花々に彩られ、今日、ひとりの姫君が成人を迎える。
ミアリエルの部屋付き侍女であるエマウは、式典の控え室で主の裾を整えていた。
薄桃の礼服に、地を象徴する翡翠の宝飾。
いつも天真爛漫に笑っていた少女は、欲目を差し引いても、どこか凛とした横顔になっている。
「……似合ってます、ミアリエル殿下」
「ふふ、ありがとう。今日からは正式に王室議会付き顧問官補佐よ」
声には誇りと、ほんの少しの不安。
「私も、もっと役に立ちたいの。お兄様たちみたいに、国を守る盾とか……そういう存在に」
「殿下は殿下の在り方で、国を支えておられますよ。軍人になるよりずっと、強く」
ミアリエルは頬を膨らませた。
「エマウはそうやって、いつもわたしを子ども扱いするんだから」
「だって――可愛いのですから」
むむ、と言いながらも、くすりと笑う姫。
成人を迎えたばかりの少女に、無理な背伸びはしてほしくない。
どうかこのまま健やかに。
式典の扉が開く。
光の渦が彼女を誘い、ミアリエルは振り向いて、いつものように軽く手を振った。
「見ててね、エマウ」
「もちろんです」
扉が閉まり、祝福の歓声が響き渡る。
――この平穏が、ずっと続きますように。
エマウは、ただ静かにそう祈った。
◇◇◇
凛子は相変わらず書類の山と格闘していた。
シェイル直属の書記官として軍部に転属してから、仕事の質が大きく変わった。
天文院では学術的な資料整理が主だったが、今は軍事報告書、外交文書、諜報記録。しかも、機密度が高い。
「カミーヤ、この報告書の確認をお願いできるかな」
ウェントワースが書類を手渡す。
「はい」
凛子は受け取って、目を通す。
ロマーヌ公国に関する報告だった。
公王の容態は悪化。
第一公子はまだ十二歳。
王位継承を巡る混乱が予想される。
そして――イズラル帝国が、国境付近に軍を集結させ始めている。
「これは……」
「うん、とても、まずい状態だね。ロマーヌが内乱になれば、イズラルは必ず動く」
「トゥリローゼ王国はどうなるんでしょう?」
「ロマーヌの同盟国だ。参戦は避けられないだろう」
「では、アゼリアスも……」
「トゥリローゼとは友好国。しかも――」
ウェントワースは凛子を見る。
「十三年前、トゥリローゼの第四王女がアゼリアスに嫁いでいる」
「皇太子妃殿下ですね……」
つまり、王家の縁戚関係がある。
「火の粉は、必ずこちらにも飛んでくる」
戦争。
この世界にも、そんな現実があるのだ。
その時――扉が開いた。
「閣下、おかえりなさいませ」
ウェントワースが敬礼する。
シェイルが、執務室に入ってくるなり、儀礼服の上着をむしり取るように脱ぎ捨てた。
「ロマーヌの件、先程、王室議会にて報告は受けた」
シェイルは執務机へ歩みながら、手袋を引きちぎるように外す。
その仕草に、いつもの冷静さとは違う苛立ちが滲む。
「カインズ公とファスト公も呼べ。王室議会と作戦会議だ」
「了解しました」
ウェントワースが敬礼し、急ぎ足で執務室を後にする。
室内に、残された凛子はこういう時に、どう動けばいいのか判らず、資料を抱えたまま小さく言った。
「……大変なことに、なりそうですね」
「戦争は、最後の手段だ」
凛子の言葉を受け、シェイルは顔を上げる。
「外交で解決できる可能性も、まだある」
「そう、ですよね」
凛子は頷く。
だが、不安は消えない。
シェイルの表情も、どこか硬い。
「カミーヤ」
「はい」
「お前は、この国に来て……後悔していないか?」
突然の問いに、凛子は目を見開いた。
「ゼイレンでの事件。お前は、危険な目に遭っただろう」
青灰色の双眸がじっとこちらを見つめている。
「そして、これから先も――未来とは予測できないものだからな」
その声には、何か――痛みのようなものがあった。
凛子は、少し考える。
確かに、何もかもが未知の体験だった。
この世界に来たことも、囚われたことも、シェイルとこうして言葉を交わしていることも。
でも――。
「後悔は、していません」
凛子は、はっきりと答える。
「私、かなり打たれ強いんですよ」
「……そうか」
僅かな、安堵の色が滲み、すぐに消えていった。
「閣下こそ」
凛子は勇気を出して言う。
「私が、ここにいることを――後悔していますか?」
「何?」
「私がいるせいで、面倒なことになっているのでは……」
「それはない」
即座に否定された。
「別に、お前のせいではない」
そして――一瞬、何かを言いかけて、口を閉じる。
だが、すぐにいつもの冷静な顔に戻る。
「会議の準備を頼む」
凛子は、少しだけ胸が痛んだ。
シェイルが、庇護しようとしているのは国でありその民である。
王都に、冬の冷気を突き破るような吹き込んだ不吉な風。
――新年の祝祭の終わりは、新たな戦いの幕開けだった。
◇◇◇
急造の戦略会議室には、戦場の緊張と政治の思惑が混じった空気が渦巻いていた。
長机の上には、ロマーヌ公国の地図と国境沿いの部隊配置図が広げられている。
ミアリエルは成人式で授かったばかりの席に王室議会付き顧問官補佐として、その末席にぎこちなく座っていた。軍服でも甲冑でもない、淡い色の式典服が場違いに思えた。
「ロマーヌ公国内での内乱……そして帝国軍が国境を突破したとの報です」
報告役の若い騎士が声を震わせながら続ける。
「敵の主力は、帝国西方方面軍第七機甲集団。偵察によれば、わずか三日で国境都市を制圧……。このままでは――ロマーヌは陥落します」
「準備が整う前に、王都まで到達するだろうな」
左将軍。つまりアゼリアス聖王国軍を統べる大将軍たる、カインズ老公の冷静な声が遮った。年季の入った鎧が、灯火に重く光る。
「救援要請は?」
中将軍ファスト公の続けた問いかけに、ミアリエルは、思わず前のめりになる。
「正式文書がトゥリローゼを通じロマーヌ公国より……届いております。しかし、内乱の発端が王位継承争いである以上――外交上の火種に」
「ぇ……そんな理由で見捨てるの……?」
思わず漏れた声は、震えていた。
「ミアリエル」
刹那に兄の顔を張り付けた将軍が、諭すような声で制した。
「これは戦。理想だけでは国は守れない」
ミアリエルは拳を握る。
爪が掌に食い込み、痛みで少し冷静になった。
そのやりとりを、居並ぶ軍の将軍、騎士たちが表情を変えず見ている。
若い王女の熱意など、戦争の数字に換算できないものだと理解しているから。
「問題は、帝国軍の動きですな」
アゼリアス、トゥリローゼ、ロマーヌ、イズラル。
大陸の勢力図を睨みつけ、ファスト公が国境線を叩く。
「ロマーヌを飲み込んだのち、トゥリローゼそして我が国もいずれ侵すと見るべきでしょう」
「無論、座って待つつもりなら、このように貴殿らを招集しておらん」
王が、この場において初めて、重々しく口を開いた。
同席していた皇太子であるラエルも同意するよう頷く。
「アゼリアスは長らく安寧の国。それは同時に大陸において最も武力に秀でているからに他なりません」
「新興国の伸長は、大陸経済を広げるうえで一定の意義を持っていたといえよう」
「ですが、戦火を広げることによって生み出される利益は、安寧からは程遠い」
「お待ちください、国内の防備も同時固めるべきかと」
ファスト公は、冷静に言う。
「終末信仰の件が、まだ解決していません」
「確かに……」
ラエルは、考え込む。
「外敵と内憂。厄介だな」
「兄上、内憂については、私が対処します」
声をあげたのはシェイルだった。
「お前が?」
「はい。部隊の一部を、国内警備に回します」
「しかし、それでは前線の戦力が――」
「問題ありません。むしろ、後顧の憂いを断つことが、勝利への近道」
ラエルは、暫しシェイルを見つめた。その瞳には職務を全うしようという、確固たる意志が見える。
「わかった。お前に任せる」
兄弟の会話を静かに聞いていた王が、場を纏め上げるよう声を上げた。
「それでは――表向きはトゥリローゼ救援を名目に、帝国軍の進軍を阻止する。裏側からディエル……聖王庁からの呼びかけも」
王の意図を汲んで大将軍が立ち上がった。
「部隊を三つに分ける。南部防衛、中央救援、そして――」
「遊撃部隊は引き受けます」
シェイルが即答した。
◇◇◇
「ミアリエル様、そう肩を落とさないでください」
ミアリエルの身に付けていた儀礼服を片付けながら、エマウが言う。
「姫様は戦場に立つお立場ではありません。あくまで――この国の象徴であられます」
それは優しさか、檻か。
「象徴だからこそ……みんな傷つくのを見過ごせないのよ」
ミアリエルは立ち上がる。まだ震える足で、凛と背筋を伸ばして。
「許可できない」
監視もしくは説教しに戻ってきたであろう、兄の声は一閃の刃。
「今後、お前が、戻らぬ可能性のある場所へ行ってはならない」
ミアリエルは唇を噛む。
何もできない。王女であることが、こんなにも無力だなんて。
「……せめて、祈っていろ。それがお前の務めだ」
シェイルのその一言に――胸の奥で何かが崩れた。
祈るだけ?
自分の愛する国に危険が迫っていても?
そして、少女の瞳に燃え上がった炎に、気づいた者はまだいない。




