5-11
翌朝、凛子は寝不足のまま執務室に向かう羽目になった。
鏡に映った自分の顔は酷いもので、目の下には薄く隈ができている。
こんな顔色をしているのは校了前くらいだったか。デザイナーとデータ納品まで、リアルタイムで誤字の修正にあたってたのをふと思い出す。
「ひっどい顔」
就業前から陰鬱な気持ちはどんよりと増す。
執務室の扉を開けると、既にシェイルが机に向かっていた。
その表情はいつも通り無愛想で、昨夜の様子を窺わせるものは何もない。
「遅い」
開口一番、冷たい声が飛んでくる。
「申し訳ありません」
なんだかこの挨拶は毎度恒例になっているな、とどうでもいい感想を心の中で呟きながら、凛子は自席に向かった。
「リゼットは協力を承諾した」
淡々とした報告が背中へ飛んでくる。
「報酬は金貨五百枚。それと、事が済んだ後の店の改装費用も王国が負担する」
凛子は書類に目を落としたまま、なんと答えて良いものなのか考えながら、シェイルの言葉をそのまま記録しながら「はい」とだけ答えた。
「今週中に、彼女及び周辺に護衛を付ける予定だ。表向きは常連客という形だ。お前は護衛の人選と配置を考えろ。出来るな?」
「え!? 私が、ですか?」
「店は下弦通りの蒼月亭。三階建ての石造り。客室は十二。従業員は女が八名、用心棒が四名。詳細は記載通り」
シェイルは一枚の書を凛子の机に置く。
「店の見取り図、従業員の名簿。それから、常連客のリストだ」
几帳面な文字で書かれた情報は、驚くほど詳細だった。
従業員一人一人の年齢、容姿、特技まで記されている。
「……閣下は、この店に詳しいんですね」
言ってから、凛子はとてつもなく後悔した。
昨夜あのような突き放された方をしたばかりだというのに。
今のは、非常に恣意的で、凛子の柄ではない。
シェイルの青灰色の瞳に、すぐさま射抜かれる。
「護衛の人選は今日中に。明日には配置を始める。遅れは許さん」
溜息とともに吐き捨てられた声は、有無を言わさぬ冷たさを帯びていた。
「了解です!!」
凛子は何となくこの場を逃げるように資料を抱えて、席を立った。
◇◇◇
軍本部の詰所で、凛子は騎士たちの名簿を恨みがましそうに睨みつけている。
向かいには同僚という立ち位置にあたるローワンが凛子と似たような表情で、難しい顔をしていた。
護衛任務に適した人材——戦闘能力はもちろん、娼館という場所柄、目立たず、かつ機転の利く者。
「ローワンさん、娼館にいても大丈夫そうな人って誰か心当たりあります?」
凛子の言葉に珍しくローワンが自信なさそうに眼鏡の縁に手をかけた。
「いいえ……私は、ああいった所に出入りした事がございませんので。妻一筋です」
「素敵ですね!」
二人の間で交わされる話題としては、かなり新鮮な内容である。
軍の方に任官して以来、日々鬱々とした気持ちが積み重なっている凛子は、思わず現実逃避するように遠い目をした。
「新婚さんですもんねえ」
「――な、誰がそれを」
「カトレアさんです」
「……」
「おや、秘書官同士、仲良くなれたのかな」
柔らかな声に顔を上げると、ウェントワースが穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「ウェントワース様! 違います! 私は職場で馴れ合いなど!」
「そのように朝からわめくのはやめなさい」
相変わらず優雅な佇まいである。
凛子は思わず、縋るように見つめた。
「ウェントワース様、実は」
「護衛の人選? よろしければ、手伝おう」と言いながら、丁寧に椅子を引いて腰を下ろすと、両手を組んで顎を乗せた。
「娼館の護衛となあると、なかなか難しい選択を迫られるねえ。いかにも騎士然とした方では、かえって目立ってしまう」
「そうなんです。でも、それなりに戦闘能力も必要で……」
「その通り」
ゆっくりと名簿をめくる指先は、繊細さとはかけ離れた、武人のものである事に凛子は気が付いた。将軍の右腕なのだから、それもそうだ。学術庁と軍部とでは、行き交う人間そのものの種類がまるで真反対である。
「それでしたら、この三名などいかがかな。ルーファ、ダリウス、それからエルネスト」
凛子は示された名前を見る。
「えーっとルーファさんは、確か王都支部の……」
「彼は王都出身、ここの地理に明るく、庶民の装いも自然に馴染ませることができる。それに——女性への接し方が丁寧でとても良いね。娼館の従業員の方々とも、きっと良好な関係を築ける」
「なるほど……」
微妙な間に、なんとなく居心地が悪い。
「ダリウスは傭兵の出身で少々言葉遣いは荒っぽいのが、腕は確かだな。酒場での揉め事の仲裁なども手馴れている」
「エルネストさんは?」
「彼はまだ若いが、観察力に優れた青年だね。それに、魔力の気配を感知する能力を持っている。もし犯人が魔術師なら、その存在にいち早く気づけるかもしれない。なお、個人的なお付き合いをするなら、エルネストが適任。と言っておこう」
ウェントワースの説明は丁寧で分かりやすく、助かったのだが、護衛の人選だけではなく、まるで誰かを紹介してもらうような会話に、内心で汗を掻いた。皆、噂話が好きである。
「ありがとうございます。この三名で進めてみます」
「ええ、それがよろしい。それと——」
ウェントワースは少し声のトーンを落とす。
「カミ―ヤ殿、昨夜はあまり休めなかったかな?」
凛子は思わず目を見開く。
「顔色ですぐわかる。無理はほどほどに」
「……はい」
「閣下は確かに厳しい方だけれど、決して理不尽ではないからね。貴女のことも、きちんと見ておられる、あまり思い詰めないように」
そこで言葉を区切ったウェントワースは少し戸惑うように続けた。
「閣下とリゼット嬢の関係。あれは純粋に、情報の取引だから」
凛子は息を呑む。
「私……そんな風に見えましたか?」
ウェントワースは優しく微笑む。
「余計なことを言ってしまったな。どうか忘れてくれ」
そう言って、優雅に一礼して去っていった。
短時間のやり取りで、精神的にもとても疲れた気がする。
凛子は、名簿を見なおし、ローワンとも話し合って、推薦された三人を護衛として提案する事を決めた。
シェイルとリゼットの関係。
それが純粋に情報の取引だとしても——何度も通っているということは。
その日の夕方、凛子は護衛の配置計画提案書をシェイルに提出した。
「ルーファ、ダリウス、エルネストの三名。交代で二十四時間体制で警護に当たります。配置図も作りました。各自の持ち場と、緊急時の連絡方法も記載してあります。またこれらの作成にあたってウェントワース様とローワン殿のご協力も仰ぎました。私はまだ軍を構成している人員に明るくないので」
「構わん、それが最適な行動だと思う。明日、三名に直接説明しておくように、それとお前も一度、店を見ておけ」
「え?」
「護衛の配置を考えたのなら、実際の現場を見ておく必要がある。今夜、俺と一緒に来い」
「ここここ、今夜……ですか?」
「ああ。七の刻に官舎西門前で軍服は目立つから私服で」
資料室の扉を開けたシェイルの背中が中に消えていくのを、呆然と見つめ立ち尽くす。
「はあ…………つかれる」
◇◇◇
以前仕立てた私服を着て、凛子は立っていた。
薄手のダブルボタンのコートに、シンプルなワンピース。
少し伸びつつある髪は、気を抜くとはねてしまうため、両サイドとも耳の後ろで留めている。
シェイルの声に振り返ると、彼も軍服ではなく、黒い外套を纏っていた。
「行くぞ」
二人並んで、王宮を後にする。
徒歩で行くのだろうか。
任務とは云え、目立ってしまうと困るから、お忍びという形なのだとは思うのだが。何も王宮から歩いていかなくても、と凛子は少し考え、だが、そのまま黙っていた。
夜の街は、昼とは違った表情を見せていた。
灯りに照らされた石畳。行き交う人々の笑い声。
凛子は横を歩くシェイルを盗み見る。
外套に包まれたその姿は、王宮で見る時よりも——どこか、柔らかく見えた。
先日足を伸ばした星霜通りを行き過ぎ、やがて、二人は下弦通りに入った。
夜の歓楽街は、賑やかだ。
酒場からは笑い声が漏れ、娼館の窓には艶やかな灯りが揺れている。
食欲をそそる匂いとは違う、甘く思考を惑わすような香りだ。
目的地は、三階建ての立派な石造りの建物。
入口には、蒼い月を模した金属製の看板が掲げられている。
蒼月亭——。
なれた手付きで、入り口のベルを鳴らすシェイルの後に続いた。




