5-15
翌朝、凛子は早めに起きて訓練場に向かった。
カトレアは既に待っていた。
この世界の人間は総じて早起きである。
昨晩は、少しカトレアの部屋で話し込んでしまい、深夜を大きく回ってから自室に戻ったのだが、またもや夢見が悪く、眠りが浅かった凛子は、身体を起き上がらせるのに大変苦労をした。
というのも、この勇ましい女騎士の部屋を始めて訪問した凛子は、その部屋の様子にかなりの衝撃を受けたからだ。
かつて凛子が暮らしていた汚部屋とはまた違う、ある種の人間を拒絶するかのようなインテリアだったのだ。
一言で言うとごちゃごちゃしている。兎も角物が多い。
とはいえ、片付けられていないわけではなく、所せましと並べられてあるファンシーグッズに、ついつい興味本位で質問を繰り返したところ、それらすべてがカトレアお手製だという。
手乗りサイズの縫いぐるみも、ベッドにかけられているスプレッドも。
窓辺に並ぶ飾り花も。
本人曰く細かい作業をすることによって集中力を高め、また同時にそれらの作成は、彼女にとって癒しでもあるそうだ。
裁縫なんて家庭科でしか習ったことがないものの、一応前職ではファッション雑誌に携わっていた。凛子の聞きかじった知識はカトレアの創作意欲を一層に書き立てる事となり、気が付いた時にはかぎ針を手にしており、基本の作り目作成から特訓させられていた。
「遅い」
「えーん、すみません!」
「走り込みから始めるぞ。訓練場を十周」
「じゅ、十周!?」
「文句を言うな。さあ、走れ」
容赦ない指示に、凛子はともかく走り出した。
朝の冷たい空気が、肺に入り込んでくる。
体が徐々に温まり、汗が滲んでくる。
走りながら、凛子はふと考えた。
昼からで良いと言われたのは、今日から始まる訓練があるからだったのかもしれない――。
なんとか、十周を走り終えた凛子は、訓練場の端で膝に手をついた。吐きそうだ。息が荒く、汗が滴り落ちる。
「休憩は三十数えるまで。その後、基本動作に入る」
カトレアは涼しい顔で腕を組んでいる。
「さ、三十って……」
「二十九、二十八、二十七」
「ちょ、待って!」
「待たない。二十六、二十五」
凛子は必死に呼吸を整えながら、見様見真似で身体を動かし始めた。
体力には自信があった方だが、それは現代日本での話。
こちらの世界に来てから、確かに歩く機会は増えたものの、こんな本格的な運動は久しぶりだ。
「十、九、八」
「ま、待ってくださ――」
「さあ、立て」
間髪入れず声が飛ばされ、容赦なく立たされる。
「まずは、構え方から教える。足は肩幅に開いて、膝を軽く曲げる」
カトレアが実演する。
「重心は腰に。背筋は伸ばす。そして――」
すっと、しなやかな腕が凛子の首元に伸びる。
「っ!」
凛子は反射的に身を引いた。
「良い反応だ。だが、それだけでは不十分」
再び腕が伸ばされると同時に足元が掬われる。
「うわっ!」
当然、重力に逆らえず凛子は派手に転倒した。
「痛っ……」
「立て。もう一度」
カトレアは、いっそ優雅に手を差し伸べる。
「護身術の基本は、相手の動きを読むことだ。そして、攻撃を避けること。お前には戦闘能力はない。ならば、逃げる技術を磨くしかない」
「逃げる……技術」
「ああ。相手の隙を突いて逃げる。それが、お前の生き残る道だ」
言葉は厳しいが、的確だった。
「もう一度、構えろ」
凛子は立ち上がり、再び構える。
攻撃を避けようと意識して、反対側から転がされる。
立ち上がる。
何度も何度も繰り返す。
「いいぞ。だんだん動きが良くなってきた」
そんな言葉に、思わず笑みがこぼれた。
「本当ですか?」
「ああ。お前は、飲み込みが早い」
「舞踏か何か、習っていたのか?」
「いや特に……あ、学生時代にチアリーディングってやつやってました。もう八年位前だけど」
「なるほど」
判ったような判らないような顔に、凛子は音楽に合わせて色んな動作する感じのやつです、と説明を加えると、納得したように頷かれた。
「今日はここまでだ。昼から出勤なんだろう? 汗を流してこい」
「はい! ありがとうございました!」
「明日も、同じ時間だ。遅れるなよ」
浴室で汗を流しながら、凛子はぼんやりと考えていた。
カトレアの言う通り、体を動かすと余計なことを考えずに済む。そう、訓練中は、シェイルのことも、リゼットのことも、頭から消えていた。
「これは……まあアリかな。若干スポ根だけど」
凛子は髪を洗いながら、小さく笑う。
仕事中はともかく仕事に専念。自主訓練的な感じでランニングでもしてみようか。前を向いて、できることをやるしかない。
着替えを済ませ、軍服に身を包む。
鏡に映る自分は、昨日よりも少しだけ凛々しく見えた。
◇◇◇
執務室に入ると、シェイルは既に机に向かっていた。
「おはようございます」
シェイルは書類から目を離さない。
「訓練を受けてきたそうだな」
「え? もうご存知なんですか?」
「カトレアから報告があった」
そういって漸く青灰の瞳が凛子に向けられた。
「飲み込みが早いと褒めていたぞ」
「そ、そうなんですか?」
純粋に、他人から評価されるのは、嬉しい。
「今後も続けろ。随行任務の際、最低限の護身術は必要だ」
「はい!」
元気よく答える凛子に、シェイルは僅かに目を細めた。
「……元気だな」
「朝から体を動かすと、気持ちいいですね」
向けられた笑顔に何かを返そうとし、シェイルは難しい顔を作り上げた。
「では業務を始めろ。討伐隊の物資リスト作成から」
「承知しました」
物資リスト。
人員百名規模、期間二週間。
必要な食糧、水、武器、魔術具、医療品——。
膨大な量だが、凛子は黙々と作業を進める。
時折、シェイルと確認の為、二言三言言葉を交わすが、淡々としたものだ。
「医療用魔法薬の量が不足している」
「あ、すみません。修正します」
「それから、予備の武器も追加」
「はい」
指摘は的確で、凛子は学ぶことが多かった。
ラストゥーリャの元でお使いや資料整理に明け暮れていた時は勝手が違う。意見を丁寧に聞き、思考し、提案する。
昼を過ぎ、午後になっても作業は続いていた。
「そろそろ休憩だな」
シェイルの声に、凛子は顔を上げる。
「え? でも、まだ終わって——」
「休憩も仕事の範疇」
と、言った本人は、立ち上がって資料室へ向かう。
「茶を淹れる。お前も来い」
今までに無い展開に、凛子は慌てて後を追った。
資料室の窓は、連日続く数多の資料の出し入れで空気が悪くなっているため、開け放たれていた。簡素なカーテンが揺れ、だいぶ冷たくなってきた風が室内へと流れ込んでいた。
窓の外には、訓練場が見え、何人かの若手騎士が剣の稽古をしている。
慣れた手つきでお茶を淹れるシェイルの姿は、何というか、凛子にとっては意外だった。何もかもを侍女任せにしていたというあの頃のお坊ちゃん然とした面影は無い。とそこまで考え、やめた。残影に重ねられるのを、シェイルは厭っている。
沈黙を持て余し、ただただカップの縁を指でなぞる。
それでも、茶を飲みながら、横顔を盗み見る事を止められない。
整った顔立ちは彫刻の様。青灰色の瞳はどこか遠くを見ているようだ。
「カミーヤ」
凛子は慌てて視線を外す。
「昨夜、リゼットから情報を得た。黒い髪の女を探している男が娼館に来たと」
「それは……」
鋭い視線が凛子を射抜いた。
「今後、一人での外出は禁止だ。必ず誰かと行動しろ」
「はい」
「夜間の外出も控えろ。特に、下弦通りのような場所には近づくな」
「分かりました」
「正直、お前の素性は未だ不明な点が多い」
その声は、どこか探るようだ。
「だが、ラストゥーリャが保証している以上、今のところは信用する。また職務に忠実であれという態度は評価する」
「……はい」
報告書のように淡々と告げられる言葉に、胸が締め付けられる。
「お前が何者であろうと、俺の部下である以上、お前に対する評価は俺に対する評価でもある。それだけは理解しておけ」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
一気に茶を飲み干したシェイルは立ち上がった。
「休憩は終わりだ。戻るぞ」
シェイルの言葉はどこまでも業務の延長上にあるが、少なくともあの日、帰還のための術が暴発した時よりかは、進展したのかもしれない。
何と言っても自分は、彼の寝所に忍び込んだ暗殺者と思われていたのだから。
最下層にあった評価が、一般的なレベルまで引き上がったのは行幸である。
その日の夕方、凛子はシェイルの副官であるウェントワースに呼ばれた。
「リィン殿、少しお時間よろしいかな?」
「はい、何でしょう?」
「護衛について、確認したいことがあってな」
その言葉に、さっと目的の書類を取り出す。
「本日はエルネストさんが主となり、配置を固めます」
「ええ。それは把握しているよ」
ウェントワースはおっとりと微笑む。
「実は、もう一名追加したい」
「え?」
「君だよ」
凛子は目を丸くする。
「私……ですか?」
「ええ。君にも蒼月亭に定期的に顔を出してもらいたい」
「で、でも、私は秘書官で——」
「だからこそ」
微笑んでいた男は、なんてことのないような調子で続けた。
「リィン殿、君も標的の一人。ならば、いっそのこと囮になってくれないか?」
「囮……ですか」
「もちろん、護衛は万全に」
確かに提案は理に適っている。
「閣下は、何と?」
「まずは、君の意思を確認したくてね」
じっと探られるように見つめられ、凛子は押し黙った。
「お願い、できるかな?」
リゼットと会うのは、正直辛い。
それでも、事件解決が早まるならば。その方が良いのではないだろうか。
「――もちろん、私で良ければ、協力します」
「助かるよ。では、作戦の草案を閣下と相談してみよう」
胸の中が、複雑な感情で渦巻いていた。
リゼットとまた顔を会わせることになるのかもしれない。自分の知らない十四年の歳月の中で、何かがあった二人。
持て余している感情を彼方に押しやろうとしているのに。
凛子は、気合を入れるように両手で頬を叩き「ちょっと走ってこよ」と、足を踏み出した。




