5-17
「リゼットさんは、怖くないんですか? おとり役」
向かい合わせで浴槽の縁に背中を当てる形で足を伸ばしていたリゼットが、なんてことの無いように即答した。
「怖いわよ。当然。でも、シェイル様が守ってくれると信じているもの」
リゼットの声は確信に満ちている。
その表情には、揺るぎない信頼が浮かんでいた。
「あの方は、いつだって約束を破らない。だから、私は信じているのよ」
凛子は押し黙った。
リゼットの言葉が、胸に刺さる。
自分には、そこまでの信頼関係がない。シェイルとの間に、確かな絆など存在しない。
「ねえ、秘書官の――リィンさん」
「はい?」
「貴女、シェイル様のこと気になってるでしょう?」
不意打ちに言われて、凛子は思わずどもってしまった。
顔が火照るのは、湯に長く使っている所為だとしても。
「えー、えーっと」
「否定しないのね」
彼女は、掌で湯を掬って、零す。
散らされている色取り取りの花弁が舞って、湯の中に沈む。
「まあ、無理もないわ。あの方は――とても美しいもの」
「……」
「でもね」
リゼットの声が、少し寂しげになった。
彼女は顎を反らして天窓を見上げる。天には星の光が瞬いている。
「あの方は、不器用なの。人を愛するのが、下手なのよ。私とあの方の関係も。今は、ただの情報屋と客」
その声に、どこか諦念が滲んでいるように見えた。
「貴女が何を望んでいるかは知らないけれど――あの方と向き合うなら、覚悟が必要よ」
「覚悟……ですか」
「彼は簡単には心を開かない。傷つくことも多いでしょう」
凛子を見つめるその濃紺の瞳は、どこまでも深かった。
「それでも、貴女は前に進める?」
凛子は少し考えて、頷いた。
「……私は、まだ、何も始めてもいません。だから、諦めるとか、そういう段階でもなくて」
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
「ふふ、正直ね」
リゼットは笑う。
その笑みには、先ほどまでの挑発的な色は消えていた。
「いいわ。その素直さ」
言葉を切って、リゼットは首を振る。
「まあ、頑張りなさい。応援はしてあげるわ」
湯上りのアルコールは流石に辞退させてもらった。
一応、これは業務の一環なのである。
浴室の状況も、偶然とはいえ、確認できたのは良かった。
見る限り、高い位置にある天窓位しか侵入経路は確保できなそうだ。しかも羽目殺しのため、物理的に壊さなければあそこからは入れないだろう。あまりにも目立ちすぎる。
遅れて戻ってきリゼットが化粧台に備え付けてある棚から、小さな瓶を取り出した。
「これ、持っていきなさい」
差し出されたのは、透明な液体が入った小瓶だった。
「香油よ。気持ちを落ち着けたい時に、手首に一滴垂らすといいわ」
「いただいて、いいんですか?」
「ええ。可愛い子への、ささやかな餞別」
リゼットは微笑む。
その表情は、これまでで一番柔らかかった。
「……ありがとうございます」
蒼月亭を出ると、凛子は大きく息を吐いた。
夜の空気が、火照った頬を冷やしてくれる。
「お疲れ様でした」
ルーファが労う。
「大丈夫でしたか? 色々大変だったみたいで」
「はい、何とか」
凛子は笑う。
「貴賓室は中央に客間、左側に浴室、右側に寝室となっていて、窓があるのは浴室の天窓。それから寝室の天窓で、両方とも羽目殺しです」
「成程、三階は貴賓室の手前に一つ、今は完全に使用されていない部屋がある。あそこは誰か常駐させた方がいいな」
石畳を踏む靴音が、静かな夜に響く。
歩きながら、凛子は考えていた。
リゼットの言葉——覚悟が必要。
確かに、その通りだ。
シェイルには自分の記憶がない。それでも、もし、前に進むには覚悟がいる。
傷ついても、拒絶されても。
自分は、そう簡単に何かを諦める正確では無い。
凛子は自室に戻ると、寝台に倒れ込んだ。蒼月亭でお風呂まで貰ってしまったし、お茶やら菓子やら色々出されて、夕飯はパスさせてもらおう。
懐から小瓶を取り出す。
透明な液体が、窓から差し込む月光を受けて、淡く光っていた。
蓋を開けると、優しい花の香りが広がる。
凛子は言われた通り、手首に一滴垂らした。
ふわりと香りが立ち上り、張り詰めていた心が、少しだけ解れていく。
◇◇◇
シェイルは執務室で報告書を読んでいた。
凛子の蒼月亭訪問について、ルーファからの詳細な報告だ。
リゼットとの会話内容も、ある程度記されている。
こちらは凛子が記録した物と、リゼットが記録した物がそれぞれあった。
「風呂に入らせてもらった――何を考えているんだアレは」
リィン・カミーヤという女。
素性不明。ラストゥーリャが身元引受人として保証している。
二つの色持ちの癖に魔力値が低い。
仕事はかなり出来る。
リゼットの記録には、凛子があえて省略した会話迄丁寧に書きつけられていた。ただの純粋な記録として。
「気になっている、か――面倒だな」
そう吐き捨てたものの、彼の胸の奥に妙な違和感がある。
まるで、何かを忘れているような。
大切な何かを、失くしてしまったような。
シェイルは首を振って、その感覚を振り払った。
考えても仕方ない。
今は、目の前の仕事に集中するだけだった。
シェイルは再び書類に目を落とした。
窓の外では、月が静かに輝いている。
夜の闇が、王宮を包んでいる。
◇◇◇
蒼月亭への定期訪問が始まって五日が経った。
凛子は隔日で、リゼットの元を訪れている。
表向きは情報収集。実際は、囮としての役割だ。
「今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」
煙管を片手に、凛子を流し見る仕草は、蠱惑的だ。
「えっと、最近変わったお客さんは?」
「相変わらず、質問が直接的ね。ついでだから、もう少し、駆け引きの練習もなさい」
「いやー、でもこれは業務ですし。駆け引きするなら相手側とですよね、私もリゼットさんも一応、おとりという立ち位置同じなので」
凛子は、はきはきとした口調で首を傾げる。
リゼットは、この何日かで、凛子の精神力の強さに、驚かされていた。
彼女から、どこか探るような、穿ったような、迷うような感情が見えていたのは、二回目の訪問時までだった。それ以降は、淡々と、あくまでも業務として割り切っているように見える。
数多の思惑が張り巡らされている娼館という場を、仮初の住処としているリゼットからすると、何となく物足りなさも感じる。シェイルにも同様な感想を述べることが出来ることに気が付き、諦めたように煙管の灰を落とした。
「一つ気になることがあるの」
「何ですか?」
「昨夜、また例の男が来たわ」
「黒髪の女を探してる!?」
凛子は身を乗り出す。
「ええ。でも今回は、もっと具体的だった」
未だに勿体つけて言おうとしている自分に、軽く苦笑し続けた。
「王宮に出入りしている女、って言ってたわ」
「それって……」
「おそらく、貴女のことよ」
リゼットが声を潜め、凛子に顔を近づける。
「その男、今夜また来るかもしれないって言ってた」
「今夜!?」
「ええ。だから、今日は早めに報告した方がいいわ」
「分かりました。すぐに報告します」
「気をつけてね」
リゼットは凛子の手を取る。
「貴女、意外とあの人たち……あの人の、大切な人みたいだから」
「え?」
「シェイル様がね、貴女のことを心配してるのよ」
リゼットは意味深に笑う。
「最初にこのお部屋で二刻過ごした日の事、私、叱られたのよ」
「あ……私も怒られましたよ……何で呑気に風呂に入ってるんだって」
「ふふふ。さあ、早く戻りなさい」




