5-22
討伐隊が王都を発って、五日が経過。
定期連絡として記録されている内容は、ほぼ箇条書きで単語が連なっていた。部隊はゼリアス山脈へ向かっている――形式上は、そう記されている。だがその行間は、徐々に厳しくなる自然の牙を、淡々と告げているように思えた。
季節は冬の入口。
山脈は既に白い息を吐きはじめ、雪の層は行軍のすべてを遅らせているようだ。
執務室で報告書を読み終えた凛子は、ふっと小さく息を落とした。
「……気温低下、強風による視界不良。本日の行程――予定の半分」
簡潔な文面が、逆に過酷さを際立たせる。
皆は無事だろうか。
カトレアは。
シェイルは――。
胸あたりが、薄氷のように軋む。
凛子は机上の腕輪に触れた。シェイルが残していった、寡黙な守りの証。
「カミーヤ」
扉を叩く軽い音とともに、ローワンが姿を見せた。
「最新の報告です」
「ありがとうございます」
書類を受け取りながら尋ねた。
「ローワンさんの方に届いた報告ではどんな様子ですか?」
「……静かだそうです。魔物の出現数も、減少傾向」
「減少……?」
凛子は少し眉を寄せる。
「あれ、封印が弱まっているなら、逆に増えるんじゃ?」
もたされた知らせは、出発前に彼らが纏めていた予測を裏切っていた。
ローワンは沈黙し、思案の影を瞳に宿す。
「不気味ですね」
「ええ。嵐の前の静けさ、みたいなやつでしょうか」
叡智の塔の一室は、深い夜色の魔術光に満たされていた。
ラストゥーリャとエイゼルが、術式の反転痕を前に黙々と検証を続けている。
と、いっても主にラストゥーリャが、である。
エイゼルは魔力供給源として、その力を提供していた。
「……また、書き換えた箇所が元に戻されています」
ラストゥーリャの声は静かだが、その奥に鋭い苛立ちが潜む。
「どう考えても、術式の構造を、完全に理解している者の手口です。まるで私の癖まで読まれているようだ」
エイゼルの脳裏に、嫌な想像がよぎった。
「それって……犯人が、塔主の教え子とか……?」
「あまり考えたくはないですね。しかし――全員の行動記録は洗い出しましたし」
「じゃあ、学術庁の誰か、とかでしょうか?」
「それも、念のため再度、確認したばかりです」
部屋に、行き詰まりの温度が落ちた。
そこに軍部から、凛子とローワンが連れ立って顔を覗かせた。
「リィン」
エイゼルの声に、凛子がひらひらと手を振る。
「込み入ってます?」
「いいえ、大丈夫ですよ。報告書でしょうか?」
手を止めたラストゥーリャが、訪問者たちに、座るよう勧める。
「はい、本隊からと補給隊からの」
ローワンが状況を丁寧に整理するように説明をすると、塔主の執務室は、再び重たい沈黙に支配された。
「無理をすると視点が狭くなりますね、一度頭を白紙にしないと」
「でも……」
「休むのも、また、仕事ですよ」
「この後、蒼月亭に顔を出しに行く予定なので、ぶらぶら歩きながら行ってみます」
「あ、じゃあ俺、実家に荷物取りに行きたいし、護衛に入る。ローワンさんも行く?」
「いえ、私の本日の業務はここまでとさせていただきます。子供がそろそろ……」
ローワンは、少しだけ後ろめたそうに凛子に視線を寄こし、眼鏡の縁を押し上げる。
「生まれる予定なので……」
「それは! 帰らないと! 大事!」
時を同じくして――王宮奥宮には、怠惰な空気が沈んでいた。
ミアリエルは窓辺に腰かけ、翡翠の目を外界へと投げていた。永い檻の向こう、煌めく街路が誘う。
「……退屈」
二番目の兄は討伐隊へ。
三番目の兄は大聖堂に籠もり。
長兄も父王も政務で姿はなく――母后と甥は風邪で伏せている。
誰も自分の存在を必要としない。
誰も、扉を叩きもしない。
「いいわ。慣れてるし」
侍女が席を外した隙――ミアリエルは滑らかに立ち上がった。
有能な侍女であるエマウが感冒で休んでいることは、この上ない好機だ。
先日、嫌がらせめいた結界の穴をようやく見つけた。
誰も止めないのなら――試さない理由はない。
前回は外宮で迷子になり、すぐに見つかってしまった。
だが今日は違う。
囮となる自身の欠片を、入念に散らしてある。髪。爪。微細な皮膚の欠片までも。ミアリエルの魔力の残滓を孕んだそれらを、枕の中へ、机の抽斗へ、香水瓶へ――小さく、巧みに。
寝台下に隠していた侍女服へ着替え、炭で黒髪を汚す。指先にも煤を纏わせる。
宝物庫からひっそり盗み出した、魔力抑制の首飾りを喉元へ掛ける。
奥宮は温い。甘い。
フードを深く被り、奥宮から外宮へ。
厨房横の倉庫に紛れ、飾り気のない板戸を抜ければ――そこにあるのは通用門。夕刻のざわめきがミアリエルの耳に忍び込む。
街の息吹だ。
「……本当に、出られた」
胸が、熱を帯びて跳ねた。このような至近距離では見たことのない露店。油の匂い。人々の笑い声。自由の全てが、五感を震わせる。外套の内側、縫い付けた小袋が、硬貨の音を微かに響かせた。見知らぬ世界に対する恐怖よりも先に、愉悦が駆け抜けたその時。
「はぁ……なんで」
振り返ると、青錆色の髪の青年――エイゼルが立っていた。
ラストゥーリャの側仕えの魔法師。
これは不運か、あるいは幸運か。
「一人で……来るところじゃないでしょう、ここは」
――会えた。
街の雑踏の中、彼の姿がある。
期待と昂りで、翡翠の目がぱっと輝く。
「ただのお散歩よ。魔力は封印中」
誇らしげに首飾りを示すと、返ってきたのは失望まじりの嘆息だった。
「今の時間帯に侍女服で? 護衛は?」
「エイゼルがしてくれれば、全部解決でしょう?」
「問題しかないから!!」
青年は頭を押さえ、深く息を吐く。
「とにかく帰る。危険すぎる」
「なんで! まだ買い食いもしてないのに!」
「はいはい。行きますよ、姫様」
半ば引き戻されるように歩き出した、その背後――
傾き始めた光の中、細い影が一瞬だけ揺れた。
ミアリエルは反射的に振り向く。
何もない。
けれど、胸奥に微かなざわめきが残った。
「気のせい……よね」
◇◇◇
久しく潜らなかった蒼月亭の裏門をくぐると、甘い香草の匂いが凛子の鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃい。来てくれたのね」
リゼットが、夜の花のような微笑みで迎えた。
「エルネストさんから、お話したいって――」
「その香油、気に入ってくれたみたいね?」
凛子が思わず、うなずく。
「はい……毎晩使わせてもらってます。ぐっすりで……夢も見ないくらい」
だが、その目元に濃い影が落ちているのは隠しようがなかった。
リゼットは、咎めるように細い指で隈の辺りを軽く突く。
「身体を温めて、マッサージするともっと良いのよ?」
そして茶目っ気を忍ばせて囁かれた。
「せっかく来てくれたんだから、お風呂、使っていきなさい」
凛子は一瞬迷った。だが、リゼットが小悪魔めいた声で押す。
「浴室なら、誰にも話せない話もできるでしょう?」
――確かに。
串焼きで小腹を満たしてしまった今、帰って寝るだけなのだ。
静謐な湯殿。
湯の反射光が石床を淡く照らし、湯気が思考を解かしていく。凛子は肩まで湯に沈み、ひとつ息を吐いた。張り詰めていた心が、じわりと解けていく。
「気持ちよさそうね」
水音とともに、リゼットが湯へと滑り込む。
ふたりはしばし、言葉を捨て、ただ温度を共有した。
「ねえ、――シェイル様は元気?」
「最後の連絡までは……順調っぽいです」
「そう。なら大丈夫ね」
リゼットは湯面にそっと指を滑らせる。
「でも……待つのは辛いって顔をしてる」
図星だ、と凛子はわずかに視線を伏せた。
「まあ……それより、話したいことってなんですか?」
警戒と期待が入り混じる視線を向けたその時――リゼットのまつ毛が震え、視線が凛子の背後へと流れた。
乱暴な音とともに、浴場の扉が弾ける。
「……え?」
濡れた空間へ、男たちが雪崩れ込む。リゼットが立ち上がろうとした瞬間、薄布が投げつけられた。重たく甘い、異様に濃い香り。
「っ……!」
凛子の膝が湯に沈む。
視界が、波打つ。
遠ざかる水音の向こう――リゼットの叫び声。
それすらも霞み、黒が押し寄せる。
意識が深い井戸へと、音もなく落ち、世界は閉ざされた。
学術庁にある叡智の塔主執務室の扉が叩きつけられた。
「大変です!」
ローワンの声が、空気を凍らせる。
「カミーヤ殿が……攫われました!」
作業していた術師たちが手を止め、室内が静まり返る。
次の瞬間、ラストゥーリャが机を揺らして立ち上がる。
「詳しく」
「例の娼館で……護衛二名は薬で眠らされ、気づいた時にはすでに――」
「魔術の痕跡は?」
「ありません……物理的誘拐です」
「……なるほど」
ラストゥーリャの拳が、白くなるほど握りしめられる。
「シェイル殿下には?」
「伝令は飛ばしましたが……」
沈黙。
張りつめた均衡が、ひび割れる音がした。
凛子が攫われた。
こちらが積み重ねてきた書き換えを、敵がさらに上書きする。
術式陣の均衡は、いまや薄氷。
一歩踏み外せば――全てが崩れる。
そして、疲労困憊の顔で戻ったエイゼルは、蒼月亭に凛子を送り届けた帰りに出くわした、とんでもない拾い物を、報告しそびれたままでいるのだった。




