5-16
翌朝、凛子は昨夜の走り込みの疲れが残る体を引きずって、訓練場に向かった。
「遅刻だ」
カトレアの目線も声も、一段と冷たい。
「すみません!」
「昨夜、自主的に走り込みをしたそうだな」
「え、何で――」
「見張りの者が報告してきた」
呆れたように首を振られる。
「馬鹿者。体を壊したら元も子もない。休息も訓練のうちだ。今日は軽めにする。基本動作の反復だけだ」
「はい……」
カトレアに言われると、かなり堪えることに、凛子は気が付いた。
周囲に、あまり自分を叱りつける同性が居なかったせいだろうか。
スクワットの類であろう態勢で、何度も膝と腰を落としているうちに、またもや色々な考えは雲散して消えていった。
朝食がおいしく胃に消えてゆく。
精神的に悩まされることがあっても、胃腸だけは丈夫で良かったと凛子は心底思った。
昼前、執務室に入ると、シェイルとウェントワースが何やら話し込んでいた。
「失礼します」
凛子の声に、二人が揃って顔を上げる。
「カミーヤ、丁度良い。こちらに来い。ウェントワースから話は聞いた」
主語のない言葉に一瞬だけ首を傾げたが、昨日ウェントワースから提案された事案に難なく辿り着いた。
「蒼月亭への定期訪問、了承する。ただし、条件がある」
「条件、ですか?」
「護衛は常時二名。訪問時間は日没前。滞在時間は最長二刻」
シェイルは指を折りながら続ける。
「それと、リゼットとの会話内容は全て記録を取る」
「分かりました」
「初回は今夜だ。ルーファとダリウスが同行する」
「今夜……ですか」
「問題あるか?」
「いえ、ありません」
笑顔を作り上げ、返事をすると、シェイルの視線は凛子から外れ、ウェントワースとの会話に戻っていった。
◇◇◇
石畳の道は、昼間とは違う表情を見せていた。
軒先に灯された燭台が、通りをほのかに照らしている。
行き交う人々の装いも、どこか夜の街に溶け込むような色合いだ。
「リィン殿、緊張してますね」
ルーファが優しく声をかけてくる。
「え、そんなに分かります?」
「顔に出てますよ」
ダリウスが笑う。
「大丈夫だ。俺たちも居る」
「護衛とか、私ほんっとやったことないんで……あー、取材と思えばいけるのかな」
「取材とは?」
「んー、調書取りみたいな? お話を色々聞く感じです」
蒼月亭の前に着くと、ちょうど扉が開いたところだった。
「あら、いらっしゃい」
リゼットが立っている。今日は濃い紫のドレスを纏い、髪を片側に流していた。
耳元では、小さな銀の飾りが揺れている。
「こんばんは」
凛子は努めて明るく挨拶する。
「まあ、秘書官殿まで、わざわざ。今日はシェイル様はご一緒ではないのね」
「はい。今日は護衛の配置確認で参りました」
「軍本部のルーファです」
「ダリウスです」
「ふふ、三人揃ってとっても可愛いわね」
リゼットは興味深そうに若き騎士を視て、凛子を見る。
濃紺の瞳が、じっと観察しているようだった。
「それなら、色々とお話ししましょう。どうぞ、上がって」
店内は相変わらず薄暗く、甘い香りが漂っている。
エントランスのソファには、数名の客と女性達が寄り添っていた。
その中の一人が、凛子達に気づいて軽く会釈する。
階段を上がる。一階から二階へ。
靴音が絨毯に吸い込まれていく。二階の廊下からは、グラスの触れ合う音や、低い笑い声が聞こえてきた。ルーファがここでエルネストの待機している部屋へと向かった。
更に三階へ。
ダリウスが扉前で待機を宣言し、個室に入ったのは凛子だけだった。
前回来た時と同じ部屋だ。
象牙色の長椅子と、深緑のソファ。小さなテーブルの上には、今日は白磁の茶器が用意されていた。銀の燭台には新しい蝋燭が立てられ、柔らかな光を放っている。
壁際の棚に並ぶ酒瓶が、燭台の光を反射してきらめく。
「折角だから、お茶をどうぞ」
白磁のカップから、花の香りが立ち上った。
所謂、花茶だろうか。ゆっくりと蕾が開く様は、いつか見た事がある。ここではない世界で。
「ありがとうございます」
緊張しながら口にした茶は、ほのかに甘く、舌に残る余韻が心地よい。
「それで? 護衛の配置確認とは言っても、もう既に始まっているでしょう?」
リゼットが微笑みながら、ソファに優雅に腰を下ろし、足を組んだ。
「あの……はい。実際に店内で過ごされる方たちと、同じ時間滞在するように、という命令で……今日はリゼットさんのお客さん代わりとして、私がお時間を頂戴する事になりました」
「なるほどね。外に居るあの子たちでも良かったのに」
リゼットは煙管を取り出すと、火を点けた。
象牙細工の煙管から、紫煙が立ち上る。
「じゃあ、私達、女同士で秘密のお話でもする?」
「え? あ、でも全部記録する事になってるので、他愛もない話題しか出来ないかも……です」
「そんな、つまらないわ」
リゼットは煙を吐き出す。
その煙が、燭台の炎に揺らめいて消えていった。
「こんなのどう? 私とシェイル様がどんな時間を、かつて過ごした、とか」
凛子は言葉に詰まる。
カップを持つ手が、わずかに震えた。
いや、それは色々とあるのだろうが、別に当人からわざわざ聞きたいとは思わない。それなりに想像もつく。この場所がどのような目的で経営されているのか。アラサーに足をかけている自分だって、それなりの経験はある。
黙り込んでしまった凛子を眺め、リゼットは面白そうに笑う。
「私も退屈していたところだし」
彼女は煙管をテーブルの端に置くと、凛子をじっと見つめた。
「お風呂でも入っていく? 専用浴室が備え付けてあるのよ。貴賓室だからこの部屋。それに浴槽もとっても広いの」
「お風呂……」
唐突に降られた話題だが、もしそれが足を伸ばせるくらい広い浴槽なら、実に魅力的な提案だった。
二刻もの時間を、会話だけでもたせる自信が無い。シータ家には浴室も浴槽もついていたので、入浴に関する不満は無かったのだが、軍官舎の共同浴室は、本当に、身体を清めるための最低限の設備しか無く、当然足を伸ばして浸かれる浴槽も無かった。
浴室の片隅に、ドラム式洗濯機のようなサイズの四角い入れ物が有り、そこに溜めてある湯を、桶で掬って使用するという、実に原始的な物なのである。
「やだ、本気にした? 可愛いわね」
「――あ、つい」
「素直なのね。とっても」
リゼットが小首を傾げると銀の飾りが、かすかな音を立てた。
「でもそうね、どうせすることも無いし、お風呂入っちゃいましょ」
するりと立ち上がり、ドレスの肩紐を落とす。白く滑らかな肌は、仄かな明かりの中でも、手入れされているのが良く分かる。
「こっちよ」
「え、本気ですか!?」
「ずっと向かい合って、お茶飲み続けるのも疲れるじゃない」
言いながら、隣室の扉を開くと、湯が常に溜められているのか、白い湯気がすっと帯を引くように室内に流れ込んできた。
そんな訳で、想像以上に広い浴槽に肩まで身体を沈め、向かい合っているという状況に、なってしまった。
リゼットに、高価そうな石鹸水で、髪まで丁寧に洗ってもらい、完全に寛いでいる自分に、凛子は一応反省はしている。これで湯船につかりながら日本酒といきたいところだが、室内での会話は全て記録する事となっている為、滅茶苦茶怒られそうだな、と額に落ちてくる雫を手で払った。




