5-12
蒼月亭の扉を開けると、甘い香りが鼻をついた。
香料と酒と、人の体温が混ざり合った、独特の匂い。
店内は薄暗く、古めかしい照明が柔らかな光を落としている。天井からは深紅の布が垂れ下がり、壁際には金色の燭台が並んでいた。奥の方からは、くぐもった笑い声と、低い音楽が漂ってくる。床には深い色合いの絨毯が敷かれ、足音を吸い込んでいた。
エントランスホールの左右には、ゆったりとしたソファが配置されている。そこには数人の客と、色鮮やかな衣装を纏った女性が寄り添っていた。彼女は客の言葉に微笑みかけ、時折グラスを傾けている。その様子は、まるで洗練された舞台を見ているようだった。
「いらっしゃいませ」
艶やかな声が響く。
入口には、深紅のドレスを纏った女性が立っていた。年の頃は三十代半ば位だろうか。豊かな黒髪を編み上げ、濃紺の瞳が妖艶に細められている。
「まあ、シェイル様、お待ちしておりました」
女性——リゼットは、流れるような動作でシェイルに近づく。
「今回のおとないは、間が明かなくてとても嬉しいですわ」
その声音は、蜜のように甘い。
凛子は、店内の空気感にもリゼット本人にも圧倒され、思わず一歩後ろに下がる。
視界の端では、別の女性が階段を上がっていく姿が見えた。その後ろ姿を追う男性客の表情には、期待と欲望が入り混じっている。凛子は思わず視線を逸らした。
「リゼット。こちらは俺の秘書官だ。リィン・カミーヤ」
シェイルの紹介に、リゼットは、はじめて気が付いたといった表情を浮かべ、凛子に視線を向けた。
「まあ……随分とお若い」
その瞳が、値踏みするように凛子を見つめる。
「は、初めまして。リィン・カミーヤと申します」
凛子は慌てて一礼する。
「ふふ、可愛らしい方ですこと。シェイル様、好みが変わったのかしら」
「仕事の話で、来ている」
シェイルが冷たく遮る。
「ええ、存じ上げております。お二方こちらへ」
階段へと向かうその歩き方は、計算され尽くしたように優雅だ。
二階へ上がると、廊下の両脇に扉が並んでいる。そのいくつかの部屋からは、くぐもった笑い声や、囁くような会話が漏れ聞こえてきた。
壁には風景画や、抽象的な絵画が飾られている。それらは妙に艶めかしい雰囲気を醸し出していた。
更に三階へ。ここは二階よりも静かで、廊下の絨毯も一層厚い。個室が少なく、よりプライベートな空間であることが窺えた。
凛子達は個室に案内された。部屋は予想以上に広く、豪華な調度品が並んでいた。
華美ではあるものの、室内を構成している色味は優しい風合いだった。
中央には象牙色の長椅子と、その向かいに深緑のソファが配置されている。小さなテーブルには、銀の燭台と水晶のグラスが置かれていた。壁際の棚には、様々な酒瓶が並び、その奥には鏡がはめ込まれている。鏡は室内をより広く見せ、同時に妖しい雰囲気を演出していた。
「そこ、お掛けになってね」
シェイルが長椅子に腰を下ろすと、リゼットは自然な動作でその隣に座った。
体を寄せ、シェイルの腕に手を添える。手入れされた細い指先が、男の腕を滑る。
「それで? この私を囮にするというお話、詳しく聞かせていただけますか」
凛子は向かいに腰かけ、その光景を見つめていた。
シェイルは、特にリゼットの仕草を避けようとはしていない。
それどころか——その表情は、自分の前で見せるものとは違って、柔らかく見えた。
「話は昨夜した通りだ。お前を狙わせる。現れた者を捉える」
「とっても、危険なお仕事ですわね」
「無論、護衛込みだ。カミ―ヤ、説明を」
不意に、シェイルに顎で示された凛子は、背筋を伸ばした。
「は、はい。護衛は三名。交代で二十四時間、店内と周辺を警護させていただきます。表向きは、常連客として——」
説明しながら、何度もリゼットの指先に、視線を向けてしまう。
リゼットの手は、まだシェイルの腕に添えられたままだ。
凛子の説明を聞きながら、時折シェイルは口を挟み、確認するようにリゼットに視線を向けていた。
その目には、冷徹さとは違うものが浮かんでいる。
「……以上です」
説明を終えた凛子に、リゼットが白い手を打ち鳴らした。
「まあ、完璧ですわ。さすがシェイル様の秘書官のお嬢さん。ね、シェイル様?」
「ああ」
短く答えたシェイルは、リゼットの頭に手を置いた。
まるで、愛しい者を撫でるように。
凛子の胸が、きゅっと締め付けられる。
なんでこんな場所でこのような光景を見せつけられる羽目になったのだ。
シェイルへの思いを自覚した途端の仕打ちとしては、割と酷い。
「無理はするな。危険だと思ったら、すぐに護衛を呼べ」
「あら、ご心配してくださるの?」
「当然だろう」
シェイルの手が、リゼットの髪を優しく梳いていく。
女はうっとりとした表情で目を細める。
「お前は、俺の大切な情報源だからな」
「情報源……それだけ? もっと違う関係だったと思いますけれど」
「今は、仕事だ」
「つれないのね」
リゼットは拗ねたように笑うと、ようやくシェイルから離れた。
「でも、分かりましたわ。お受けします、この仕事」
「報酬は約束通りだ」
「ええ。それと——」
リゼットは凛子を見る。
「秘書官のお嬢さん、貴女もたまには息抜きにいらっしゃいな。うちには良い子が揃っていますわよ。男の子もいるのよ。可愛い顔した、器用な子が」
「い、いえ、結構です。間に合ってます!」
必死に笑顔を作る、両手を大きく振った。
「そう? 残念」
◇◇◇
店を出ると、凛子は大きく息を吐いた。
濃密な甘い香りが体中に浸み込んで、頭の奥がしびれているような気がする。
「明日、三名に説明をする前に、もう一度配置を見直せ」
不意に落とされたシェイルの声に、凛子は顔を上げる。
「え? 何か問題が?」
「先ほどの部屋は死角になる。廊下突き当りにある窓からの侵入経路を考慮していない」
シェイルの指摘は的確だった。
「……はい。修正します」
「それから」
シェイルは立ち止まり、凛子を見下ろすと、言いかけてた言葉を飲み込んだ。
「いや……以上だ」
「……はい」
「仕事に集中してくれ。俺はお前の能力に関して、それなりに認めている」
ぽん、と軽く頭を叩かれる。
凛子は弾かれた様に顔を上げた。
そこにある表情は、いつも通り無愛想だった。
けれど、一瞬だけ触れたその手の温もりだけが——妙に優しく感じられた。
軍官舎に戻ると、凛子は寝台に倒れ込んだ。
リゼットの姿が、脳裏に焼き付いている。
あの艶やかな黒髪。濃紺の瞳。計算され尽くした仕草。そして——シェイルの、あの表情。
枕に顔を埋める。嫉妬している自分が、情けなかった。
シェイルは、凛子に関するあらゆる記憶を失っている。週末を共にした、言わば共犯者的な特別な関係は、彼の中には存在しない。
かつて、二日間だけ共に過ごした彼を、確かにあの時も、好ましいとは思っていた。ただ、それが恋と呼べる類のものではないと断言出来る。何故ならば、再会した後も、自分は元の世界へ戻ることを一番に望んでいたからだ。
それなのに。
この感情は、今更過ぎる。
同じ人なのに。
違う人なのに。
「あー何も考えたくないな。飲みたい……」
窓の外では、街の灯りが瞬いている。
あの中の一つが、蒼月亭の灯りなのだろうと思うと、なんとなく居た堪れない気持ちになった。




