5-10
半刻後、ウェントワースとローワンが到着し、凛子は二人を資料室へ案内した。
扉の向こうには、既にラストゥーリャがいた。
漆黒のローブの裾が床に揺れ、地図に貼られた印をじっと見据えている。
「トゥーリャさん」
凛子の声に、ラストゥーリャは振り返った。
「リィン……何だかお久しぶりですね」
その闇色の瞳には、僅かな安堵の色が浮かんでいる。
「これは、芒星の術式。封印を解くための古代魔術です。通常、このような大規模な紋様術式を発動させるには、膨大な魔力と時間、そして高度な知識が必要です」
「ということは、犯人は魔術に詳しい人物なのだろうか?」
ウェントワースの問いにラストゥーリャは、考え込むように額に指先を押しあてた。
「恐らく、とはいえ、名のある術師なら我々も把握しています。少なくとも、学術庁下か聖王庁下の関係者……在野にこのような術式を展開できる人間がもし居るとすれば……例えば隣国から紛れ込んでいたとしたら、把握出来ませんが」
凛子の背を、氷が撫でていくようだった。
「でも……そんな人が、どうして封印を解こうとするんですか?」
「それは、私にも判りません。禁忌というものに焦がれる一定の層はいるのは確かです。ですが我々魔術師は、自制心を持って、魔術と相対しているのが大半です。他国の者なら単純に侵略の一つでしょうか。イズラルは魔術を忌避しているから考えにくいですが」
ラストゥーリャの声は低い。
「ただ、一つ言えるのは——犯人は、相当の覚悟を持っているということです。自分の命さえ顧みず、何かを成し遂げようとしている。恐らく、この規模の術を発動させる為には、術式の基幹に発動者本人が居なければいけませんからね」
執務室の扉が開く音がして、二人は顔を上げた。
「ラストゥーリャ、来ていたか」
「状況は把握しました」
「陣の完成まで、あとどのくらいの猶予が?」
「最後の生贄が捧げられれば、発動可能となる、かなり危うい状況ですね」
「では、時間はあまりないな。――少し足止めをしたい。トゥーリャ。術式の一部を書き換えられるか? 仕かけた者に気が付かれないよう。ほんの少しの綻びで良い。その間、魔物討伐も含め、今月末からゼリアス山岳地帯への大規模な調査隊を派遣する。表向きは討伐だが、真の目的は封印の地の確認だ」
「書き変えるのは可能ですが、閣下が現地へ直接赴くのは危険ですよ」
ラストゥーリャが即座に反論する。
「もし犯人の手の者が先回りして、封印の地で待ち構えていたら——」
ウェントワースも同意するように続けた。
「だからこそだ」
シェイルの声はあくまでも淡々としている。
「最後の生贄を探しているのならば、こちらから囮を用意する」
「囮……ですか」
ウェントワースが眉をひそめる。
「黒の色持ちで、魔力値の高い者となると……だいぶ候補は限られますが」
「心当たりがある」
シェイルの言葉に、ラストゥーリャがぎょっとしたような顔を浮かべたが、苦笑を返された。
「お前には無理だろう。目立ちすぎる。それに式の書き換えを優先してもらいたい。――下弦通りに店を構えている女だ。リゼットという黒髪に濃紺の瞳をした女——今までも何度か情報提供をしてもらったことがある」
凛子の心臓が、大きく跳ねた。
「あー娼館の……女将、ですか」
確認するように問うウェントワースに、シェイルは地図から目を離さず答えた。
「あいつは魔力値もそこそこある。それに、割と度胸があるからな。こちらの意図を理解した上で、協力してくれるだろう」
流れる様な言葉の内容を理解した瞬間、凛子の心臓が──音を立てて落ちていく。
娼館。
女将。
シェイルが懇意にしている女。
協力を受ける度胸を、彼はよく知っている。
「確かに、彼女は適任かもしれません。娼館という場所柄、護衛を付けても不自然ではありませんし」
「今夜、俺が直接交渉に行く」
シェイルの言葉に、凛子はじっと床石の溝を視線でたどる。
「リィン」
ラストゥーリャの声が、凛子の思考を遮る。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
本当の理由を口にできるはずもなかった。
「少し、疲れているだけですよ」
「明日からは、討伐隊の準備に入る。カミ―ヤ、お前には物資調達と行程管理を任せる」
「判りました」
シェイルからの命に、凛子が返した声は、どこか上の空だった。
◇◇◇
会議が終わり、凛子は一人執務室に残り散らばった資料を片付けていた。
シェイルは既に外出の準備を始めている。
「閣下」
凛子は考えなしに声をかけてしまってから、後悔した。
「何だ」
「その……リゼットさんという方は、本当に危険な役割を引き受けてくださるんでしょうか」
シェイルは軍服の上着を羽織りながら、凛子を一瞥した。
「リゼットは商売人だ。相応の報酬を出せば、引き受けるだろう」
「でも……命に関わることですよ」
「それも含めて、交渉する」
冷たく切り捨てるような声。
続いて、短い息と共に落とされた一言は、刃より鋭かった。
「……お前が俺に誰を重ねているか知らんが、そういう目で見られるのは不快だ」
空気が凍りつく。
息の仕方すら分からなくなり、ただ項垂れた。
シェイルはそれ以上何も言わず部屋を出て行った。
扉が閉まった瞬間、胸の奥に溜め込んだ何かが、ゆっくり崩れ落ちた。
「えーっと、これ、もしかして私……嫉妬、してんの?」
呻くように呟いて、凛子は首を振る。
この感情が、何なのか。今更過ぎる。
かつての関係は、もうシェイルの中には存在しないのだ。
それなのに——。
シェイルが別の女性のもとへ向かうという事実を受け止めきれないでいた。
それを止める権利も、理由も、自分にはない。
「仕事、しよ」
凛子は机に向かい、明日からの準備書類を広げた。
しかし、文字は頭に入ってこない。
ペンを持つ手が、微かに震えていた。
◇◇◇
軍官舎に戻ると、カトレアが心配そうに寄ってきた。
「今日は一段と疲れているな」
「ちょっと……色々ありまして。すごく飲みたい気分です」
凛子は曖昧に笑う。
「無理はするなと言ったはずだが、深酒は感心できん」
カトレアは凛子の肩に手を置く。
「軍の仕事は、思っている以上に過酷だ。特に、閣下のような方に仕えるのは」
「カトレアさんも、閣下の下で働いていたんですか?」
「いや、私は近衛に居た頃、何度か共同任務をしたことがあるだけだ。だが——あの方は、誰よりも厳しく、誰よりも孤独な方だ」
「孤独」
その言葉が胸に刺さる。
「ああ。王族でありながら、常に最前線に立つ。部下を守り、国を守り——しかし、自分を守る者は誰もいない。だから、秘書官のお前が少しでも負担を軽くしてやれ。心配しているだろう」
「……できるかな」
「できるさ。あの大賢者の下で鍛えられたんだ。気持ちがあれば十分だ」
優しい声が凛子を包んだ。
しかし、彼女の心は別の方向を向いていた。
暗く、遠く、誰にも言えない場所へ。
「ありがとうございます」
「さあ、今日はもう休め。明日からまた、忙しくなるだろう」
窓の外。王宮の灯。その向こう、街の灯。
胸の奥でにじむ感情が、次第に正体を得ていった。
「そっかあ……」
呟いた言葉が、静かな部屋に溶けた。
彼との記憶は、今や自分だけのもの。
彼は忘れ、彼女だけが覚えている過去。
今夜、シェイルが向かう場所には──自分の知らない彼の顔が、きっとある。
その想像だけで、胸の奥がじくりと疼く。
そしてその痛みこそが、答えだった。




